第三話 霧
長浜の勝ち鬨が、まだ村々に残っているうちに、長宗我部国親は死んだ。
病だった。息子の初陣を見届け、土佐の北を本山から取り返す形を、わずかに作って、それで力を使い果たしたように逝った。勝った将棋を、盤ごと攫っていくものがある。父の死は、長浜の勝ちを、まるで前祝いのように見せた。
家督は、元親が継いだ。二十をいくつか過ぎたばかりの当主。先頃まで姫若子と嗤われていた男が、周囲を大駒に囲まれた負け局面を、まるごと背負わされた。北に本山、東に安芸、西に一条。土佐は、いまだひどい負け将棋のままだった。
そして、その当主の傍らには、素性の知れぬ男が一人、座っていた。
宗佐。本山方から流れてきて、長浜で拾われ、名を与えられた男。家中の目は、冷たかった。
だが、宗佐が気にかけたのは、目の冷たさではなかった。その冷たさの、形だった。
——疑いに、形がある。
人の疑いは、ふつう、ばらばらに湧く。あの者は怪しい、と思う者と、思わぬ者がいる。だが、ここ数日、家中の宗佐への疑いは、まるで同じ鋳型から抜いたように、同じ言葉で語られていた。あの男は本山の手の者だ。長浜で拾われたのも、はじめから仕組まれていた。流れ者と見せて、こちらの内を探っている、と。
誰かが、撒いている。
喪の明けきらぬ評定の間で、若い譜代の一人が、その鋳型の言葉を、声に出した。
「拾うた犬に、盤を読ませる。——その犬が、隣の家の飼い犬であってもか」
久武、といった。目端の利く、野心の見える若者だった。馬鹿ではない。だからこそ、この疑いを、自分の言葉として磨き上げていた。「証はない。だが、家を預かる者として、警めるのは当然でござろう」
その通りだ、と宗佐は胸の内で認めた。久武は、正しい。証のない男を、当主の傍らに置くのは、危うい。久武は、家を守ろうとしている。
ただ、久武が手にした疑いの鋳型を、誰が彼に渡したのか。それを、久武自身は知らない。
評定のあと、元親が宗佐に問うた。
「本山は、来るか」
「来ます」と宗佐は答えた。「父君が亡くなった。新しい当主の、力を試しに。間を置かず、小さく」
「読めるか」
宗佐は、そこで、わずかに黙った。
「——既に見えてる升目なら」
数日して、本山方の動きが、続々と入ってきた。
物見が、北の峠に煙を見た。馬借が、北へ向かう兵糧の荷を見た。境の村が、夜ごと甲冑の音を聞いた。境の寺に泊まった旅僧が、北の谷に兵が溜まっている、と触れて回った。すべてが、北の峠を指していた。本山は、北から来る。
家中は、色めき立った。北だ。北を固めよ。
宗佐だけが、絵図の前で、動かなかった。
知らせが、揃いすぎていた。
本物の知らせは、どこか欠ける。物見の見た煙と、馬借の見た荷と、村の聞いた音は、ふつう、食い違う。場所がずれ、刻がずれ、数が合わぬ。人の目は、それぞれ別の角から、別のものを見るからだ。その食い違いの中から、真を拾うのが、読むということだった。
だが、今度の知らせには、欠けがなかった。煙も、荷も、音も、旅僧の言も、寸分たがわず北を指していた。
——欠けがないのは、誰かが、欠けを埋めたからだ。
宗佐の背を、冷たいものが這った。それは、恐れではなかった。もっと、静かなものだった。
霧が、濃いのではない。誰かが、濃く、見せている。村を黙らせ、偽の荷を引かせ、旅僧に偽りを語らせ、家中に偽りの疑いを撒いた、同じ手だ。盤のこちらが何も見えぬように、影だけを、丹念に並べた者がいる。
盤の向こうに、盤を隠す者がいた。
宗佐は、その手つきを、ほとんど美しいと思った。盤を読む者を殺すには、盤そのものを隠せばいい。それを知る者が、霧の向こうに、いた。
「北は来る」と、宗佐は誰にともなく呟いた。「だが、北だけを、見せたいのだ。本命は、北が見えすぎることの、裏にある」
裏を読むには、盤が要る。だが盤は、霧の中だ。
ならば——目を、置くしかない。
宗佐は、その日から、武士のせぬことを始めた。
港の塩商人に、塩の値を聞いた。「北の村で、塩が、いつもより捌けておらぬか」。
兵は飯を食う。飯は塩を食う。塩が動かぬ場所に、大勢の兵は、隠れられない。北で塩が動いておらぬなら、北に溜まっているはずの兵は、まだそこにはいない。どこか、別の升にいる。
馬借に、馬の疲れを聞いた。「北へ運んだ馬の、脚の泥は、どこの色だ」。北の道の泥でなければ、その荷は、北へは行っていない。揃いすぎた影の、つなぎ目を探した。
そして、谷あいの貧しい村へ、自ら足を運んだ。三年前、まだ名も無く、川に落ちて溺れかけた男を、葦から引き上げた老爺が、まだそこにいた。
弥助、といった。あの朝、弥助は何も問わず、ただ水を飲ませ、軒の隅を貸した。三年、宗佐はその村で、名も無いまま薪を割った。弥助に頼める縁が、宗佐には、たった一つ、あった。
「爺。沢筋を、見てくれ」と宗佐は言った。「北ではない。誰も口にせぬ、あの細い沢だ。人がいるか、いないか。それだけでいい」
弥助は、皺の中の目で、長いこと宗佐を見た。それから、ゆっくりと頷いた。名も無い男に水をやった時と、同じ頷き方だった。
村の寺にも、寄った。本堂の隅で、痩せた小坊主が、顔も上げずに経を写していた。
「沢筋の村なら」と、その子は、宗佐が問う前に言った。「三日前から、鳥が、散っております」
宗佐は、足を止めた。
「鳥が」
「寺は、高うございます」と、小坊主は筆を止めずに言った。年は十二、三か。目だけが、奇妙に澄んでいた。「高いところからは、谷が、よう見えます。鳥は、人を嫌います。人が一度通れば、散って、また戻る。ですが、戻らぬなら——そこに、人が、居続けております。沢筋の木立から、三日前に鳥が散って、それきり、戻りませぬ」
北の峠の鳥は、と宗佐は問うた。
「北は、いつも通りに、おります」と、子は答えた。「大勢おれば、鳥は散ります。北の鳥が散らぬのは、北に、まだ兵がおらぬからでしょう」
宗佐は、その澄んだ目を、見た。
塩も、馬の泥も、鳥も、すべてが、同じ一点を指していた。北ではない。沢筋だ。三筋の別々の世界が、一点で交わったとき、それはもう、偶然ではない。読み筋だ。自分が霧と呼んだものの中に、この子は、ずっと座っていた。高みから、谷の升を、鳥の散り方で、数えていた。
「名は」
「了円、と」
「その目を、貸せ」宗佐は言った。「お前が高みから見た谷を、俺が読む」
了円は、初めて、筆を止めた。
「軍師さまは」と、子は言った。「沢筋の村の者を、見張りに使うおつもりですか。村が、見たと知れれば、本山は村を焼きます」
「焼かせぬ」と宗佐は言った。「一人が見た、と悟らせぬ。塩を見た者、馬の泥を見た者、鳥を見た者、沢を見た者——皆が、ほんの少しずつ見る。一人では、何も見ていない。束ねるのは、俺一人だ。誰が何を見たかは、俺の頭の中にしかない。焼くべき村が、本山には、わからぬ」
了円は、その澄んだ目で、宗佐をしばらく見ていた。それから、また筆を取った。
「ならば、お貸しします」と、子は言った。妙に大人びた、静かな声だった。「ただし、束ねる頭が、討たれませぬよう。頭が割れれば、束ねられた目は、一斉に焼かれます」
宗佐は、本陣に戻り、絵図の前で、元親に告げた。
「北は来ます。ですが、北だけを、見せたいのです。本命は、沢筋。伏兵が、沢から出ます」
「証は」と、傍らで久武が言った。「商人の噂と、坊主の鳥の話で、北を捨てよと。——軍師どの。これこそが、本山の手ではござらぬか。あなたが我らに北を捨てさせ、沢へ気を取らせる。その隙に、北の本隊が雪崩れ込む。本山の手の者なら、ちょうど、そう動かす」
宗佐は、久武を見た。久武の読みは、筋が通っていた。宗佐が本山の間者なら、まさにそう指す。
「ならば、両方を、読みます」と宗佐は言った。「北で、受けます。沢筋には、備えませぬ——備えれば、敵に読まれたと知れる。ただし、若様の旗本だけは、決して前へ出し切ってはなりませぬ。北にも、沢にも、出さぬ。手元に、残す」
久武が、鼻で笑った。「勝つと言いながら、虎の子を遊ばせるか」
「遊び駒ではない」
宗佐は、絵図の沢筋に指を置いた。
「受けとは、敵の手を止めることではございませぬ。敵の手を、続かぬ形にすることにございます」
「続かぬ形?」
「北を厚くすれば、敵は沢を出さぬ。沢を厚くすれば、敵は北を押す。どちらにも兵を貼れば、こちらが薄くなる。薄くなれば、受けたつもりで、敵に手番を渡す」
宗佐は、指を沢の口へ移した。
「沢から出た兵は、沢へ戻るしかありませぬ。出させて、口を塞ぐ。攻めてきた駒は、帰り道を失えば、敵の重荷になります」
久武の笑みが、少しだけ消えた。
「ゆえに、旗本は遊ばせるのではない。動かさぬことで、見えぬ升へ利かせておくのです」
元親が、口を開いた。
「久武」と、若い当主は言った。「この男が本山の犬なら、長浜で、俺を勝たせはせん。あそこで俺が死んでおれば、本山は、それで済んだ。犬は、飼い主を勝たせる。俺を勝たせたのは、こいつだ」
それから、宗佐を見た。
「北で受ける。旗本は、残す。——沢が来たら、指すのは、俺だ」
本山は、北から来た。
物見の煙の通り、馬借の荷の通り、旅僧の言の通り、寸分たがわず、北の峠を下ってきた。確かに、本物の兵だった。家中は、北で受けた。揃いすぎた知らせの通りに、敵が現れたことで、久武の顔には、勝ち誇りに似たものさえ浮かんだ。それ見たことか、北だ、と。
本物を混ぜた嘘は、強い。北が嘘なら、誰も騙されはしない。北が本物だからこそ、家中の目は、北に吸い寄せられた。
その、北に皆の目が吸い寄せられた一瞬——細い沢筋から、伏兵が、噴き出した。
長宗我部の横が、裂けかけた。北を受けることに気を取られた列の、無防備な脇腹へ。
宗佐は、笑わなかった。ただ、静かに言った。
「——ようやく、見えました」
見えぬ升は、伏兵が自ら姿を現した瞬間、見える升に変わる。そして見えてしまえば、宗佐は誤らない。
沢は、人二人が並ぶのがやっとの細道だった。濡れた石が足を滑らせ、両側は木立と崖でふさがっている。そこから出た兵は、もう列を戻せない。戻ろうとすれば、後ろの兵が、つかえる。
「若様。沢の口を、塞ぎなさい。旗本で」
元親の旗本は、まだ、手元にあった。久武が遊ばせると嗤った、最後の一手が。
元親が、馬首を返した。手元に残した旗本を束ね、伏兵が背にした細い咽喉へ、まっすぐ突き入れた。
沢の口が、閉じた。
出てきた伏兵は、自分の出てきた穴を背に、行き場を失った。横へ引こうにも、木立と崖。退こうにも、後ろがつかえる。さっきまで長宗我部の脇腹を食っていた二の手が、今度は、自分の咽喉を押さえられて、もがいた。手番が、裏返った。
本山は、退いた。新しい当主を試しに来た小手調べは、その当主の手で、逆しまに折られた。
戦のあと、宗佐は、沢の上の尾根を、見上げた。
そこに、男が一人、立っていた。
兵ではなかった。具足も、旗もない。ただ、戦の終わった盤を、検分する者のように、立っていた。遠すぎて、顔は見えなかった。だが、その立ち方が、すべてを語っていた。慌てて逃げる者の立ち方では、なかった。仕掛けた手の、どこが破られたかを、確かめている立ち方だった。
霧を作った男だ、と宗佐は思った。村を黙らせ、偽の荷を引かせ、旅僧に偽りを語らせ、家中に疑いを撒いた、あの手の主。盤を、隠した者。
男は、宗佐の視線に気づいたように、こちらを向いた。そして——わずかに、頭を傾けた。
責めるでも、悔しがるでもなかった。隠した盤を、見つけられた者が、その一手だけを認める、そういう仕草だった。
次の瞬間、男は、尾根の向こうへ消えていた。
「逃がしましたな」と、いつのまにか傍らに来ていた久武が、低く言った。勝ち戦の中で、その声だけが、冷えていた。「勝った。だが、頭は、逃げた。——あれは、また来ますぞ、軍師どの。次は、もっと濃い霧を作って」
宗佐は、否まなかった。久武は、また、正しかった。
その夜、弥助が、本陣の外まで、宗佐を訪ねてきた。震えていた。沢を見た、それだけのことが、村に知れることを、恐れていた。
「わしが見たと知れれば」と、老爺は言った。「村は、焼かれますぞ」
「知れぬ」と宗佐は言った。「爺は、沢を見た。だが、塩を見たのは商人だ。馬の泥を見たのは馬借だ。鳥を見たのは坊主だ。誰一人、全部は見ておらぬ。全部を見たのは、俺だけだ。本山は、焼くべき村が、わからぬ」
弥助は、皺の中の目で、長いこと宗佐を見た。それから、三年前と同じように、ゆっくりと頷いた。名も無い男に、水を一杓くれた、あの頷きで。
宗佐は、本陣を出て、夜の谷を見た。
霧は、まだ白く、低く垂れていた。晴れては、いなかった。
晴れぬのだ、と宗佐は思った。霧は、向こうに、それを作り続ける男がいるかぎり、晴れはしない。あの男が生きているかぎり、土佐の升は、何度でも、影で塗り潰される。
晴らすのではない。穴を、開けるのだ。塩に、馬の泥に、鳥に、沢に——霧の中へ、自分の目を、一つずつ、置いていく。一人では何も見えぬ目を、束ねて、一枚の盤にする。
宗佐は、その日、土佐に最初の目を置いた。
そして、盤の向こうにも、その盤を隠そうとする手が一つあることを、忘れぬよう、胸に刻んだ。
霧は、晴れなかった。
ただ、一つだけ、升が開いた。
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