第4話 うちの猫が、急にいい子になった
ハクが山梨から帰ってきた翌日、久世がまた家に来た。
今度は玄関で跪かなかった。昨日の一件で多少は慣れたのかと思ったが、リビングへ通すとハクから一番遠い場所へ座ったので、たぶん違う。
当のハクはソファでヨーグルトを食べている。俺のではない。ちゃんと自分の名前が書いてあるやつだ。
「白虎様。昨日の件、ありがとうございました」
「うむ」
ハクはスプーンを咥えたまま頷いた。
久世によれば、山梨で起きていた異変は完全に収まったらしい。詳しいことを聞いても俺にはよく分からなかったが、放っておけば周辺にも影響が出るところだったという。
その説明を聞きながらハクを見ると、本人は空になったヨーグルトの容器を覗き込み、スプーンで底を何度も掻いていた。
世界を救った翌日の姿がこれである。
「それと、もう一つ」
久世の声が少し硬くなった。ハクも気づいたらしく、容器から顔を上げる。
「白虎様も、もう幼獣ではありません」
「見れば分かる」
「そういう意味ではございません」
久世は姿勢を正した。
「白虎様がこちらで暮らされることに、私どもから異論はございません」
「最初からそう言っておる」
「ですが、佐伯様にも生活があります」
ハクの手が止まった。
「別に俺は――」
「悠人」
珍しく、ハクはこちらを見なかった。
「よい。我も成獣じゃ。いつまでも子猫ではない」
空になった容器を手に立ち上がり、そのままキッチンへ向かう。久世は黙ってその背中を見送っていた。
俺も、そのときは特に気にしなかった。
*
翌朝、目を覚まして最初に感じたのは、身体の軽さだった。
胸の上に何もいない。
いつもなら目を開けた瞬間に白い毛が見えるか、巨大な前脚が布団を占領している。今日は天井まできれいに見えた。
横を向くと、ハクは人の姿で布団の外に立っていた。すでに着替えまで済ませている。
「おはよう、悠人。朝飯ができておるぞ」
「……おはよう」
ハクはそれだけ告げると、先に寝室を出ていった。
朝食を済ませて仕事を始めると、ハクは仕事部屋へ来なかった。
画面の前に白い頭が割り込まず、マウスにも触らない。放っておいたからといって風が吹くこともない。昨日に続いて、仕事は順調に進んだ。
途中でコーヒーを淹れにリビングへ行くと、ハクはテーブルで本を読んでいた。俺が入ってきても顔を上げただけで、いつものようについてくる様子はない。
「ずいぶん静かだな」
「仕事中なのであろう?」
「ああ」
「ならば邪魔はせぬ」
ページをめくるハクを残し、仕事部屋へ戻った。
昼になっても、腹が減ったという声は聞こえてこなかった。結局、俺の方から声をかけたが、ハクは後で食べると言うので、一人で昼飯を済ませた。
午後も仕事はよく進んだ。
予定していた作業を終え、余っていた細かい仕事まで片づける。それでも普段より早い。
パソコンを閉じてリビングへ戻ると、窓際に白い髪が見えた。
「終わったぞ」
声をかけると、ハクはこちらへ顔を向けた。
「そうか。ご苦労であった」
いつも通りの顔で笑っている。
夕飯になれば向かいに座って普通に食べたし、テレビに猫が映れば、あれより我の方が毛並みがよいと言い張った。ただ、俺が食器を持って立ち上がっても、後ろからついてはこなかった。
その夜、風呂から上がってリビングへ行くと、ハクは先にソファで本を読んでいた。
いつもの俺の席とは反対側に座っている。
テレビをつけ、空いている場所へ腰を下ろした。二人掛けのソファに二人で座っているのに、昨日一人で使ったときと同じように広く感じる。俺とハクの間には、きれいに一人分の席が空いていた。
テレビでは芸人が大声で何かを叫んでいた。ハクは本から顔を上げて笑い、俺もつられて笑ったが、肩がぶつかることはない。
隣で、またページをめくる音がした。
番組が一つ終わる頃、ハクは本に栞を挟んだ。
「我は先に寝るぞ。おやすみ、悠人」
「ああ。おやすみ」
ハクはいつもと変わらない顔で立ち上がり、リビングを出ていった。ほどなくテレビは次の番組に切り替わった。
二人の間に空いていた一人分の席だけが、そのまま残っていた。




