第1話 拾った子猫が、でかくなりすぎた
重い。
目が覚めて最初に感じたのは、それだった。
胸から腹にかけて、巨大な何かが乗っている。息を吸うたびに肺が押し返され、布団の中で身じろぎしようにも身体が動かない。
薄く目を開けると、視界いっぱいに白い毛があった。
「……ハク」
呼ぶと、俺の胸の上で丸くなっていた白虎が片目を開けた。金色の瞳が眠そうに俺を見る。
「起きたか」
「降りろ」
「なぜじゃ?」
「重いからだ」
ハクは不思議そうに首を傾げた。俺の胸の上で。
「昔は我が乗ると喜んでおったではないか」
「昔のお前は三百グラムだったんだよ」
三年前、雨の降る夜に拾ったときのハクは、本当に小さかった。濡れた段ボール箱の中で震えていた、手のひらに乗るほどの白い子猫だった。
それが一年ほど前から急激に大きくなり、額に黒い模様が浮かび、ついには人間の言葉で「我は白虎である」と名乗った。
「現在のお前、何キロあるんだよ」
「神獣を重さで量るでない」
だったらせめて胸の上から降りてほしい。脇腹を押してみたが、ハクは巨大な前脚で布団を抱え込み、居座る意思を示した。爪だけは、きれいに引っ込めている。
「遅刻するぞ」
「今日は家で仕事であろう?」
「よく覚えてるな」
「当然じゃ。我は賢い」
得意げに目を細めるハクに、だったら仕事の邪魔もするなよ、と釘を刺す。聞こえているはずなのに、金色の目がすっと閉じた。
寝たふりまで猫の頃と変わっていない。
どうにかベッドから追い出して顔を洗い、朝食を済ませる。着替えてリビングへ戻る頃には、巨大な白虎の姿は消えていた。
代わりに、白い長髪の女がキッチンに立っている。見た目だけなら二十歳くらいだろうか。腰まで届く白髪に金色の瞳をした、外を歩けば人目を引きそうな姿で、ヨーグルトの蓋を舐めていた。
「……何してる」
「残すのはもったいなかろう」
「それ以前に、それ俺のヨーグルト」
ハクは手にした容器を確認し、どこにも俺の名前がないことを指摘した。
「冷蔵庫のもの全部に名前を書く家庭があるか」
「ならば共有財産じゃな」
「お前、そういう言葉どこで覚えた?」
答える気はないらしい。最後の一口まで食べ終えたハクは、空の容器を当然のようにこちらへ差し出した。
受け取らずにゴミ箱を指さす。
「自分で捨てろ」
「む」
不満そうな顔をしながらも、ハクは自分で捨てに行った。
人の姿になれるようになれば少しは手がかからなくなると思っていたが、そんなことはなかった。できることが増えたぶん、余計なことまでできるようになっただけだった。
九時になり、俺はリビングの端に置いた仕事机でパソコンを立ち上げた。
在宅勤務の日は通勤がないぶん楽だ。ただし、こいつがいる。
資料を開いて十分ほど経ったところで、白い髪が視界の端に入った。
「悠人」
「仕事中」
返事だけして画面から目を離さない。
それでもハクは立ち去らなかった。少しずつ机へ近づいてきて、やがてモニターの横から顔だけを覗かせる。
「暇じゃ」
「俺は暇じゃない」
今度はそれ以上相手をしないことにした。
ハクはしばらく俺の横顔を眺めていたが、やがて白い髪が視界から消えた。
諦めたらしい。
そう思ってマウスを動かそうとすると、カーソルが動かなかった。
ハクの手が、マウスの上に乗っている。
「……何してる」
「別に何も」
「どけろ」
手を払うと、ハクは不満そうに頬を膨らませた。今度こそ離れるかと思えば、俺とモニターの間へ身体を滑り込ませてくる。
「見えない」
「我の方が見る価値があろう」
そう言って胸を張る神獣を、俺は無言で横へ押しやった。
さすがに諦めたのか、ハクはソファへ向かった。
それから十五分ほど、平和が続いた。
机の上のメモ用紙が一枚、ふわりと浮いた。
嫌な予感がする。
続いてもう一枚。その隣に置いていた資料まで、風もないのにぱらぱらとめくれ始める。
振り返ると、ハクはソファに寝転がっていた。こちらを見てもいない。ただ、白い髪の先だけが不自然な風に揺れている。
「ハク。風、止めろ」
「我は何もしておらぬぞ。自然現象じゃ」
窓は閉まっている。
黙って見ていると、一枚のメモ用紙が飛んできて俺の額に張りついた。
「構ってほしいなら普通に言え」
「我は神獣ぞ。そのような幼稚なことをするものか」
二枚目が飛んできた。
「やってることが幼稚なんだよ!」
思わず声を上げると、風がぴたりと止まった。
紙が床へ落ちていく。
ハクは身体を起こし、しばらく俺を見ていた。何か言い返してくるかと思ったが、何も言わずにソファを降り、そのまま廊下へ消えてしまった。
少し言いすぎたかもしれない。
とはいえ、仕事中なのも事実だ。昼休みになったら様子を見ようと、散らばった資料を拾って椅子へ戻った。
ほどなくして、足首に柔らかなものが触れた。
見下ろすと、小さな白猫が座っていた。
三年前とほとんど同じ、両手に収まりそうな姿だ。
ハクは何も言わない。金色の目でこちらを見上げながら、白い前脚を俺の膝にちょこんと乗せた。
「……お前、喋れるだろ」
「みゃあ」
卑怯だ。
「五分だけな」
抱き上げると、ハクは当然のように膝の上で丸くなった。
この姿なら軽い。喉の下を撫でると、ゴロゴロと満足そうな音が鳴る。仕事の邪魔をされているという事実は何も変わっていないのに、腹が立たないのだから我ながら単純だ。
五分後、膝から降ろす。
ハクは名残惜しそうにこちらを見たものの、今度は素直にソファへ向かった。
その後は珍しく大人しかった。
午後の仕事も無事に終わり、夕食を済ませた頃には八時を回っていた。
ハクは人の姿でソファを占領している。片手にはテレビのリモコン。いつ覚えたのか、俺より手慣れた様子で番組表を切り替えていた。
食器を片づけていると、インターホンが鳴った。
「宅配か?」
何か注文していただろうか。
モニターを見ると、玄関前にスーツ姿の男が立っていた。四十代くらいだろうか。宅配業者には見えない。
通話ボタンを押すと、男は丁寧に頭を下げた。
『夜分に申し訳ありません。佐伯悠人様のお宅で間違いないでしょうか』
「そうですけど」
『少々、お伺いしたいことがございます』
営業にしては妙に堅い。
用件を尋ねると、男は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
『こちらで、白い猫を飼っておられませんか』
俺は振り返った。
さっきまでソファにいたはずのハクがいない。
「……少し待ってください」
通話を切らずに部屋を見回したが、返事はなかった。
普段ならインターホンが鳴っただけで、何だ何だと俺より先に玄関まで寄ってくる。姿まで消すのは珍しい。
仕方なく玄関へ向かい、ドアを開けた。
「突然申し訳ありません」
男はもう一度頭を下げた。その視線が、ふと俺の足元で止まる。
俺もつられて下を見る。
いつの間に来たのか、小さな白猫が俺の足の後ろから顔だけ出していた。
「ハク?」
猫は答えない。
男の顔から、すっと血の気が引いた。
そして次の瞬間、その場で片膝をついた。
「……ようやく、お会いできました」
震える声だった。
男は俺ではなく、足元の小さな猫へ深々と頭を下げる。
「白虎様」
俺はハクを見る。
ハクも男を見る。
数秒の沈黙のあと、世界最強を自称する神獣は、俺の足の後ろへ完全に隠れた。




