第2話 白虎様は俺の膝の上にいる
「白虎様」
スーツ姿の男は、玄関先で小さな白猫に頭を下げている。
一方、その白虎様は俺の足の後ろに隠れたまま出てこない。
男が顔を上げると、ハクは引っ込む。少し待ってから顔を出し、目が合うとまた引っ込んだ。
さっきからずっとこれだ。
「……とりあえず、中で話します?」
このまま玄関で頭を下げられていても困る。
男をリビングへ通すと、俺が勧めたソファに一礼してから腰を下ろした。ずいぶん堅い人だ。
ハクも小さな白猫の姿のままついてきたが、男には近づこうとしない。俺が向かいのソファへ座ると足元まで寄ってきて、脚とソファの隙間へ身体を押し込んだ。
狭いだろ、そこ。
男はその様子をしばらく見つめていた。
「申し遅れました。私は久世と申します」
差し出された名刺を受け取る。
久世宗一郎。その下には、見たことのない財団名が書かれていた。
「私自身、白虎様にお目にかかるのは初めてです」
なるほど。それならハクが警戒しているのも分かる。
久世が口にしたのは、青龍、朱雀、白虎、玄武という聞き覚えのある名前だった。四方を守る四柱の神獣が存在し、久世たちの一族は古くからその手助けをしてきたのだという。
神話か昔話の中だけだと思っていた名前だ。
その一柱が、俺のスリッパに顎を乗せている。
「……これが?」
「白虎様です」
「いや、それは知ってますけど」
本人から散々聞かされている。
俺が拾った白猫は白虎である。そこまではもう受け入れた。
ただ、西方を守り、災厄を退ける神獣だと言われると、急に話の規模がおかしくなる。
久世は冗談を言っている様子ではなかった。白虎という名を口にするときだけ、声までわずかに改まる。
足元から、ぽりぽりと音がした。
ハクが後ろ脚で首を掻いている。
久世の言葉が一瞬止まった。
俺は何も見なかったことにした。
話を聞いていくうちに、ハクが三年ほど前から行方不明になっていたことが分かった。
正確には、その頃に白虎の気配が突然弱まり、久世たちは所在を追えなくなったらしい。
三年前。
雨の夜、濡れた段ボール箱の中で震えていた小さな白猫を思い出す。時期はほぼ一致している。
久世たちにも、当時何が起きたのかは分からないという。
二人の視線が自然と足元へ向いた。
ハクは知らん顔で前脚を舐めている。
「お前、三年前に何があったんだ?」
耳だけがぴくりと動いた。
「覚えておらぬ」
毛づくろいを続けたまま、面倒そうな声が返ってくる。
「気がつけば小さくなっておった。それだけじゃ」
そのまま雨を避けられそうな箱を見つけ、中に入っていたらしい。
久世たちが三年間探し続けた白虎失踪の真相は、本人にも分からなかった。
話し終えたハクは毛づくろいを再開した。久世は何も言わず、その姿を見ている。
やがてハクは床を蹴り、俺の隣へ飛び乗った。
久世から一番遠い場所だ。
そこから俺の太腿に前脚を乗せ、こちらを見上げる。
「その姿ならいいぞ」
許可すると、すぐに膝の上で丸くなった。
久世の視線がこちらへ向いている。
「……何ですか?」
「いえ」
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
膝の上のハクは満足そうに目を閉じている。久世の話に出てきた、西方を守護する神獣と同じものにはどうしても見えない。
「それで、今日はハクを確認しに来たんですか?」
本題を尋ねると、久世の表情が変わった。
鞄から一通の封筒を取り出し、テーブルの上へ置く。
「白虎様に、本来のお役目へお戻りいただくために参りました」
膝の上で、尻尾の動きが止まった。
久世によれば、白虎には各地の霊脈を安定させ、災いの兆候を監視する役目があるという。異変が起きれば、それを鎮めることもある。
三年間不在だった以上、いつまでも今の生活だけを続けてもらうわけにはいかない。それが久世たちの考えらしい。
「断る」
ハクが膝から降りた。
床へ着地した瞬間、小さな白猫の姿がほどけるように消える。代わりに、白い髪の女が立っていた。
久世が姿勢を正す。
「我はここで暮らす」
「白虎様のお役目を放棄されるということでしょうか」
「誰がそのようなことを言った」
ハクは心外そうに眉を寄せた。
「必要なら呼べばよい。行って、片づけて、帰ってくる。それで済む話であろう」
久世はすぐには答えなかった。
どうやら、役目をすること自体は問題ではないらしい。
ハクにとって引っかかっているのは別のところだった。
「しかし、白虎様には本来お過ごしいただくべき場所がございます。御身の安全という意味でも、一般の住宅で暮らし続けるというのは――」
「一般?」
ハクの声が低くなった。
空気が変わった。
最初に異変を感じたのは耳だった。部屋の奥で聞こえないほど低い音が鳴っているような、妙な圧迫感がある。
テーブルの上の封筒が震えた。
カーテンがゆっくりと膨らむ。
窓は閉まっている。
久世は背筋を伸ばしたまま動かない。さっきまでハクを見つめていた目が、今はわずかに伏せられていた。
「ここは我の家じゃ」
声を荒らげているわけではない。
それでも、背筋が冷えた。
金色の瞳がまっすぐ久世へ向けられている。
「我がどこへ行き、何を守ろうと勝手じゃ。だが、帰る場所を他人に決められる覚えはない」
風が強くなる。
カーテンが大きく持ち上がり、壁際の観葉植物まで葉を震わせ始めた。
久世はまだ動かない。
昨日、俺の仕事を邪魔するために紙を飛ばしていた風と同じものとは思えなかった。
さらに風が強くなったところで、嫌な音がした。
びりっ。
カーテンの端が金具に引っかかり、裂けた。
「ハク」
金色の目がこちらを向いた。
俺は黙ってカーテンを指さす。
ハクもそちらを見る。
風が止まった。
さっきまで部屋を満たしていた圧迫感が、嘘のように消える。
「それ、先月買ったばっかりなんだけど」
「……む」
「結構高かったんだけど」
ハクは裂けたカーテンへ歩み寄った。
布を両手で持ち、傷口を確かめる。引っ張ってみたり、裏返してみたりしているが、当然それだけで元に戻るはずもない。
しばらく格闘した末、白虎様はこちらを振り返った。
「……悠人。針と糸はどこじゃ」
「神獣の力で直すんじゃないのかよ」
ハクは答えず、もう一度カーテンの裂け目へ視線を戻した。
久世は姿勢を正したまま、最後まで何も言わなかった。




