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京都あやかし遺品整理屋――忘れられた神様の死に方を片づけていたら、相棒の古い神まで遺品になりかけています  作者: 二条理|アコンプリス


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第七章 制度に片づけられる神

 制度は、泣かない。

 何かを救う時も、何かを捨てる時も、そこに感情はない。あるのは手順であり、分類であり、記録であり、許可であり、責任の所在だ。誰かが傷ついた時、制度は理由を探す。次に同じことが起きないように、線を引く。箱を作る。鍵をかける。

 それは必要なことなのだろう。

 人は、感情だけでは町を守れない。

 善意だけでは、危険なものを止められない。

 誰かの「可哀想」によって、別の誰かが壊れることもある。

 三条朔は、それを知っていた。

 知っているからこそ、藤代慎という男をただの敵とは思えなかった。

 藤代は、神を憎んでいるわけではない。少なくとも、本人はそう思っていないだろう。彼は被害を減らそうとしている。名を失った神が暴走し、人に害を与える前に封じる。そこには、冷たさはあっても、筋は通っていた。

 けれど、筋が通っていることと、正しいことは同じではない。

 ましてや、その制度の中へ、一条が自分から歩いていったのだとすれば。

 朔は、濡れた路地を走った。

 朝の京都は、まだ本格的には動き出していなかった。通勤の自転車が数台、横を抜けていく。商店のシャッターが上がる音、宅配便の台車の音、遠くの寺の鐘。どれもいつも通りだった。

 いつも通りであることが、腹立たしかった。

 文机に残された一条の置き手紙。

 俺を探すな。

 おまえに片づけられる前に、自分で行く。

 あの一文を読んだ瞬間、朔は一条の考えを理解した。

 一条は、朔に自分を記録させたくなかったのだ。

 朔が仕事として終わりを整える前に、自分で制度の箱に入るつもりなのだ。

 祟り化する前に。

 名喰いに喰われる前に。

 朔を巻き込む前に。

 それは一条らしい選択だった。

 皮肉屋で、軽口ばかり叩き、甘味の話で都合の悪いことを逸らすくせに、肝心なところで一人で決める。

 朔は地下鉄に乗る時間すら惜しく、タクシーを拾った。行き先を告げると、運転手はちらりとバックミラー越しに朔を見た。息を切らした男が、平日の午前に府庁近くの古いビルへ急ぐ。奇妙に思ったのかもしれない。

 だが、何も訊かなかった。

 窓の外を町が流れていく。

 朔は右手を握っていた。

 黒い線は、昨夜より濃い。手首の手前で止まっていたはずの線が、わずかに上へ伸びている。まるで、見えない糸でどこかへ引かれているようだった。

 呼ぶな。

 そう言われていた。

 だが、呼ばずにいれば、一条は消えてもいいのか。

 朔は奥歯を噛んだ。

 祖父の手紙が、鞄の中にある。

 一条を救うことと、一条を終わらせないことは同じではない。

 名を呼ぶことと、名で縛ることも同じではない。

 仕事としてではなく、人として選びなさい。

 祖父は、ずるい。

 答えをくれたようで、肝心なところは朔に委ねている。

 タクシーが止まった。

 朔は料金を支払い、ビルへ駆け込んだ。エレベーターが遅い。階数表示の数字が一つずつ上がるのを見ているだけで、苛立ちが胸を叩いた。

 四階に着く。

 廊下の突き当たり。何も書かれていない扉。

 朔はノックもせずに開けた。

 室内にいた事務員らしき女性が驚いて顔を上げた。昨日はいなかった人物だ。年齢は五十前後。眼鏡をかけ、書類を整理していた。

「三条朔です。藤代さんは」

 女性は一瞬戸惑ったが、すぐに表情を整えた。

「藤代調査官は、現在、地下保管区画におります」

「一条は」

 口にしてから、朔は右手の疼きを感じた。

 名を呼んだ。

 だが、もう遅い。

 女性の顔がわずかに硬くなった。

「一条氏も、同行されています」

「自分から来たんですね」

「はい。任意同行です」

「保護処置を受けるために?」

「詳細はお答えできません」

 朔は机に手をついた。

「保管庫へ案内してください」

「許可が必要です」

「昨日、閲覧許可が下りたと聞いています」

「閲覧許可は十三時からです」

 壁の時計を見る。まだ十一時前だった。

「一条の処置はいつですか」

 女性は答えない。

 朔は、抑えていた声を少しだけ低くした。

「処置はいつですか」

「……十二時三十分から、事前固定が始まる予定です」

 事前固定。

 嫌な言葉だった。

 生きているものを、資料のように扱う言葉。

「藤代さんに連絡してください。今すぐ会うと」

「ですが」

「私は昨日、協力の条件として保管庫を見せてもらうことになっています。そこに一条がいるなら、関係者として立ち会います」

「立ち会いは認められていません」

「では、認めさせてください」

 女性はしばらく朔を見ていた。

 強引な相手に慣れていないわけではなさそうだった。むしろ、こういう場所にいる以上、もっと厄介なものにも対応してきたのだろう。

 やがて、彼女は内線電話を取った。

「藤代調査官。三条朔氏が来られています。はい。予定より早く。……はい。……分かりました」

 受話器を置くと、女性は立ち上がった。

「ご案内します」

 ビルの奥に、古い扉があった。

 昨日は気づかなかった。壁と同じ色に塗られており、取っ手も目立たない。女性がカードキーを当てると、電子音が鳴った。扉の向こうには、下へ続く階段がある。

 空気が変わった。

 地下へ降りるにつれて、湿気と古い金属の匂いが強くなる。寺の宝物庫に似ているが、それよりずっと冷たい。人が大切なものを守っている場所ではなく、危ないものを閉じ込めている場所の匂いだった。

 階段の途中、壁に小さな札が貼られていた。

 文化財保全区画。

 関係者以外立入禁止。

 文化財。

 その言葉に、朔は違和感を覚えた。

 文化財とは、人が価値を決めたものだ。古いから、希少だから、歴史的意義があるから守る。だが、ここにあるものたちは、守られるために集められたのか。あるいは、危険だからしまわれたのか。

 階段の下には、厚い扉があった。

 女性がもう一度カードキーを当てる。さらに暗証番号を入力し、鍵を回す。

 扉が開いた瞬間、無数の気配が流れ出した。

 朔は立ち止まった。

 息が詰まる。

 そこは長い保管室だった。

 天井は低く、白い照明が等間隔に並んでいる。左右には金属製の棚が続き、木箱、桐箱、ガラスケース、封印された壺、鏡、刀、櫛、面、鈴、古い帳面、割れた石像、黒布をかけられた何かが整然と置かれていた。

 それぞれに管理番号が貼られている。

 名称。

 由来。

 危険度。

 封止状態。

 接触制限。

 冷静なラベルが、ものたちに貼られている。

 朔には、それらがすべて沈黙しているように見えた。

 いや、沈黙させられているのだ。

 奥から藤代が歩いてきた。今日もスーツ姿だが、上着を脱ぎ、白い手袋をしている。顔に疲れは見えるが、取り乱してはいない。

「予定より早いですね」

「一条はどこですか」

「奥の固定室です」

「会わせてください」

「処置前の面会は推奨されません」

「推奨の話はいい」

 藤代はしばらく朔を見た。

「彼は自分の意思で来ました」

「分かっています」

「なら、尊重すべきでは?」

「一人で死に方を決めることを、尊重とは言いません」

「死ではありません。封止です」

「あなたにとっては」

 藤代は答えなかった。

 朔は保管室を見渡した。

「ここにあるものも、みんな保護されたんですか」

「そうです」

「本人たちも、そう思っていますか」

「神性や妖性に、人間と同じ意味での本人意思を認めることは困難です」

「便利な言葉ですね」

「必要な言葉です」

 藤代の声には迷いがなかった。いや、迷いを消す訓練をしている声だった。

 朔は棚の一つに目を止めた。

 ガラスケースの中に、古い狐面がある。片目が割れ、鼻先が欠けている。ケースの前には、危険度三、接触禁止、と記されていた。

 狐面の周囲には、かすかな記憶が揺れている。祭りの夜、子どもの笑い声、油揚げの匂い、山道。だが、その記憶はガラスの内側で何度も跳ね返り、外に出られない。

 朔は胸の奥が重くなった。

「ここは墓場です」

 思わず言った。

 藤代は静かに答えた。

「墓場なら、まだいい」

「どういう意味ですか」

「墓は、死者の場所です。ここにあるものの多くは、死に切れていない」

 その言葉に、朔は藤代を見た。

 藤代自身も、それを分かっている。

 分かっていて、なお封じている。

「だからこそ、管理が必要です」

 藤代はそう続けた。

 朔は唇を結んだ。

 理解できる。

 同意はできない。

 その二つは、どこまでも並行している。

「一条に会わせてください」

 朔が言うと、藤代は少しだけ息を吐いた。

「短時間です。処置開始時刻は変えません」

「変えさせます」

「それは彼自身が望んでいません」

「本人と話します」

 藤代は女性職員に目配せした。彼女は無言で下がる。

 藤代は奥へ歩き出した。

 朔はその後を追った。

 保管室の奥には、さらに小さな扉があった。そこには「固定処置室」と表示されている。藤代が鍵を開ける。

 中は、白い部屋だった。

 病院の処置室にも似ている。中央に椅子が一脚。周囲には、札、紐、金属製の器具、古い鏡、記録用のカメラらしき機材が配置されている。壁には円形の文様が描かれ、床にも細かな線が刻まれていた。

 その椅子に、一条が座っていた。

 手首には白い紙縒りのような紐が巻かれている。足元にも同じ紐がある。拘束具のようにも見えるが、力で縛るためのものではない。名前と役割を固定するための結界だろう。

 一条は顔を上げた。

 朔を見ても、驚かなかった。

「来ると思った」

「俺を探すな、と書いたのは誰だ」

「読めないと思ってな」

「ふざけるな」

「ふざけている余裕があるように見えるか」

 朔は言葉を詰まらせた。

 一条の姿は、明らかに薄かった。

 椅子の背もたれが、身体越しに見える。輪郭は辛うじて保たれているが、袖の先、指先、髪の端が空気に溶けている。

 それでも、一条はいつものように笑おうとした。

「ひどい顔だな」

「おまえよりはましだ」

「言うようになった」

「なぜ来た」

「説明しただろう。おまえに片づけられる前に」

「私はおまえを片づけるつもりはない」

「今はな」

「今も、この先もだ」

 一条は目を伏せた。

「その言い方が、一番危ない」

 藤代が横から口を挟んだ。

「面会は五分です」

 朔は藤代を睨んだ。

「黙っていてください」

「処置管理上、必要な」

「黙っていてください」

 藤代は一瞬だけ眉を動かしたが、それ以上言わなかった。

 朔は一条の前に立った。

「一条」

 名を呼んだ瞬間、部屋の空気が震えた。

 床の文様が薄く光る。壁の鏡がかすかに曇った。藤代が反応したが、制止はしなかった。

 一条の身体が一瞬だけ濃くなった。

 同時に、朔の右手の黒い線が鋭く疼いた。

 一条が苦い顔をする。

「呼ぶなと何度言えば」

「何度言われても呼ぶ」

「見つかるぞ」

「もう見つかっている」

「朔」

「私はおまえの本当の名前を知らない。おまえが何者だったのかも知らない。祖父と何をしたのかも知らない。知らないことばかりだ」

 一条は黙っていた。

「だが、今ここにいるおまえは知っている。茶が渋いと文句を言い、甘味ばかり要求し、面倒なことを昔話でごまかし、肝心なところで一人で消えようとする」

「悪口か」

「記録だ」

 一条の目が、わずかに揺れた。

「おまえの本名がなくても、一条という名で私は呼んできた」

「だから危ないと言っている」

「危なくても、呼ばないことでおまえを守ったふりはしない」

 藤代が静かに言った。

「三条さん、その呼称固定は名喰いへの誘導路になります」

「分かっています」

「なら」

「それでも、今ここで無名の危険物として封じられるよりはましです」

 藤代の目が細くなった。

「無名ではありません。仮称一条として記録します」

「仮称?」

 朔は怒りを抑えられなかった。

「あなた方のラベルに貼るための仮称と、私が呼んできた名を同じにしないでください」

 藤代は黙った。

 一条が、少し困ったように笑った。

「朔。おまえ、こんなに怒る男だったか」

「おまえが怒らせた」

「それはすまない」

「謝るなら帰れ」

「それはできない」

「なぜ」

 一条は、床の文様を見た。

「俺が薄くなるたび、おまえの右手が反応する。名喰いは、おまえを通って俺を呼ぶ。俺を通って、おまえを呼ぶ。このままでは、おまえが足場になる」

「それは私が決めることだ」

「違う。おまえだけの問題じゃない」

 一条の声が低くなる。

「俺が名喰いに呑まれれば、境界が揺らぐ」

「境界?」

「人と神、生者と死者、記憶と忘却。そういうものの境目だ。俺は、そういうところにいた」

「境界の神」

「神と言えるほど立派なものじゃない」

「それでも」

「だから危ない。名を失った境界は、何でも繋げる。繋がってはいけないものまで」

 朔は息を呑んだ。

 名喰いが一条を狙う理由が、そこにある。

 名前を失った神々の残滓。呼ばれたがっているものたち。終われなかった声。それらが、一条の境界を通れば、人の世界へ流れ込む。

 藤代が言った。

「彼の自己申告は、当室の分析とも一致します。一条氏は境界系神性です。神名剥離が進行した場合、局所的な認識災害、死者記憶の混入、神性残滓の連鎖発生が予測されます」

「だから封じる」

「はい」

「封じれば止まると?」

「少なくとも、外部拡散は防げます」

「一条はどうなる」

「固定されます」

「生きたまま?」

「神性に生死の概念を適用するのは」

「逃げるな」

 朔の声が、処置室に響いた。

 藤代は口を閉じた。

「一条はどうなる」

 藤代は、ゆっくり答えた。

「意識活動は、極めて制限されます。現在のような人格的応答は、維持できない可能性が高い」

 朔は拳を握った。

 それは、死と何が違うのか。

 一条が静かに言った。

「ほらな。俺が言った通り、生きたまま遺品だ」

「なぜ笑う」

「笑うしかないだろう」

「笑うな」

 一条は笑うのをやめた。

 朔は、椅子の前で膝をついた。

 目線を合わせる。

「帰るぞ」

「帰らない」

「帰る」

「朔」

「私は、おまえを救えると言っているんじゃない。名喰いを止める方法が分かっているわけでもない。だが、ここで封じられることだけは違う」

「違うかどうかは、おまえが決めることじゃない」

「なら、おまえが決めることでもない」

 一条が目を見開いた。

「自分の終わりを自分で決める。それは、確かに大事だ。だが、おまえは今、終わりを選んでいるんじゃない。私に片づけられたくないから、制度に片づけられようとしている」

 一条の顔から、表情が抜けた。

 図星だった。

「それは、おまえの意思じゃない。逃げだ」

 沈黙が落ちた。

 藤代が、わずかに身じろぎする。

 一条は長い間、朔を見ていた。

 やがて、ぽつりと言った。

「言うようになったな」

「おまえのせいだ」

「ひどい責任転嫁だ」

「事実だ」

 一条は目を伏せた。

「俺は、おまえにあの帳簿を書かせたくない」

「分かっている」

「俺の最後の記憶を見させたくない」

「分かっている」

「分かっていて、連れて帰るのか」

「連れて帰る」

「俺が歪んだら」

「その時は、止める」

「片づけるのか」

 朔は答えなかった。

 一条の目が、静かに問いかけている。

 逃げられない問いだった。

 朔は息を吸った。

「必要なら、止める」

「片づけるとは言わないんだな」

「今は言わない」

「甘い」

「そうかもしれない」

「宗一郎なら、言った」

「私は祖父じゃない」

 その言葉を口にした瞬間、朔の中で何かが決まった。

 祖父の教えは、今も正しい。

 救おうとして歪ませる危険は、忘れてはいけない。

 終わるものを終わらせる覚悟も、必要だ。

 だが、祖父と同じ選択をすることだけが、仕事を継ぐことではない。

 朔は藤代を見た。

「処置を止めてください」

「できません」

「一条は帰ります」

「本人が同意していません」

「今、本人と話しています」

「彼が帰ると言えば、処置は一旦停止できます」

 藤代は一条を見た。

「ただし、危険性が上がった場合、強制固定に移行します」

 一条は静かに笑った。

「やっぱり制度は怖いな。逃げても追ってくる」

「守るためです」

「おまえの守るは、檻に入れることだ」

「檻が必要なものもあります」

「そうだな」

 一条は意外にも、それを否定しなかった。

「俺も、そうなるかもしれない」

「なら」

「だが、今ではない」

 藤代の目が動いた。

 一条は、朔を見た。

「帰る」

 その一言で、処置室の文様の光がわずかに弱まった。

 朔は息を吐いた。

 だが、安堵するには早かった。

 藤代が手元の端末を操作した瞬間、部屋の照明が赤く点滅した。

 低い警告音が鳴る。

 女性職員の声がスピーカーから流れた。

「保管庫内、未確認残滓反応。第三区画、封止箱三十七番から四十二番、内圧上昇」

 藤代の顔色が変わった。

「何だ」

「黒色残滓です。複数の保管物から発生。神名ラベルに侵食」

 一条が椅子から立ち上がろうとする。

 白い紐が手首で締まった。

 朔はすぐに紐へ手を伸ばした。

「触らないでください!」

 藤代が叫んだ。

「それは固定用の」

 朔は構わず紐を解いた。

 右手の黒い線が、強く疼く。だが、今は無視した。一条の手首から白い紐を外す。足元の紐も引き剥がす。

 その瞬間、一条の身体が大きく揺らいだ。

 朔は支えた。

「立てるか」

「神に向かって言う台詞か」

「立てるか」

「立てる」

 藤代はすでに扉へ向かっていた。

「来てください。あなたたちも関係しています」

 処置室を出ると、保管庫の空気が変わっていた。

 さっきまで沈黙していたものたちが、ざわめいている。

 箱の中の鈴が鳴る。

 封じられた面が微かに笑う。

 鏡の表面に、見知らぬ部屋が映る。

 壺の中から、水の音がする。

 保管庫の奥、第三区画へ向かうと、金属棚の一列が黒い霧に包まれていた。

 霧ではない。黒い煤だ。

 それが、封止箱の隙間から漏れ出し、管理ラベルに張りついている。ラベルに書かれた名称が、次々と黒く塗り潰されていく。

 藤代が顔を強張らせた。

「封止が、内側から破られている」

「名喰いか」

 朔が言うと、一条が低く答えた。

「いや。これは、名喰いそのものではない。呼応だ」

「呼応?」

「ここにあるものが、名喰いの声を聞いた」

 封止箱のひとつが震えた。

 管理番号三十七。

 名称、家守神性残滓。

 危険度四。

 封止状態、安定。

 その名称欄が、黒く潰れていく。

 藤代の顔が変わった。

 朔は気づいた。

 これが、藤代の妹を取り込んだ家守神の残骸なのだ。

 箱の中から、女の声のようなものが漏れた。

 家に帰らなければ。

 戸締まりをしなければ。

 誰も出してはいけない。

 家を守らなければ。

 藤代が一歩前へ出た。

「封止強化を」

 しかし、その声は普段より揺れていた。

 女性職員が棚の端にある制御盤へ向かう。だが、黒い煤が床を這い、彼女の足元へ伸びた。

 一条が手をかざした。

 空気が裂けた。

 煤と職員の間に、透明な壁のようなものが立つ。境界だ。煤はそれにぶつかり、じりじりと音を立てた。

 一条の輪郭がさらに薄くなる。

 朔は声を出しかけ、こらえた。

 呼べば、一時的には戻る。

 だが、それは同時に名喰いへの道を開く。

 呼べない。

 そのもどかしさで、胸が裂けそうだった。

「朔」

 一条が言った。

「記録しろ」

「何を」

「ここにあるものの名を。ラベルじゃなく、残っている役割を」

「今ここで?」

「それしかない。封じ直しても、名前を喰われれば同じだ」

 藤代が鋭く言った。

「危険です。接触すれば、あなたがさらに侵食される」

「分かっています」

「なら」

「他に方法がありますか」

 藤代は答えられなかった。

 朔は鞄から記録帳を取り出した。帳簿本体ではない。ただの写し用の帳面だ。それでも、書けば縁ができる。

 危険だ。

 祖父の言葉が脳裏に浮かぶ。

 聞く。

 だが、住まわせない。

 朔は深く息を吸った。

 最初の箱。家守神性残滓。

 ラベルは冷たい。だが、箱の中から聞こえる声には、かつての役割が残っている。

 家を守るもの。

 戸口を見張るもの。

 火の不始末を防ぐもの。

 子どもが夜中に外へ出ないよう、床板を鳴らすもの。

 朔は書いた。

 名不詳。家を守り、出入りの境を見張る小神。役割は保護であり、監禁ではない。

 その瞬間、箱の震えが少し弱まった。

 藤代が息を呑む。

 次の箱。

 古井戸水神性残滓。

 名称欄は黒く塗り潰されている。

 朔は井戸の底の記憶に触れそうになるのをこらえながら、聞こえる音だけを拾った。

 水を澄ませるもの。

 深さを知らせるもの。

 落ちる者を引きずり込むものではなく、近づきすぎる足を止めるもの。

 書く。

 次。

 橋下影性残滓。

 夜道に潜むもの。

 本来は橋の下に溜まる恐怖を引き受け、通行人の目を逸らす役割。

 書く。

 次。

 古い面。

 祭りの終わりを告げるもの。

 人を笑わせ、怖がらせ、日常へ返すもの。

 書く。

 書くたびに、右手の黒い線が疼いた。

 声が入ってくる。

 帰りたい。

 呼ばれたい。

 出してくれ。

 忘れるな。

 閉じ込めるな。

 朔は、それらを受け入れすぎないようにした。

 聞く。

 だが、住まわせない。

 祖父の声を支えにする。

 一条は境界を張り続けている。透明な壁の向こうで、煤が渦を巻く。彼の身体は、もう半分ほど透けていた。

 藤代が別の棚から札を取り出し、女性職員に指示を出している。彼もまた必死だった。封止を強化しながら、朔の記録によって落ち着いた箱を一つずつ安定化させていく。

 制度と記録。

 本来なら対立する二つが、今だけ同じ方向を向いていた。

 だが、黒い煤は奥へ集まっていく。

 保管庫の最奥。

 そこに、大きな木箱があった。

 他の保管物より古い。箱の周囲には、何重にも札が貼られ、白い紐が巻かれている。管理ラベルは、古くて文字が読みにくい。

 藤代がそれを見て、顔色を失った。

「三十年前の封止箱……」

「名喰いの核か」

 朔が訊くと、藤代は否定しなかった。

 箱の札が、一枚ずつ黒く染まっていく。

 一条が呻いた。

「まずい」

 箱の内側から、声がした。

 声というより、空洞が喋るような音だった。

 名前を。

 名前を。

 名前を。

 朔の右手が激痛に近い冷たさを発した。

 手首を越え、黒い線が腕へ伸びる。

 一条が振り返った。

「朔、離れろ!」

 名を呼ばれた瞬間、名喰いの核が反応した。

 木箱の表面に、無数の黒い筋が走る。

 そこから伸びた煤が、一条へ向かった。

 速かった。

 一条は境界を張ろうとしたが、すでに力を使いすぎていた。煤は透明な壁をすり抜け、彼の胸元に触れた。

 一条の身体が、かき消えるように薄くなる。

 朔は考える前に走った。

「一条!」

 呼んだ。

 声が処置室よりも強く響いた。

 保管庫のすべての箱が、一斉に鳴った。

 鈴、壺、鏡、面、木箱。封じられたものたちが、その名に反応する。

 一条の姿が一瞬だけ戻る。

 しかし、名喰いの煤もまた、彼の名を掴んだ。

 朔の右手から黒い線が一気に伸びる。腕の内側を這い、肘の手前まで達した。

 声が、頭の中で爆発した。

 一条。

 一条。

 一条。

 それは本当の名ではない。

 なら、剥がせる。

 剥がせる。

 剥がせる。

 朔は耳を塞ぐこともできなかった。

 その時、藤代が木箱の前に立った。

 手には、古い封印札がある。顔は青ざめていたが、動きは正確だった。

「三条さん、彼を連れて下がれ!」

「藤代さん」

「早く!」

 藤代は封印札を木箱に叩きつけた。

 黒い煤が彼の腕に絡んだ。藤代の表情が歪む。おそらく、彼にも声が入っている。家守神の声か、妹の記憶か、名喰いの声か。

 それでも、藤代は手を離さなかった。

 朔は一条の腕を掴んだ。

 掴めた。

 薄れているが、まだそこにいる。

「行くぞ」

「おまえ、右手が」

「後だ」

「朔」

「後だ!」

 朔は一条を引きずるようにして、保管庫の外へ向かった。

 女性職員が扉を開けている。藤代はまだ木箱の前にいた。彼の腕に絡んだ黒は、少しずつ札に吸い込まれていく。

 扉が閉まる直前、朔は藤代を見た。

 藤代もこちらを見た。

 その顔には、初めてはっきりとした恐怖があった。

 だが、逃げてはいなかった。

 扉が閉まり、厚い金属音が響いた。

 廊下へ出た瞬間、一条が膝をついた。

 朔も倒れかけ、壁に手をついた。

 右腕が冷たい。袖をまくると、黒い線が肘近くまで伸びていた。まるで、皮膚の下に黒い糸を縫い込まれたようだった。

 一条はそれを見て、顔を歪めた。

「だから呼ぶなと言った」

「戻っただろ」

「代償が大きすぎる」

「おまえが消えるよりはましだ」

「そういうことを言うから、危ないんだ」

「危なくても、今は生きている」

 一条は黙った。

 神に生きているという言葉が正しいのか分からない。だが、少なくとも一条はそこにいた。朔の手に、彼の腕の感触が残っている。

 しばらくして、保管庫の扉が開いた。

 藤代が出てきた。

 顔色は悪く、右腕に黒い痕が残っている。だが、歩いていた。

「封止は、持ち直しました」

 彼は言った。

「一時的にですが」

 朔は壁にもたれたまま、藤代を見た。

「あなたも侵食されている」

「職業病です」

「冗談を言う人だったんですね」

「冗談ではありません」

 藤代は一条に目を向けた。

「処置は中止します」

 一条が眉を上げた。

「意外だな」

「現状の固定処置では、名喰いの誘導路になる可能性が高い。あなたを封じれば安全になる、という前提が崩れました」

「制度も間違うんだな」

「制度は間違います。だから記録を更新する」

 藤代は淡々と言った。

 朔はその言葉に、わずかに藤代という人間を見た気がした。

「ただし」

 藤代は続けた。

「あなた方を自由に放置するわけにはいきません」

「でしょうね」

「名喰いの核は、保管庫を通じて京都各地の神名剥離と呼応しています。今回の反応で、それが明確になった。おそらく今後、剥離は加速します」

「止める方法は」

「分かりません」

 藤代は正直に言った。

「ですが、三条さんの記録は一定の効果を示しました。分類ではなく、役割の再定義。神名が不明でも、何者であったかを記録することで、暴走を抑えられる可能性がある」

「つまり、協力しろと」

「はい」

「今度は命令ですか」

「依頼です」

 藤代は、少しだけ頭を下げた。

「協力をお願いします」

 朔は一条を見た。

 一条は疲れた顔で肩をすくめた。

「俺を見るな。おまえはどうせ決めている」

「決めているように見えるか」

「見える」

「なら、そうなんだろうな」

 朔は藤代に向き直った。

「条件があります」

「何でしょう」

「封じる前に、必ず記録する。神名が分からなくても、役割、記憶、終わり方を確認する。危険だからという理由だけで、箱に入れて終わりにはしない」

「全件は難しい」

「できる範囲ではなく、方針としてです」

 藤代は少し考えた。

「方針として検討します」

「検討では足りません」

「私一人では決められない」

「なら、決められるところまで動かしてください」

 藤代は苦い表情をした。

「あなたは、面倒な人ですね」

 一条が小さく笑った。

「それは俺も言った」

「光栄です」

 朔は笑わなかった。

 保管庫を出る時、朔はもう一度奥を振り返った。

 金属の扉の向こうには、名喰いの核がある。祖父が封じきれなかったもの。忘れられた神々の残骸。呼ばれなかった名の集合。

 そして、それは今、一条の名を知った。

 地上へ戻る階段を上る途中、一条がふらついた。

 朔は支えた。

「大丈夫か」

「大丈夫と言うと怒るだろ」

「分かっているなら言うな」

「では、かなりまずい」

「正直でよろしい」

 一条は苦笑した。

 ビルの外へ出ると、雨は止んでいた。

 雲の切れ間から夕方の光が差し、濡れた道路が淡く光っている。京都の町は、何もなかったように動いていた。バスが走り、学生が笑い、観光客が地図を見ている。

 その下で、神々の名前が剥がれ始めていることなど、誰も知らない。

 朔は右腕を押さえた。

 黒い線は、肘の手前で止まっている。痛みはない。だが、時折、耳の奥で声がする。

 名前を。

 名前を。

 名前を。

 一条が隣で言った。

「事務所に帰ったら、甘いものが必要だ」

「命からがら逃げてきて、最初にそれか」

「神性の回復には糖分がいる」

「嘘だろ」

「嘘だが、必要なのは本当だ」

 朔は小さく息を吐いた。

 呆れたのか、安心したのか、自分でも分からなかった。

「帰るぞ」

「呼ばないのか」

 一条が言った。

 朔は彼を見る。

 一条は、薄く笑っていた。

「呼ぶなと言ったり、呼べと言ったり、忙しいな」

「呼べとは言っていない。ただ、今のおまえは呼びたそうな顔をしている」

「分析するな」

「おまえの真似だ」

 朔は少しだけ迷った。

 呼べば、繋がる。

 繋がれば、見つかる。

 けれど、呼ばなければ、そこにいることを確かめられない。

 名を呼ぶことと、名で縛ることは同じではない。

 祖父の手紙の言葉が、胸の中で揺れた。

 朔は、声を低くした。

「一条」

 その名は、雨上がりの通りに静かに落ちた。

 一条の輪郭が、少しだけ濃くなる。

 同時に、朔の右腕が冷えた。

 だが、今度は目を逸らさなかった。

 一条は苦笑した。

「本当に面倒だな、おまえは」

「お互い様だ」

 二人は並んで歩き出した。

 遠くで、寺の鐘が鳴った。

 その音に混じって、ほんのかすかに、別の声が聞こえた気がした。

 名前を返せ。

 朔は足を止めなかった。

 返せる名前ばかりではない。

 取り戻せる終わりばかりでもない。

 それでも、箱に入れて黙らせるだけでは、何も終わらない。

 制度に片づけられる前に、記録しなければならないものがある。

 朔は右腕の冷たさを抱えたまま、夕暮れの京都を歩いた。

 隣に、一条がいた。

 まだ、いた。



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