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と金の軍師 〜記憶なき将棋名人、土佐の隅から天下を詰ます〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第四話 横歩

土佐の湊に、堺の船が着く日を、宗佐は、待っていた。


塩や米の値だけが、目当てではない。船は、海の向こうの報せを積んでくる。土佐の隅に座っていては、決して見えぬ、もっと大きな盤の報せを。


和泉屋(いずみや)、という廻船の商人がいた。年に幾度か、堺から土佐へ下ってくる、肥えて、目の小さい、世慣れた男だった。宗佐は、その男を、浜の茶屋に座らせ、酒を一本つけて、海の向こうを問うた。


「天下のことを」と、和泉屋は、酒を舐めて、薄く笑った。「土佐の隅で気にして、何になりますな。軍師さまも、物好きな」


「物好きでいい。話せ」


和泉屋は、肩をすくめて、語りはじめた。


海の向こう、東の本州には、天下の真ん中と呼ばれる土地がある。畿内(きない)。京の都のあるあたりだ。だが、その都を治めるはずの将軍家は、もはや影のようなもので、名ばかりに痩せている。代わりに、刀で都を押さえているのが、阿波(あわ)から出た三好(みよし)という家だという。


「ですがな、その三好とて、いつまで保つやら。畿内は、毎年のように、誰かが誰かを討っておる。去年の勝ち頭が、今年は首になっておる。あすこは、そういう土地でしてな」和泉屋は、酒の肴をつまんだ。「つい先頃も、東の駿河(するが)の大守が、尾張(おわり)小名(しょうみょう)風情に、不意を突かれて討たれたとか。大きな家が、小さな家に。——まあ、遠い国の、よその喧嘩でございますよ」


宗佐は、その話に、何も言わなかった。一つの報せとして、聞いた。ただ一つの報せは、雑音だ。聞いて、流した。


「四国は」と、宗佐は問うた。


「四国は、その本州から、海を一つ隔てた、田舎でございます」和泉屋は、指で、卓の上に四つの区を切った。「東の阿波と讃岐(さぬき)は、三好のお膝元。本州に近いぶん、都の風が吹いてまいります。北の伊予(いよ)は、また別の話。そして、ここ」と、指は、卓のいちばん端を叩いた。「南の土佐。四国の、いちばん奥。海の果ての、行き止まりでございますよ」


「その土佐に」と宗佐は言った。「七つの家が、ひしめいている」


「左様。七雄、などと申しますが」和泉屋は、また薄く笑った。「まともな家は、西の一条(いちじょう)さまくらいのもの。あれは元が京のお公家で、別格。(みかど)にも将軍家にも、細い糸が通っておる。残りは、どんぐりの背比べ。中でも本山(もとやま)安芸(あき)が、二つの大きなどんぐり」


そして、和泉屋は、宗佐の主家の名を、いちばん最後に、いちばん軽く、口にした。


長宗我部ちょうそかべさまは——失礼ながら、その背比べの中でも、いちばん小さなどんぐりで」


宗佐は、卓の上の四つの区を、見ていた。


頭の中で、それは、入れ子になった盤に見えた。本州という、果ての見えぬ大盤。その隅に置かれた、四国という小盤。さらにその隅の、土佐。そして、その土佐の、また隅に——長宗我部という、たった一枚の歩が、置かれている。


隅の、隅の、そのまた隅の、歩一枚。


その歩が、いつか、果ての見えぬ大盤の真ん中の玉を、詰ます。和泉屋に言えば、酒を噴くだろう。土佐の隅で天下を気にするのが物好きなら、隅の歩で天下を詰まそうとするのは、狂人だ。


宗佐は、言わなかった。ただ、覚えた。本州、四国、土佐、長宗我部ちょうそかべ。盤は、四重になっている。今、自分が読んでいるのは、いちばん奥の、いちばん小さな盤だ。だが、いちばん奥の盤も、いちばん外の盤と、海と道で、確かに繋がっている。


「ところで、軍師さま」

和泉屋が声をひそめた。

「その小さな歩の喉が、いま、誰かに握られておりますな」


宗佐は、その問いに、答えなかった。


答えは、知っていた。


霧は、晴れた。だが、晴れた盤の上で、長宗我部ちょうそかべは、ゆっくりと飢えはじめていた。


夜烏の霧を破った勝ちは、土佐の北に、束の間の明るみを作った。その明るみへ、本山は、まったく違う手を打ってきた。兵をぶつけてこない。城から出てこない。ただ、(かなめ)を、握った。


北の渡河点。山道の口。炭焼きの谷。そして、塩の集積する湊。長宗我部が米と兵を動かすために、どうしても通らねばならぬ升を、一つずつ、静かに押さえた。押さえて、待った。


握っているのは、本山方の城代。名を、蔵人(くらんど)といった。痩せて、声の低い男だという。戦場では、ついぞ姿を見せない。陣の奥で算盤を弾き、兵糧蔵の鍵を握り、長宗我部の喉が渇くのを、ただ待つ。


干殺(ほしごろ)しの蔵人。土佐の者は、そう呼んだ。


蔵人は、村を焼いた。だが、夜烏のように脅すためではない。長宗我部ちょうそかべへ流れるはずの米を、根こそぎ自分の蔵へ移すために、焼いた。村が飢えて死のうが、関心はない。米は、蔵人の蔵にあればいい。冷たい、というのとも違った。算盤に、温度はない。


長宗我部ちょうそかべの陣で、一人の古強者が、絵図の前に胡座をかいて、低く唸った。


「攻め口が、ない」


茂助、といった。四十を越えた、一領具足の男。半分は百姓、半分は兵。土の匂いのする、節くれだった手をしていた。長浜から元親に従い、戦場の道という道、米俵の重さという重さを、体で知っている男だった。


「城を攻めれば、こちらが先に削れる。兵が、足りん」

茂助は、宗佐をちらりと見た。流れ者の軍師を、まだ信じていない目だった。

「守っておれば、蔵人に絞り殺される。あの男は、急がん。秋まで待てば、わしら一領具足は、田へ帰らねば食えん。兵が溶ける。蔵人は、それを待っておるのよ」


その通りだ、と宗佐は思った。


これは、遅い負け将棋だ。


蔵人は、駒をぶつけてこない。盤を、与えてくれない。読むべき手がなければ、宗佐の読みは、使いようがない。ただ、こちらの升が、一つずつ、塞がれていく。受けに回れば回るほど、形が細る。攻めに出れば、寡兵が裂ける。どう指しても、ゆっくりと、確実に、負ける。秋という、動かせぬ刻限へ向かって。


宗佐は、絵図を睨んだまま、動かなかった。


その、じりじりと締まっていく感覚に、覚えがあった。盤が狭い。指し手が細る。受けても受けても、楽にならない。手が、なくなっていく——


そして、唐突に、目の前の絵図が、消えた。


静かな部屋だった。


畳。障子越しの、白い光。正面に、人が一人。顔は、霞んでいる。二人の間に、盤がある。


硬い音が、刻まれていた。秒を刻む、規則正しい音。そして、低い声が、その音に重なる。「——九秒。十秒」。


盤の上の形を、男は知っていた。自分の飛車が、敵陣の深くまで踏み込んで、歩を一枚、払っている。横の歩を、取った形。取れば、飛車は裸になる。退き道は、細い。敵の駒が、その裸の飛車へ、牙を剥こうとしている。


危うい。受けに回れば、安全だ。だが、受けに回れば——この狭い盤で、自分は、ゆっくり細って、負ける。


だから、取る。


歩を、取る。飛車を、裸にする。盤を、割る。安全を捨てて、形を、めちゃくちゃに開く。


なぜなら——割れた盤でこそ、深く読める者が、勝つからだ。静かな締め合いでは、相手にも時間がある。だが、盤を割れば、一手ごとに、深く正確に読む者だけが、生き残る。乱戦は、読みの量が、そのまま命になる。


男は、歩を、取った。


秒を刻む音が、止まった。


——障子の光が、夏の谷の光に、戻っていた。


宗佐は、絵図の前にいた。どれほどの間、そうしていたのか、わからない。だが、手の中に、答えがあった。今、ここに引きずり出してきた、それだけの答えが。


「守れば、削られます」と、宗佐は言った。声が、少し、掠れていた。


茂助が、顔を上げた。


「ならば、敵の歩を、取る」


宗佐は、絵図の一点を、指した。蔵人の陣の、ずっと奥。北の渡河点よりも、さらに向こう。山ひとつ越えた、敵地の最も深い場所に、一つ、肥えた兵糧蔵があった。


「ここを、取ります」


茂助の顔が、強張った。久武が、すぐに噛みついた。


「正気か。そこへ入れば、戻れぬ。背を、敵の城に晒すのだぞ。本拠は薄くなる。退き道もない。——軍師どの、それは攻めではない。捨て身の、自殺だ」


久武は、正しかった。盤の上の理屈で言えば、その一手は、危うすぎる。飛車を、裸にする手だ。


「戻るために、行くのではありませぬ」と宗佐は言った。「敵を、戻らせるために、行くのです」


宗佐は、絵図の上で、ここから先に起きることを、一手ずつ、並べていった。


蔵人は、要を握って、待っている。だが、その肥えた蔵を奪われれば、待ってはいられない。あの男は、算盤の男だ。蔵の米は、蔵人にとって、握った要そのもの。米を失えば、長宗我部を干す手立てが、消える。ゆえに蔵人は、必ず、握っていた要を放して、奪われた蔵を取り返しに、軍を戻す。


動かぬ男を、動かす。


「蔵人が動けば」と宗佐は言った。「初めて、盤が、出来ます。あの男が要を握って動かぬかぎり、読むべき手はない。だが、動いた瞬間、敵の駒が、盤の上に現れる。そこから先は——わたしの升です」


そして宗佐は、その先を読んだ。


蔵人が蔵を取り返しに戻るなら、通れる道は、限られる。山ひとつ越えた敵地の奥から、軍を返す道。茂助の知る、土佐の地形。大勢が、まとまって急いで戻れる道は、ただ一筋。その一筋の途中に、両側を山に挟まれた、細い口がある。


「ここで」と宗佐は、その口を指した。「若様の手勢が、待ち受ける」


久武が、なお食い下がった。「奪いに行った兵は、どうなる。敵地の奥で、孤立する。蔵人が戻る前に、城から討ち手が出れば、皆殺しだ」


「出ません」と宗佐は答えた。「蔵人は、算盤の男です。奪われた蔵の米を、惜しむ。城の兵で奪い返しに来れば、戻る途中で米を焼かれかねぬ。あの男は、自分の本隊で、確実に取り返しに来ます。確実を好む男ゆえに、確実な道を、確実な刻に、通る。——奪った兵は、蔵を守りませぬ。守れぬ蔵に、用はない。火だけかけて、すぐに退きます。蔵人が戻ってくる、その口へ向けて」


攻めている。だが、宗佐の頭の中では、攻めの一手ごとに、退き道と、味方の安全が、すべて読み切られていた。奪い、焼き、退き、誘い、塞ぐ。一手も、宙に浮いていない。裸にした飛車が、どこをどう通って生き延びるか——それを読み切っているからこそ、裸に、できる。


「この道を」と宗佐は、茂助に問うた。「百の兵で、山を越えて、抜けられるか」


茂助は、絵図を、しばらく睨んだ。土の匂いのする手で、顎を撫でた。


「兵なら、無理じゃ」と、やがて言った。「具足を着けた百の兵が、あの山を越える前に、秋が来る。——だが、百姓なら、行ける。鎧を脱がせろ。荷を捨てさせろ。米と火種だけ持たせて、裸足で行かせろ。一領具足は、半分は百姓じゃ。山の歩き方を、知っとる」


宗佐は、茂助を見た。初めて、この古強者の使い道が、はっきりと見えた。宗佐が盤を読む。茂助が、その読みを、土の上で歩ける形に、直す。


「鎧を、脱がせます」と宗佐は言った。


奪いに走る手勢は、元親の弟、吉良親貞(よしら ちかさだ)が率いた。兄に似て、血の気の多い、若い刃だった。具足を脱ぎ、米と火種だけを背負った百姓兵を率いて、親貞は、夜の山へ消えた。茂助が、その先を、土地の者の足で導いた。


三日後、敵地の奥の兵糧蔵が、焼けた。


煙は、山ひとつ越えて、本山の陣からも見えた。


宗佐は、奪った蔵の中身の報せを聞いて、一つだけ、胸に留めたものがあった。蔵には、米のほかに、硝石(しょうせき)が、わずかに積まれていた。だが、思っていたより、ずっと、少なかった。土佐の奥のこんな蔵にまで、硝石が乏しい。——どこかで、誰かが、根こそぎ買い集めている。今は、聞き流した。聞き流して、忘れぬように、留めた。


そして、蔵人が、動いた。


宗佐の読んだ通りだった。算盤の男は、握っていた要のすべてを放し、本隊をまとめ、奪われた蔵を取り返しに——いや、もはや蔵は焼けている。蔵を焼いた者を、討ち取りに、軍を返した。確実を好む男が、確実な道を、確実な刻に、選んだ。


動かぬはずの男が、盤の上に、出てきた。


「見えました」と宗佐は言った。「敵が、升に乗りました」


ここから先は、速かった。


火をかけてすぐ退いた親貞の手勢は、蔵を守らなかった。守れぬ蔵に、用はない。ただ、蔵人の本隊を、両側を山に挟まれたあの細い口へ向けて、ちらつきながら、引いていった。餌を見せて、退く。蔵人は、追った。米を焼いた者を、確実に討つために。


その細い口で、元親が、待っていた。


口は、人が数人並ぶのがやっとの、痩せ尾根の道だった。両側は、切り立った谷。大勢が、まとまって急いで通れば、列は、細く長く伸びる。先頭と後尾が、互いに、互いを助けられぬ。


蔵人の本隊が、その口へ、半ば入った。


「指すのは、俺だ」


元親が、痩せ尾根の上から、突き入れた。


伸びきった蔵人の列の、ちょうど真ん中へ。長く細く伸びた敵は、前も後ろも、互いを救えなかった。先頭は前へ逃げ、後尾は後ろへ崩れ、真ん中を、断たれた。算盤の男の、確実な計算の中に、たった一つ、入っていなかったものがあった。確実な道は、確実に、待ち伏せられる、ということだ。


蔵人は、退いた。本隊を裂かれ、握っていた要のすべてを放り出して。要を放した蔵人は、もう、長宗我部を干せない。彼が秋まで握っているはずだった升は、すべて、空いた。


宗佐は、敵を、一兵も多く殺してはいなかった。


ただ、敵の次の手を、消した。干殺し、という手を、盤の上から、消し去った。


これが、横歩取りだ、と宗佐は、胸の内で、ただ一度、その名を呼んだ。狭い盤で細って死ぬくらいなら、敵陣深くの歩を取り、飛車を裸にして、盤を割る。割れた盤の乱戦を、誰より深く読み切って、生き残る。受けながら細る将棋を、一手で、攻め合いに変える。


勝った。秋が来る前に。


陣は、沸いた。奪った兵糧が運び込まれ、飢えかけていた兵が、久しぶりに腹を満たした。久武でさえ、宗佐へ何も言わなかった。言えなかった。


ただ一人、茂助だけが、沸く陣の隅で、冷めた目をしていた。


「軍師さま」と、茂助は、節くれだった手で、運び込まれる米俵を撫でながら、言った。「この米はな、本山の米ではない。本山が、村から奪った米じゃ。元は、百姓の米よ」


宗佐は、黙って聞いていた。


「わしらが本山から奪えば、本山は、また村から奪う。村は、二度、奪われる。蔵人に焼かれ、こんどは、戦場になってな」茂助は、宗佐を見た。責めてはいなかった。ただ、見てきた者の、低い声だった。「敵の米を奪えば、敵の村が飢える。敵の村が飢えれば——次は、村が、槍を持つ。あんたの勝ちは、いつも鮮やかじゃ。だが、鮮やかな勝ちの先で、誰かが、いつも、槍を研いどる。それだけは、覚えておきなされ」


宗佐は、何も答えなかった。


答えは、なかった。茂助は、正しかった。盤の上の歩には、妻子はいない。だが、土佐の歩には、いた。


その夜、宗佐は、空いた升を、絵図の上で、一つずつ確かめた。蔵人の握っていた要は、すべて、長宗我部のものになった。盤は、確かに、開いた。


だが、その開いた盤の、焼けた村のあたりに、宗佐は、まだ盤駒にも、味方にもなっていない、無数の小さな歩を、見た。飢えて、奪われて、これからどちらに転ぶともしれぬ、土地の者たちを。


奪った升は、増えた。


守る升も、増えた。


横歩を取れば、飛車は裸になる。盤を割れば、こちらの(ぎょく)も、風に晒される。取った勝ちには、いつも、取った分の、裸がついてくる。


宗佐は、絵図を、長いこと見ていた。


秋の、近い匂いがした。

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