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拾った子猫が白虎になったんだが、距離感が子猫のままで困っている  作者: 澄野 朔


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3/5

第3話 うちの猫、世界を救えるらしい

 静かだった。


 仕事を始めてしばらくしてから、そのことに気づいた。


 在宅勤務の日は、いつもならハクが何かしら視界に入っている。人の姿でソファに寝転んでいることもあれば、猫になって窓際で丸くなっていることもある。放っておけば、そのうち退屈したと俺のところへやってくる。


 今日は朝から出かけていた。


 玄関でスニーカーを履いていたから、買い物か散歩だと思った。どこへ行くのか聞きもしなかったし、ハクも言わなかった。


 そのおかげで仕事は驚くほど捗った。


 画面の前に白い頭が割り込んでこない。マウスを押さえられることも、机の上の紙を風で飛ばされることもない。昼前には、普段なら午後までかかる作業の大半が片づいていた。


「快適だな……」


 口に出してみる。


 返事はなかった。


 当たり前だ。


 昼食を作ろうと冷蔵庫を開けると、奥にヨーグルトが見えた。


 蓋には油性ペンで『悠人』と書いてある。昨日、ハクに勝手に食われたあとで書いたものだ。


「……アホらし」


 誰に言うでもなく呟いて、卵を取り出す。


 食事を終えても、玄関の向こうから鍵の音はしなかった。


 午後の仕事も順調だった。宅配便のインターホンが鳴ったときだけ、無意識にリビングの入口を見る。普段なら俺より先に玄関へ行きたがるやつが、今日は出てこない。


 それだけ確認して、仕事へ戻った。


 夕方には予定していた作業が全部終わった。パソコンを閉じて伸びをすると、邪魔されなければこんなに早く終わるのかと思う。


 悪くない。むしろ、これが本来の在宅勤務だ。


 夕飯の支度をしようとキッチンへ立ち、冷蔵庫を開けた。


 ハクがいないなら好きなものを作ればいい。肉が少ないだの魚がいいだの、横から注文をつけるやつもいない。それなのに、しばらく中を眺めても何を作るか決まらなかった。


 扉を閉めると、テーブルに置いたスマートフォンが目に入った。


 ハクにも一台持たせている。人の姿で外へ出るなら必要だろうと契約したものだが、まともに使えているかは怪しい。電話には出るものの、メッセージはほとんど返ってこない。


 以前『牛乳買ってきて』と送ったときは、猫じゃらしを買って帰ってきた。自分用だと言い張っていた。


 そこまで思い出したところで、スマートフォンが鳴った。


 表示されたのは知らない番号だった。電話の相手は久世で、昨日、白虎様と呼んでハクに頭を下げていた男だ。


『白虎様は現在、山梨におられます』


「……山梨?」


 久世の話では、今朝になって異常な気の集中が確認されたらしい。状況だけ伝えたところ、ハクは一人で現地へ向かったという。


 昨日聞いた、霊脈の安定や災いの兆候の監視という話を思い出す。異変が起きれば、それを鎮めることもあると言っていた。


 どうやら白虎の仕事というのは、昔話の中だけの話ではなかったらしい。


「危なくないんですか」


『私どもが同行するよりは、はるかに安全です』


 昨日、久世を黙らせたあの力も、ハクにとってはほんの一部なのだろう。ただ、今回は想定していたより規模が大きく、いつ終わるかは分からないという。


 何かあれば連絡すると言って、久世は電話を切った。


 しばらく静かになった画面を見てから、スマートフォンを伏せた。


 夕飯を作る。


 米を研ぎ、いつもの癖で計量カップを二度空ける。一人なら十分だ。炊飯器へ入れたところで米びつに手を戻し、もう一合すくった。


「……まあ、余ったら明日食えばいいか」


 夕食を済ませ、風呂に入り、いつものようにソファへ座った。


 二人掛けなのだから、一人で使えば広くて当然だ。それなのに今日は妙に余って見える。ハクがよく使う白いクッションだけが、いつもの場所に残っていた。


 テレビをつけてしばらくすると、廊下の方で小さな音がした。


 顔を上げたが、冷蔵庫のモーター音だった。


 テレビへ視線を戻す。


 それからどれくらい経ったのか。


 玄関で、今度こそ鍵の回る音がした。


 廊下を歩く足音が近づき、リビングのドアが開く。白い髪が見えたところで、俺はソファから立ち上がった。


「腹が減った」


 第一声がそれだった。


「どこ行ってたんだよ」


「少し散歩じゃ」


「山梨まで?」


 ハクの足が止まった。


「……あやつ、喋ったな」


 そのまま何事もなかったような顔で冷蔵庫へ向かう。


 白い髪の先が茶色く汚れていた。袖にも土がつき、朝は真っ白だったスニーカーには泥が跳ねている。冷蔵庫へ伸ばした右手にも、細い擦り傷が一本走っていた。


 俺の視線に気づいたハクは、自分の手を見てからすぐ背中へ隠した。


「これは何でもないぞ」


 何も聞いていない。


 そう返す代わりにハクより先に冷蔵庫を開け、残しておいた味噌汁を取り出した。炊飯器には、余ったら明日食べるつもりだった米が残っている。


「飯、食うか」


 ハクの顔が一気に明るくなった。


「うむ!」


 テーブルに茶碗を二つ並べ、味噌汁を温める。山梨で何があったのか、ハクは何も話さなかったし、俺も聞かなかった。


 そんなことより本人は肉がないことの方が気になるらしく、食べ始めて早々、鍋の方を覗き込んだ。


「肉はないのか」


「帰ってくるか分からないやつの分まで用意するか」


「我は帰ってくるぞ」


 ハクはきょとんとして、それだけ言うとまた飯を食べ始めた。


 どうやら本人にとっては、わざわざ言うほどのことでもないらしい。


 食後、二人でいつものソファへ戻った。俺が座ると、ハクもすぐ隣へ腰を下ろす。肩が触れそうなところまで寄ってきてから、こちらを窺うように金色の目を向けた。


 普段なら、そこで押し返している。


 今日はテレビを見たままにしておいた。


 しばらくして、白い頭がゆっくり傾いた。


 肩に、軽い重みが触れた。

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