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と金の軍師 〜記憶なき将棋名人、土佐の隅から天下を詰ます〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第一話 負け将棋

夏の終わりだった。男は、まだ誰の名も持っていなかった。


土佐の、名もない谷あいの村。男はそこで三度目の刈り入れを迎えようとしていた。どこから流れてきたのか、村の者も知らない。ある朝、川下の葦の中に倒れていたのを、年寄りが拾った。それだけだ。記憶は、その葦より手前で途切れている。自分が何者で、どこから来たのか、男は知らなかった。


水を汲み、薪を割り、牛の世話をする。問われれば頷き、問われなければ黙る。男の一日には重さがなかった。盆を過ぎても、稲が色づいても、胸のどこかが空いたままだった。喉の奥に、思い出せない言葉が一つ刺さっている——そういう空き方だった。


その日、村に小さな市が立った。塩を売る者、鍬を直す者、椀を並べる者。夕暮れ、村はずれの軒下に人だかりができているのを、男は薪束を背負ったまま見た。


男たちが、板を囲んでいた。


それは、木の板にただ線を引いただけの粗末なものだった。線で仕切られた升目の上に、字を彫った木片が並んでいる。墨はとうに薄れ、彫りも浅い。けれど男の足は、なぜか、そこで止まった。


升目。並んだ木片。手前の列に横一列の、同じ形をした小さな駒。彫られた字は崩れていたが、それでも読めた。


歩。


パチリ。


その瞬間だった。


頭の奥で、何かが音もなく割れた。


畳の匂いがした。しんと張りつめた、人のいない部屋の静けさ。盤を挟んで向かいに座る、影のような相手。何時間も、ただ一手を読み続けた指の冷たさ。秒を刻む声。背に貼りついた、勝たねばならぬという重み。


勝った盤。

勝った盤。

勝った盤。


その数だけ、人の息が止まる音を聞いた気がした。

自分は頂にいた。誰よりも深く読み、誰にも負けなかった。


男は、軒下の柱に手をついた。膝が笑った。記憶は戻らない。名も、顔も、生まれた町も、何ひとつ思い出せない。けれど、これだけは戻ってきた。


自分は、これを指す者だった。


目の前の粗末な板は、男の知る将棋とは違っていた。駒の形も、升目の感覚も、どこか古い。この村では、取った駒を戻さぬ取り決めらしい。だが、骨は同じだった。間違えようがない。


王を詰ませる遊びだ。


そして男の目は、もう、勝手に盤を読み始めていた。


打っているのは二人。片方は、痩せた若い百姓だった。指が震えている。もう片方は、肩を怒らせた男。身なりからして、村に出入りする侍の下働きか、庄屋に連なる者か。脇には欠けた銭と、百姓の腰の小刀が置かれていた。


賭けている。


百姓の王は、端へ追い詰められていた。周りの駒は薄い。守りの要は一枚だけ。相手の駒は多い。押し潰される寸前に見えた。


「もう終いだな」


肩を怒らせた男が言った。


「次で取る。手間をかけさせるな」


百姓はうつむいた。囲みの者たちも、半分は背を向けかけていた。


負け将棋だ。

誰もがそう見ていた。


男は、盤の前に立ったまま動かなかった。


違う。


負けているのは、百姓ではない。


男は盤面を見ていた。いや、盤面だけではなかった。木片の傾き。盤に残った指の跡。駒がどの道を通ってそこへ来たか。どの手で迷い、どの手で勢いに乗ったか。


見える。


三手前、肩を怒らせた男は王を追わずに、欲をかいて金を出た。

二手前、百姓は逃げたのではない。逃げさせられた。

一手前、勝ったと思った男が、自分の駒で自分の王の逃げ道を一つ塞いだ。


盤は、狭くなっていた。


「そこではない」


男の声が落ちた。


百姓が、はじかれたように顔を上げた。肩を怒らせた男も、囲みの者たちも、いっせいに余所者を見た。薪を背負った、名もない流れ者を。


「何だ」


肩を怒らせた男が目を細めた。


男は答えず、盤を見ていた。


「三手前」と、男は言った。「そなたは王を追わず、金を出た」


肩を怒らせた男の顔から、笑みが消えた。


「……見ていたのか」


「見ていない」


囲みがざわめいた。


「見ずとも分かる。そうでなければ、その金はそこに来ない。そこに金があるから、そなたの王は、もう右へ逃げられぬ」


肩を怒らせた男が、反射的に盤へ目を落とした。


右。確かに、ふさがっている。


「左も駄目だ」と男は言った。「香の筋が残っている。下へ引く升は、自分の銀が殺している。上へ出れば、端の歩が届く」


誰も息をしなかった。


百姓の指が、かすかに震えた。


「では、どうすれば」


「守るな」


男は言った。


「その駒を、相手の前へ捨てよ」


百姓は言われた駒を見た。最後の守りだった。それを動かせば、王の前が薄くなる。どう見ても、自ら首を差し出す手に見えた。


「正気か」


肩を怒らせた男が嗤った。


「最後の守りだぞ。捨てたら終いだ」


「取らねば、そちらが早く終わる」


男は静かに言った。その声に、笑いが少しだけ薄れた。


「何?」


「取らぬなら、その駒が次に成る。王は逃げられぬ。受けても間に合わぬ。だから、そなたは取る」


肩を怒らせた男は鼻で笑おうとした。だが笑えなかった。盤を見た。駒を数えた。取らない手を探した。王を逃がす手を探した。別の駒で受ける手を探した。


そのたびに、顔色が一つずつ変わった。


取らねば、もっと悪い。

逃げれば、追われる。

受ければ、端が間に合う。


取るしかない。


男は、それを見届けてから、百姓に目を向けた。


「捨てよ」


百姓は、最後の守りを、敵の前へ置いた。


囲みから、低い声が漏れた。たわけが。みすみす駒を捨てた。


肩を怒らせた男は、しばらく手を止めていた。怒りと疑いが顔の上でせめぎ合っていた。だが、やがて乱暴に駒を取った。


取った瞬間だった。


盤が、閉じた。


多すぎる駒が、道をふさいだ。攻めるために前へ出したはずの駒が、自分の王を囲い込んでいた。勝つために伸ばした手が、首に回っていた。


「歩を、進めよ」


百姓の指が、盤の隅へ伸びた。


そこに、誰も見ていなかった歩があった。初めからそこにいた。ただ、誰にも数えられていなかった。


歩が一つ、前へ出た。


それきり、軒下は静まった。


肩を怒らせた男の王には、どこにも行く升がなかった。右は自分の金。左は香の筋。下は銀。上は、たった今進んだ歩。


歩一枚に、頭を押さえられていた。


「……まだだ」


肩を怒らせた男が、かすれた声で言った。


「まだではない」


男は首を振った。


肩を怒らせた男は、別の駒へ手を伸ばした。


「それは動かせぬ」と男は言った。「動かせば王が抜ける」


手が止まる。今度は王へ手を伸ばした。


「そこへは行けぬ。香が利いている」


また止まる。最後に、遠くの駒へ目をやった。


「間に合わぬ」と男は言った。「そなたの手番は、もう無い」


誰も、声を出さなかった。


百姓は、自分が勝ったことをまだ信じていない顔で盤を見下ろしていた。肩を怒らせた男は、盤を睨んだまま、しばらく動かなかった。


やがて、歯の間から低い声が漏れた。


「……謀ったな」


男は答えなかった。


謀ったのではない。そうなる形だっただけだ。


賭けの銭が、土の上に転がった。百姓の小刀は、百姓の腰へ戻った。囲みの者たちは、口を閉じたまま、流れ者を見ていた。三年、この村で水を汲み薪を割ってきた、名も無い男を。


その視線の中で、男はようやく息を吐いた。


盤は狭い。だから読める。


ふと、そう思った。


だが次の瞬間、男の目は軒の向こうへ出ていた。夕暮れの村。煙の立つ家。子の走る畦。谷を出る一本の道。冬に増す川。北の峠。南の海。


すべてが、升目に見えた。


家々の配置。人の流れ。米の置き場。逃げ道。攻め口。守れぬ場所。守るべき場所。


そして男は、土佐という盤が、いま、ひどい負け将棋であることを知った。


北からも東からも、大きな駒に囲まれている。手駒は薄い。王は若く、囲いはない。誰が見ても、降りる局面だ。


——結構。


胸の奥で、戻ったばかりの自分が、静かにそう言うのを、男は聞いた。


これまで、自分はずっと勝っている側にいた。優勢を、正確に守る将棋ばかり指してきた。


だが今ここにいるのは、何も持たぬ男の体で、何も無い村の隅で、負けている側だ。


負けている側につくのは、悪くない。


たった今、やったばかりだ。


峠の向こうで、何かが動く気配がした。やがて、戦が来る。男には、もう、それが見えていた。

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