第二話 鬼若子
戦は、男が読んだより早く来た。
刈り入れの済まぬうちに、北の峠を越えて軍勢が下りてきた。本山の旗だった。谷の者は田を捨てて山へ逃げた。男は、最後の荷を背負った老婆を山道へ押し上げ、それから、振り返った。
逃げ遅れたのではない。最後まで盤の端に残った、というのが正しい。
土埃の立ち方。鳥の散り方。旗の流れ。戦が来る。その形を、見ずにはいられなかった。
代償は、すぐに来た。長宗我部の物見が、村に残っていた男を見つけた。素性の知れぬ余所者。北から流れ、戦の直前まで村に居座っていた男。疑うには十分だった。
「本山の間者だな」
縄を打たれ、川原に引き出された。三人の雑兵が囲み、一人が太刀を抜いた。日が傾き、刃が赤かった。
男は、刃を見なかった。川の向こう、北の野を見ていた。
「斬るなら、斬れ」
男は言った。声は、自分でも驚くほど静かだった。
「だが、その前に一つだけ言っておく。お前たちの右翼は、半刻のうちに崩れる」
太刀を構えた男の手が、止まった。
「……何だと」
「正面の兵は、数ほど重くない」
男は、川向こうの野を見たまま続けた。
「旗が多い。だが、槍の穂が少ない。土埃も軽い。あれは兵ではなく、兵に見せた列だ。本当の兵は、丘の陰にいる」
「見たのか。丘の向こうを」
「見ていない」
囲みが、しんとなった。
「見ずとも分かる。あの速さで、あの数に見せるなら、荷が足りぬ。弓も少ない。重いものは、別にある。丘の陰だ。お前たちが正面を厚く受ければ受けるほど、横が空く。空いた横から、回り込んだ本隊が雪崩れ込む。半刻だ」
太刀が、下りなかった。
雑兵たちは顔を見合わせた。間者にしては、語ることが大きすぎた。間者なら、味方の負け筋を、こうも淀みなく口にはしない。
「……連れて行け」と、物頭らしき男が低く言った。「若に見せろ。判じるのは、若だ」
縄を引かれ、男は本陣へ引き立てられた。そして、そこで初めて、その若者を見た。
長宗我部 弥三郎。家督を継ぐべき、長宗我部の嫡男。
色の白い、線の細い若者だった。具足が、まだ体に馴染んでいない。家臣たちの、その若者を見る目には、隠しきれぬ侮りがあった。姫若子。陰でそう囃されているのを、男はもう知っていた。二十をいくつか過ぎても初陣すら済ませず、武芸より歌書を好むと笑われる、弱い跡継ぎ。
事実、若者は今、傍らの老臣に、こう尋ねていた。
「槍は——どう構える。どこを突けばよい」
家臣たちが、目を伏せた。初陣を前に、槍の握りを問う大将。これから戦に出る男の言葉ではなかった。老臣が、噛んで含めるように答えた。「敵の、体一つ分。それより遠くは突かず、近くも突かず。目を、狙え」
「目を」と若者は復唱した。「分かった」
男は、その若者を見た。家臣たちが見ているのとは、違うものを見ていた。
槍も握れぬ。武も無い。皆に侮られている。盤の上で言えば、端へ追い詰められ、周りの駒に道を塞がれた王だ。誰もが「もう終い」と見ている。
だが、怯えていない。槍の構えを問う声は、震えていなかった。この若者は、侮られる形を、まだ自分の手で壊していないだけだ。
——あの村の盤と、同じだ。
誰もが詰みと見る側にこそ、隠れた逆転の手が、ただ一本だけ残っている。あとは、それを命を賭けて指せる者がいるかどうか。この若者の目には、その一手を指す覚悟があった。
「その者か」
若者の目が、縄を打たれた男に向いた。間者と聞かされていたはずだ。だがその目に、侮りはなかった。値踏みがあった。
「半刻で右翼が崩れると申したそうだな」と弥三郎は言った。「申せ。なぜそう読む。そして——どうすれば、勝つ」
家臣たちがざわついた。間者の世迷い言を、若が真に受けている。
男は、縄のまま、一歩前へ出た。
「正面は囮。本隊は丘の陰。お味方は、敵の半数にも足りぬ。この差で、正面も横も守ろうとすれば、薄く伸ばされ、囲まれて死ぬ。守るほど、負けます」
「ならば」
「守るのを、おやめなさい」
男は、地面に落ちていた小枝を拾い、川原の砂に線を引いた。横一文字。そして、その中央に、一点。
「全軍を動かす要は、ありませぬ。要るのは、一本の針。お味方の本隊は、薄く、長く、敵の正面を引きつけておくだけでよい。その間に——若様の手勢を、針となさい。囮の薄い腹、ただ一点へ、まっすぐ突き入れる。両の翼は、捨てる。崩れても構わぬ。針が敵の指揮へ届くまで、本隊はただ、敵を引きつけて、支える」
「背を取られるぞ」と老臣が遮った。「横を捨てれば、丘の本隊に回り込まれる」
「回り込んで囲いを閉じるには、間がいる。その間より早く、針を刺します。囲いが閉じる前に、敵の腹を抜いて、指揮を断つ。手番を、敵に渡さぬ。攻める権利を、寡兵の側が握り続ける」
砂の上の図は、単純だった。単純すぎて、誰も今まで指さなかった手だった。大軍を前に、寡兵が、守らずに、真っ向から中央へ突っ込む。正気とは思えぬ。
家臣たちが、口々に止めた。無謀だ。間者の罠だ。横を捨てるなど。
老臣が一度だけ、後陣へ走った。戻った時、その顔は硬かった。
「国親公の、裁きだ」と老臣は言った。「若の手勢で、試せと」
弥三郎は、砂の一点を、長いこと見ていた。
それから、顔を上げた。
「面白い」
その一言で、川原の声が止んだ。
「皆が、守れと言う。守って、囲まれて、削られて死ぬ。それが利口な負け方だというなら——俺は、その利口を要らぬ」
弥三郎は立ち上がり、槍を取った。さっき握りを問うたばかりの、その手で。
「針の先は、俺だ」
「若っ」
「外れれば、俺は死ぬ。当たれば、俺は今日、姫若子でなくなる」弥三郎は、男の顔をまっすぐに見た。「——どちらでも、指すのは俺だ。お前は、読め」
男は、その目を見返した。
戻ってきた記憶の中の、どの対局相手とも違う目だった。盤の向こうにいたのは、いつも、冷たく正しい影だった。だが、この若者は冷たくない。熱い。読みを、熱で実行する男だった。
指す者と、読む者。それが、噛み合った瞬間だった。
合戦は、男の引いた砂の図の通りに動いた。
長宗我部の本隊は、薄く、長く伸びて、本山の正面を引きつけた。その細い糸が破れぬうちにと、弥三郎の手勢だけが、中央の一点へ、針のように束ねられていく。本山は嗤った。囮の薄い正面へ、自ら頭から突っ込んでくる一握りの兵を見て、囲い込めると踏んだ。丘の陰の本隊が、横へ回り始める。
だが、間に合わなかった。
針が、本山の囮の腹を、一点で食い破った。先頭を駆けたのは、色白の若者だった。槍の握りを、半刻前に習ったばかりの若者だった。
その若者が、別人のように槍を振るっていた。教わった通り、敵の体一つ分。目を、狙って。一人、また一人。返り血で具足が黒く濡れ、白い顔が朱に染まり、それでも前へ、前へ。怯えはどこにもなかった。誰も止められなかった。味方さえも。
囮の正面が裂け、その奥にいた本山の指揮の旗が、揺れた。揺れた旗を見て、横へ回り込んでいた本隊の足が、止まった。囲うべき相手が、もう囲いの内側を突き破って、自分たちの心臓へ届いていたからだ。
手番が、消えた。
数で勝る側が、その瞬間、寡兵に対して、為す術を失った。攻める権利を、ただの一度も、握り返せぬまま。
男は、縄を打たれたまま、本陣の高みからそれを見ていた。守ると見せて中央を制し、手番を放さぬ攻め。胸の奥で、その形の名が、ひとつ過った。男のいた、あの静かな部屋でだけ通じる名。ここでは、誰一人として、その名を知る者はいない。
——いい形だ。
本山は崩れ、退いた。野に残ったのは、倍する敵を退けた、寡兵の旗だった。
その夜、弥三郎は、もう姫若子ではなかった。
男は縄を解かれ、本陣に呼ばれた。家臣たちは、戦の前とはまるで違う目で、男を見ていた。
「お前は、本山の側にいた駒だ」と弥三郎は言った。「だが俺は、お前を取った。取った駒は、捨てぬ。打ち直す。俺の傍で、盤を読め。俺が指す。お前が読む。今日のように」
弥三郎は、返り血を拭った顔で、男を見据えた。まだ若かったが、もう少年ではなかった。
「名は」
「ありませぬ」
「名が無いなら、俺がつける」
弥三郎は、少し考えた。
「宗佐」
「宗佐、でございますか」
「俺を佐けろ。戦の宗を読め。足りぬか」
「……過ぎた名に、ございます」
「なら、名に追いつけ」
宗佐、と男は胸の内で繰り返した。三年、名を持たなかった男に、初めて名が与えられた。敵に取られ、打ち直された、一枚の駒として。
——歩が一枚、打ち直された。
宗佐は、ふと、そう思った。あの村の盤の隅で、誰にも数えられていなかった、忘れられた歩。それが今、別の手番で、盤に戻された。最初の持ち駒は、自分自身だった。
外では、勝ち鬨が続いていた。だが宗佐は、もう次の盤を見ていた。
長浜は、一局に過ぎない。土佐という盤は、いまだ、ひどい負け将棋のままだ。北に本山、東に安芸、西に一条。大駒に囲まれ、王は若く、手駒は薄い。今日の一勝は、その負け局面に、ようやく一手、生きた手を指したというだけのこと。
だが、指す者が、見つかった。熱を持って、命を賭けて、宗佐の読みを盤に刻んでくれる、ただ一人の王が。
「宗佐」
弥三郎が呼んだ。
「次は、どう指す」
宗佐は、顔を上げた。冷たく、静かに、そして初めて、ほんの少しだけ、笑った。
「——まずは、敵を、見えるようにいたしましょう。この国は、霧が深すぎる」
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!




