第3話 うちの猫、世界を救えるらしい
静かだった。
仕事を始めてしばらくしてから、そのことに気づいた。
在宅勤務の日は、いつもならハクが何かしら視界に入っている。人の姿でソファに寝転んでいることもあれば、猫になって窓際で丸くなっていることもある。放っておけば、そのうち退屈したと俺のところへやってくる。
今日は朝から出かけていた。
玄関でスニーカーを履いていたから、買い物か散歩だと思った。どこへ行くのか聞きもしなかったし、ハクも言わなかった。
そのおかげで仕事は驚くほど捗った。
画面の前に白い頭が割り込んでこない。マウスを押さえられることも、机の上の紙を風で飛ばされることもない。昼前には、普段なら午後までかかる作業の大半が片づいていた。
「快適だな……」
口に出してみる。
返事はなかった。
当たり前だ。
昼食を作ろうと冷蔵庫を開けると、奥にヨーグルトが見えた。
蓋には油性ペンで『悠人』と書いてある。昨日、ハクに勝手に食われたあとで書いたものだ。
「……アホらし」
誰に言うでもなく呟いて、卵を取り出す。
食事を終えても、玄関の向こうから鍵の音はしなかった。
午後の仕事も順調だった。宅配便のインターホンが鳴ったときだけ、無意識にリビングの入口を見る。普段なら俺より先に玄関へ行きたがるやつが、今日は出てこない。
それだけ確認して、仕事へ戻った。
夕方には予定していた作業が全部終わった。パソコンを閉じて伸びをすると、邪魔されなければこんなに早く終わるのかと思う。
悪くない。むしろ、これが本来の在宅勤務だ。
夕飯の支度をしようとキッチンへ立ち、冷蔵庫を開けた。
ハクがいないなら好きなものを作ればいい。肉が少ないだの魚がいいだの、横から注文をつけるやつもいない。それなのに、しばらく中を眺めても何を作るか決まらなかった。
扉を閉めると、テーブルに置いたスマートフォンが目に入った。
ハクにも一台持たせている。人の姿で外へ出るなら必要だろうと契約したものだが、まともに使えているかは怪しい。電話には出るものの、メッセージはほとんど返ってこない。
以前『牛乳買ってきて』と送ったときは、猫じゃらしを買って帰ってきた。自分用だと言い張っていた。
そこまで思い出したところで、スマートフォンが鳴った。
表示されたのは知らない番号だった。電話の相手は久世で、昨日、白虎様と呼んでハクに頭を下げていた男だ。
『白虎様は現在、山梨におられます』
「……山梨?」
久世の話では、今朝になって異常な気の集中が確認されたらしい。状況だけ伝えたところ、ハクは一人で現地へ向かったという。
昨日聞いた、霊脈の安定や災いの兆候の監視という話を思い出す。異変が起きれば、それを鎮めることもあると言っていた。
どうやら白虎の仕事というのは、昔話の中だけの話ではなかったらしい。
「危なくないんですか」
『私どもが同行するよりは、はるかに安全です』
昨日、久世を黙らせたあの力も、ハクにとってはほんの一部なのだろう。ただ、今回は想定していたより規模が大きく、いつ終わるかは分からないという。
何かあれば連絡すると言って、久世は電話を切った。
しばらく静かになった画面を見てから、スマートフォンを伏せた。
夕飯を作る。
米を研ぎ、いつもの癖で計量カップを二度空ける。一人なら十分だ。炊飯器へ入れたところで米びつに手を戻し、もう一合すくった。
「……まあ、余ったら明日食えばいいか」
夕食を済ませ、風呂に入り、いつものようにソファへ座った。
二人掛けなのだから、一人で使えば広くて当然だ。それなのに今日は妙に余って見える。ハクがよく使う白いクッションだけが、いつもの場所に残っていた。
テレビをつけてしばらくすると、廊下の方で小さな音がした。
顔を上げたが、冷蔵庫のモーター音だった。
テレビへ視線を戻す。
それからどれくらい経ったのか。
玄関で、今度こそ鍵の回る音がした。
廊下を歩く足音が近づき、リビングのドアが開く。白い髪が見えたところで、俺はソファから立ち上がった。
「腹が減った」
第一声がそれだった。
「どこ行ってたんだよ」
「少し散歩じゃ」
「山梨まで?」
ハクの足が止まった。
「……あやつ、喋ったな」
そのまま何事もなかったような顔で冷蔵庫へ向かう。
白い髪の先が茶色く汚れていた。袖にも土がつき、朝は真っ白だったスニーカーには泥が跳ねている。冷蔵庫へ伸ばした右手にも、細い擦り傷が一本走っていた。
俺の視線に気づいたハクは、自分の手を見てからすぐ背中へ隠した。
「これは何でもないぞ」
何も聞いていない。
そう返す代わりにハクより先に冷蔵庫を開け、残しておいた味噌汁を取り出した。炊飯器には、余ったら明日食べるつもりだった米が残っている。
「飯、食うか」
ハクの顔が一気に明るくなった。
「うむ!」
テーブルに茶碗を二つ並べ、味噌汁を温める。山梨で何があったのか、ハクは何も話さなかったし、俺も聞かなかった。
そんなことより本人は肉がないことの方が気になるらしく、食べ始めて早々、鍋の方を覗き込んだ。
「肉はないのか」
「帰ってくるか分からないやつの分まで用意するか」
「我は帰ってくるぞ」
ハクはきょとんとして、それだけ言うとまた飯を食べ始めた。
どうやら本人にとっては、わざわざ言うほどのことでもないらしい。
食後、二人でいつものソファへ戻った。俺が座ると、ハクもすぐ隣へ腰を下ろす。肩が触れそうなところまで寄ってきてから、こちらを窺うように金色の目を向けた。
普段なら、そこで押し返している。
今日はテレビを見たままにしておいた。
しばらくして、白い頭がゆっくり傾いた。
肩に、軽い重みが触れた。




