第七章 制度に片づけられる神
制度は、泣かない。
何かを救う時も、何かを捨てる時も、そこに感情はない。あるのは手順であり、分類であり、記録であり、許可であり、責任の所在だ。誰かが傷ついた時、制度は理由を探す。次に同じことが起きないように、線を引く。箱を作る。鍵をかける。
それは必要なことなのだろう。
人は、感情だけでは町を守れない。
善意だけでは、危険なものを止められない。
誰かの「可哀想」によって、別の誰かが壊れることもある。
三条朔は、それを知っていた。
知っているからこそ、藤代慎という男をただの敵とは思えなかった。
藤代は、神を憎んでいるわけではない。少なくとも、本人はそう思っていないだろう。彼は被害を減らそうとしている。名を失った神が暴走し、人に害を与える前に封じる。そこには、冷たさはあっても、筋は通っていた。
けれど、筋が通っていることと、正しいことは同じではない。
ましてや、その制度の中へ、一条が自分から歩いていったのだとすれば。
朔は、濡れた路地を走った。
朝の京都は、まだ本格的には動き出していなかった。通勤の自転車が数台、横を抜けていく。商店のシャッターが上がる音、宅配便の台車の音、遠くの寺の鐘。どれもいつも通りだった。
いつも通りであることが、腹立たしかった。
文机に残された一条の置き手紙。
俺を探すな。
おまえに片づけられる前に、自分で行く。
あの一文を読んだ瞬間、朔は一条の考えを理解した。
一条は、朔に自分を記録させたくなかったのだ。
朔が仕事として終わりを整える前に、自分で制度の箱に入るつもりなのだ。
祟り化する前に。
名喰いに喰われる前に。
朔を巻き込む前に。
それは一条らしい選択だった。
皮肉屋で、軽口ばかり叩き、甘味の話で都合の悪いことを逸らすくせに、肝心なところで一人で決める。
朔は地下鉄に乗る時間すら惜しく、タクシーを拾った。行き先を告げると、運転手はちらりとバックミラー越しに朔を見た。息を切らした男が、平日の午前に府庁近くの古いビルへ急ぐ。奇妙に思ったのかもしれない。
だが、何も訊かなかった。
窓の外を町が流れていく。
朔は右手を握っていた。
黒い線は、昨夜より濃い。手首の手前で止まっていたはずの線が、わずかに上へ伸びている。まるで、見えない糸でどこかへ引かれているようだった。
呼ぶな。
そう言われていた。
だが、呼ばずにいれば、一条は消えてもいいのか。
朔は奥歯を噛んだ。
祖父の手紙が、鞄の中にある。
一条を救うことと、一条を終わらせないことは同じではない。
名を呼ぶことと、名で縛ることも同じではない。
仕事としてではなく、人として選びなさい。
祖父は、ずるい。
答えをくれたようで、肝心なところは朔に委ねている。
タクシーが止まった。
朔は料金を支払い、ビルへ駆け込んだ。エレベーターが遅い。階数表示の数字が一つずつ上がるのを見ているだけで、苛立ちが胸を叩いた。
四階に着く。
廊下の突き当たり。何も書かれていない扉。
朔はノックもせずに開けた。
室内にいた事務員らしき女性が驚いて顔を上げた。昨日はいなかった人物だ。年齢は五十前後。眼鏡をかけ、書類を整理していた。
「三条朔です。藤代さんは」
女性は一瞬戸惑ったが、すぐに表情を整えた。
「藤代調査官は、現在、地下保管区画におります」
「一条は」
口にしてから、朔は右手の疼きを感じた。
名を呼んだ。
だが、もう遅い。
女性の顔がわずかに硬くなった。
「一条氏も、同行されています」
「自分から来たんですね」
「はい。任意同行です」
「保護処置を受けるために?」
「詳細はお答えできません」
朔は机に手をついた。
「保管庫へ案内してください」
「許可が必要です」
「昨日、閲覧許可が下りたと聞いています」
「閲覧許可は十三時からです」
壁の時計を見る。まだ十一時前だった。
「一条の処置はいつですか」
女性は答えない。
朔は、抑えていた声を少しだけ低くした。
「処置はいつですか」
「……十二時三十分から、事前固定が始まる予定です」
事前固定。
嫌な言葉だった。
生きているものを、資料のように扱う言葉。
「藤代さんに連絡してください。今すぐ会うと」
「ですが」
「私は昨日、協力の条件として保管庫を見せてもらうことになっています。そこに一条がいるなら、関係者として立ち会います」
「立ち会いは認められていません」
「では、認めさせてください」
女性はしばらく朔を見ていた。
強引な相手に慣れていないわけではなさそうだった。むしろ、こういう場所にいる以上、もっと厄介なものにも対応してきたのだろう。
やがて、彼女は内線電話を取った。
「藤代調査官。三条朔氏が来られています。はい。予定より早く。……はい。……分かりました」
受話器を置くと、女性は立ち上がった。
「ご案内します」
ビルの奥に、古い扉があった。
昨日は気づかなかった。壁と同じ色に塗られており、取っ手も目立たない。女性がカードキーを当てると、電子音が鳴った。扉の向こうには、下へ続く階段がある。
空気が変わった。
地下へ降りるにつれて、湿気と古い金属の匂いが強くなる。寺の宝物庫に似ているが、それよりずっと冷たい。人が大切なものを守っている場所ではなく、危ないものを閉じ込めている場所の匂いだった。
階段の途中、壁に小さな札が貼られていた。
文化財保全区画。
関係者以外立入禁止。
文化財。
その言葉に、朔は違和感を覚えた。
文化財とは、人が価値を決めたものだ。古いから、希少だから、歴史的意義があるから守る。だが、ここにあるものたちは、守られるために集められたのか。あるいは、危険だからしまわれたのか。
階段の下には、厚い扉があった。
女性がもう一度カードキーを当てる。さらに暗証番号を入力し、鍵を回す。
扉が開いた瞬間、無数の気配が流れ出した。
朔は立ち止まった。
息が詰まる。
そこは長い保管室だった。
天井は低く、白い照明が等間隔に並んでいる。左右には金属製の棚が続き、木箱、桐箱、ガラスケース、封印された壺、鏡、刀、櫛、面、鈴、古い帳面、割れた石像、黒布をかけられた何かが整然と置かれていた。
それぞれに管理番号が貼られている。
名称。
由来。
危険度。
封止状態。
接触制限。
冷静なラベルが、ものたちに貼られている。
朔には、それらがすべて沈黙しているように見えた。
いや、沈黙させられているのだ。
奥から藤代が歩いてきた。今日もスーツ姿だが、上着を脱ぎ、白い手袋をしている。顔に疲れは見えるが、取り乱してはいない。
「予定より早いですね」
「一条はどこですか」
「奥の固定室です」
「会わせてください」
「処置前の面会は推奨されません」
「推奨の話はいい」
藤代はしばらく朔を見た。
「彼は自分の意思で来ました」
「分かっています」
「なら、尊重すべきでは?」
「一人で死に方を決めることを、尊重とは言いません」
「死ではありません。封止です」
「あなたにとっては」
藤代は答えなかった。
朔は保管室を見渡した。
「ここにあるものも、みんな保護されたんですか」
「そうです」
「本人たちも、そう思っていますか」
「神性や妖性に、人間と同じ意味での本人意思を認めることは困難です」
「便利な言葉ですね」
「必要な言葉です」
藤代の声には迷いがなかった。いや、迷いを消す訓練をしている声だった。
朔は棚の一つに目を止めた。
ガラスケースの中に、古い狐面がある。片目が割れ、鼻先が欠けている。ケースの前には、危険度三、接触禁止、と記されていた。
狐面の周囲には、かすかな記憶が揺れている。祭りの夜、子どもの笑い声、油揚げの匂い、山道。だが、その記憶はガラスの内側で何度も跳ね返り、外に出られない。
朔は胸の奥が重くなった。
「ここは墓場です」
思わず言った。
藤代は静かに答えた。
「墓場なら、まだいい」
「どういう意味ですか」
「墓は、死者の場所です。ここにあるものの多くは、死に切れていない」
その言葉に、朔は藤代を見た。
藤代自身も、それを分かっている。
分かっていて、なお封じている。
「だからこそ、管理が必要です」
藤代はそう続けた。
朔は唇を結んだ。
理解できる。
同意はできない。
その二つは、どこまでも並行している。
「一条に会わせてください」
朔が言うと、藤代は少しだけ息を吐いた。
「短時間です。処置開始時刻は変えません」
「変えさせます」
「それは彼自身が望んでいません」
「本人と話します」
藤代は女性職員に目配せした。彼女は無言で下がる。
藤代は奥へ歩き出した。
朔はその後を追った。
保管室の奥には、さらに小さな扉があった。そこには「固定処置室」と表示されている。藤代が鍵を開ける。
中は、白い部屋だった。
病院の処置室にも似ている。中央に椅子が一脚。周囲には、札、紐、金属製の器具、古い鏡、記録用のカメラらしき機材が配置されている。壁には円形の文様が描かれ、床にも細かな線が刻まれていた。
その椅子に、一条が座っていた。
手首には白い紙縒りのような紐が巻かれている。足元にも同じ紐がある。拘束具のようにも見えるが、力で縛るためのものではない。名前と役割を固定するための結界だろう。
一条は顔を上げた。
朔を見ても、驚かなかった。
「来ると思った」
「俺を探すな、と書いたのは誰だ」
「読めないと思ってな」
「ふざけるな」
「ふざけている余裕があるように見えるか」
朔は言葉を詰まらせた。
一条の姿は、明らかに薄かった。
椅子の背もたれが、身体越しに見える。輪郭は辛うじて保たれているが、袖の先、指先、髪の端が空気に溶けている。
それでも、一条はいつものように笑おうとした。
「ひどい顔だな」
「おまえよりはましだ」
「言うようになった」
「なぜ来た」
「説明しただろう。おまえに片づけられる前に」
「私はおまえを片づけるつもりはない」
「今はな」
「今も、この先もだ」
一条は目を伏せた。
「その言い方が、一番危ない」
藤代が横から口を挟んだ。
「面会は五分です」
朔は藤代を睨んだ。
「黙っていてください」
「処置管理上、必要な」
「黙っていてください」
藤代は一瞬だけ眉を動かしたが、それ以上言わなかった。
朔は一条の前に立った。
「一条」
名を呼んだ瞬間、部屋の空気が震えた。
床の文様が薄く光る。壁の鏡がかすかに曇った。藤代が反応したが、制止はしなかった。
一条の身体が一瞬だけ濃くなった。
同時に、朔の右手の黒い線が鋭く疼いた。
一条が苦い顔をする。
「呼ぶなと何度言えば」
「何度言われても呼ぶ」
「見つかるぞ」
「もう見つかっている」
「朔」
「私はおまえの本当の名前を知らない。おまえが何者だったのかも知らない。祖父と何をしたのかも知らない。知らないことばかりだ」
一条は黙っていた。
「だが、今ここにいるおまえは知っている。茶が渋いと文句を言い、甘味ばかり要求し、面倒なことを昔話でごまかし、肝心なところで一人で消えようとする」
「悪口か」
「記録だ」
一条の目が、わずかに揺れた。
「おまえの本名がなくても、一条という名で私は呼んできた」
「だから危ないと言っている」
「危なくても、呼ばないことでおまえを守ったふりはしない」
藤代が静かに言った。
「三条さん、その呼称固定は名喰いへの誘導路になります」
「分かっています」
「なら」
「それでも、今ここで無名の危険物として封じられるよりはましです」
藤代の目が細くなった。
「無名ではありません。仮称一条として記録します」
「仮称?」
朔は怒りを抑えられなかった。
「あなた方のラベルに貼るための仮称と、私が呼んできた名を同じにしないでください」
藤代は黙った。
一条が、少し困ったように笑った。
「朔。おまえ、こんなに怒る男だったか」
「おまえが怒らせた」
「それはすまない」
「謝るなら帰れ」
「それはできない」
「なぜ」
一条は、床の文様を見た。
「俺が薄くなるたび、おまえの右手が反応する。名喰いは、おまえを通って俺を呼ぶ。俺を通って、おまえを呼ぶ。このままでは、おまえが足場になる」
「それは私が決めることだ」
「違う。おまえだけの問題じゃない」
一条の声が低くなる。
「俺が名喰いに呑まれれば、境界が揺らぐ」
「境界?」
「人と神、生者と死者、記憶と忘却。そういうものの境目だ。俺は、そういうところにいた」
「境界の神」
「神と言えるほど立派なものじゃない」
「それでも」
「だから危ない。名を失った境界は、何でも繋げる。繋がってはいけないものまで」
朔は息を呑んだ。
名喰いが一条を狙う理由が、そこにある。
名前を失った神々の残滓。呼ばれたがっているものたち。終われなかった声。それらが、一条の境界を通れば、人の世界へ流れ込む。
藤代が言った。
「彼の自己申告は、当室の分析とも一致します。一条氏は境界系神性です。神名剥離が進行した場合、局所的な認識災害、死者記憶の混入、神性残滓の連鎖発生が予測されます」
「だから封じる」
「はい」
「封じれば止まると?」
「少なくとも、外部拡散は防げます」
「一条はどうなる」
「固定されます」
「生きたまま?」
「神性に生死の概念を適用するのは」
「逃げるな」
朔の声が、処置室に響いた。
藤代は口を閉じた。
「一条はどうなる」
藤代は、ゆっくり答えた。
「意識活動は、極めて制限されます。現在のような人格的応答は、維持できない可能性が高い」
朔は拳を握った。
それは、死と何が違うのか。
一条が静かに言った。
「ほらな。俺が言った通り、生きたまま遺品だ」
「なぜ笑う」
「笑うしかないだろう」
「笑うな」
一条は笑うのをやめた。
朔は、椅子の前で膝をついた。
目線を合わせる。
「帰るぞ」
「帰らない」
「帰る」
「朔」
「私は、おまえを救えると言っているんじゃない。名喰いを止める方法が分かっているわけでもない。だが、ここで封じられることだけは違う」
「違うかどうかは、おまえが決めることじゃない」
「なら、おまえが決めることでもない」
一条が目を見開いた。
「自分の終わりを自分で決める。それは、確かに大事だ。だが、おまえは今、終わりを選んでいるんじゃない。私に片づけられたくないから、制度に片づけられようとしている」
一条の顔から、表情が抜けた。
図星だった。
「それは、おまえの意思じゃない。逃げだ」
沈黙が落ちた。
藤代が、わずかに身じろぎする。
一条は長い間、朔を見ていた。
やがて、ぽつりと言った。
「言うようになったな」
「おまえのせいだ」
「ひどい責任転嫁だ」
「事実だ」
一条は目を伏せた。
「俺は、おまえにあの帳簿を書かせたくない」
「分かっている」
「俺の最後の記憶を見させたくない」
「分かっている」
「分かっていて、連れて帰るのか」
「連れて帰る」
「俺が歪んだら」
「その時は、止める」
「片づけるのか」
朔は答えなかった。
一条の目が、静かに問いかけている。
逃げられない問いだった。
朔は息を吸った。
「必要なら、止める」
「片づけるとは言わないんだな」
「今は言わない」
「甘い」
「そうかもしれない」
「宗一郎なら、言った」
「私は祖父じゃない」
その言葉を口にした瞬間、朔の中で何かが決まった。
祖父の教えは、今も正しい。
救おうとして歪ませる危険は、忘れてはいけない。
終わるものを終わらせる覚悟も、必要だ。
だが、祖父と同じ選択をすることだけが、仕事を継ぐことではない。
朔は藤代を見た。
「処置を止めてください」
「できません」
「一条は帰ります」
「本人が同意していません」
「今、本人と話しています」
「彼が帰ると言えば、処置は一旦停止できます」
藤代は一条を見た。
「ただし、危険性が上がった場合、強制固定に移行します」
一条は静かに笑った。
「やっぱり制度は怖いな。逃げても追ってくる」
「守るためです」
「おまえの守るは、檻に入れることだ」
「檻が必要なものもあります」
「そうだな」
一条は意外にも、それを否定しなかった。
「俺も、そうなるかもしれない」
「なら」
「だが、今ではない」
藤代の目が動いた。
一条は、朔を見た。
「帰る」
その一言で、処置室の文様の光がわずかに弱まった。
朔は息を吐いた。
だが、安堵するには早かった。
藤代が手元の端末を操作した瞬間、部屋の照明が赤く点滅した。
低い警告音が鳴る。
女性職員の声がスピーカーから流れた。
「保管庫内、未確認残滓反応。第三区画、封止箱三十七番から四十二番、内圧上昇」
藤代の顔色が変わった。
「何だ」
「黒色残滓です。複数の保管物から発生。神名ラベルに侵食」
一条が椅子から立ち上がろうとする。
白い紐が手首で締まった。
朔はすぐに紐へ手を伸ばした。
「触らないでください!」
藤代が叫んだ。
「それは固定用の」
朔は構わず紐を解いた。
右手の黒い線が、強く疼く。だが、今は無視した。一条の手首から白い紐を外す。足元の紐も引き剥がす。
その瞬間、一条の身体が大きく揺らいだ。
朔は支えた。
「立てるか」
「神に向かって言う台詞か」
「立てるか」
「立てる」
藤代はすでに扉へ向かっていた。
「来てください。あなたたちも関係しています」
処置室を出ると、保管庫の空気が変わっていた。
さっきまで沈黙していたものたちが、ざわめいている。
箱の中の鈴が鳴る。
封じられた面が微かに笑う。
鏡の表面に、見知らぬ部屋が映る。
壺の中から、水の音がする。
保管庫の奥、第三区画へ向かうと、金属棚の一列が黒い霧に包まれていた。
霧ではない。黒い煤だ。
それが、封止箱の隙間から漏れ出し、管理ラベルに張りついている。ラベルに書かれた名称が、次々と黒く塗り潰されていく。
藤代が顔を強張らせた。
「封止が、内側から破られている」
「名喰いか」
朔が言うと、一条が低く答えた。
「いや。これは、名喰いそのものではない。呼応だ」
「呼応?」
「ここにあるものが、名喰いの声を聞いた」
封止箱のひとつが震えた。
管理番号三十七。
名称、家守神性残滓。
危険度四。
封止状態、安定。
その名称欄が、黒く潰れていく。
藤代の顔が変わった。
朔は気づいた。
これが、藤代の妹を取り込んだ家守神の残骸なのだ。
箱の中から、女の声のようなものが漏れた。
家に帰らなければ。
戸締まりをしなければ。
誰も出してはいけない。
家を守らなければ。
藤代が一歩前へ出た。
「封止強化を」
しかし、その声は普段より揺れていた。
女性職員が棚の端にある制御盤へ向かう。だが、黒い煤が床を這い、彼女の足元へ伸びた。
一条が手をかざした。
空気が裂けた。
煤と職員の間に、透明な壁のようなものが立つ。境界だ。煤はそれにぶつかり、じりじりと音を立てた。
一条の輪郭がさらに薄くなる。
朔は声を出しかけ、こらえた。
呼べば、一時的には戻る。
だが、それは同時に名喰いへの道を開く。
呼べない。
そのもどかしさで、胸が裂けそうだった。
「朔」
一条が言った。
「記録しろ」
「何を」
「ここにあるものの名を。ラベルじゃなく、残っている役割を」
「今ここで?」
「それしかない。封じ直しても、名前を喰われれば同じだ」
藤代が鋭く言った。
「危険です。接触すれば、あなたがさらに侵食される」
「分かっています」
「なら」
「他に方法がありますか」
藤代は答えられなかった。
朔は鞄から記録帳を取り出した。帳簿本体ではない。ただの写し用の帳面だ。それでも、書けば縁ができる。
危険だ。
祖父の言葉が脳裏に浮かぶ。
聞く。
だが、住まわせない。
朔は深く息を吸った。
最初の箱。家守神性残滓。
ラベルは冷たい。だが、箱の中から聞こえる声には、かつての役割が残っている。
家を守るもの。
戸口を見張るもの。
火の不始末を防ぐもの。
子どもが夜中に外へ出ないよう、床板を鳴らすもの。
朔は書いた。
名不詳。家を守り、出入りの境を見張る小神。役割は保護であり、監禁ではない。
その瞬間、箱の震えが少し弱まった。
藤代が息を呑む。
次の箱。
古井戸水神性残滓。
名称欄は黒く塗り潰されている。
朔は井戸の底の記憶に触れそうになるのをこらえながら、聞こえる音だけを拾った。
水を澄ませるもの。
深さを知らせるもの。
落ちる者を引きずり込むものではなく、近づきすぎる足を止めるもの。
書く。
次。
橋下影性残滓。
夜道に潜むもの。
本来は橋の下に溜まる恐怖を引き受け、通行人の目を逸らす役割。
書く。
次。
古い面。
祭りの終わりを告げるもの。
人を笑わせ、怖がらせ、日常へ返すもの。
書く。
書くたびに、右手の黒い線が疼いた。
声が入ってくる。
帰りたい。
呼ばれたい。
出してくれ。
忘れるな。
閉じ込めるな。
朔は、それらを受け入れすぎないようにした。
聞く。
だが、住まわせない。
祖父の声を支えにする。
一条は境界を張り続けている。透明な壁の向こうで、煤が渦を巻く。彼の身体は、もう半分ほど透けていた。
藤代が別の棚から札を取り出し、女性職員に指示を出している。彼もまた必死だった。封止を強化しながら、朔の記録によって落ち着いた箱を一つずつ安定化させていく。
制度と記録。
本来なら対立する二つが、今だけ同じ方向を向いていた。
だが、黒い煤は奥へ集まっていく。
保管庫の最奥。
そこに、大きな木箱があった。
他の保管物より古い。箱の周囲には、何重にも札が貼られ、白い紐が巻かれている。管理ラベルは、古くて文字が読みにくい。
藤代がそれを見て、顔色を失った。
「三十年前の封止箱……」
「名喰いの核か」
朔が訊くと、藤代は否定しなかった。
箱の札が、一枚ずつ黒く染まっていく。
一条が呻いた。
「まずい」
箱の内側から、声がした。
声というより、空洞が喋るような音だった。
名前を。
名前を。
名前を。
朔の右手が激痛に近い冷たさを発した。
手首を越え、黒い線が腕へ伸びる。
一条が振り返った。
「朔、離れろ!」
名を呼ばれた瞬間、名喰いの核が反応した。
木箱の表面に、無数の黒い筋が走る。
そこから伸びた煤が、一条へ向かった。
速かった。
一条は境界を張ろうとしたが、すでに力を使いすぎていた。煤は透明な壁をすり抜け、彼の胸元に触れた。
一条の身体が、かき消えるように薄くなる。
朔は考える前に走った。
「一条!」
呼んだ。
声が処置室よりも強く響いた。
保管庫のすべての箱が、一斉に鳴った。
鈴、壺、鏡、面、木箱。封じられたものたちが、その名に反応する。
一条の姿が一瞬だけ戻る。
しかし、名喰いの煤もまた、彼の名を掴んだ。
朔の右手から黒い線が一気に伸びる。腕の内側を這い、肘の手前まで達した。
声が、頭の中で爆発した。
一条。
一条。
一条。
それは本当の名ではない。
なら、剥がせる。
剥がせる。
剥がせる。
朔は耳を塞ぐこともできなかった。
その時、藤代が木箱の前に立った。
手には、古い封印札がある。顔は青ざめていたが、動きは正確だった。
「三条さん、彼を連れて下がれ!」
「藤代さん」
「早く!」
藤代は封印札を木箱に叩きつけた。
黒い煤が彼の腕に絡んだ。藤代の表情が歪む。おそらく、彼にも声が入っている。家守神の声か、妹の記憶か、名喰いの声か。
それでも、藤代は手を離さなかった。
朔は一条の腕を掴んだ。
掴めた。
薄れているが、まだそこにいる。
「行くぞ」
「おまえ、右手が」
「後だ」
「朔」
「後だ!」
朔は一条を引きずるようにして、保管庫の外へ向かった。
女性職員が扉を開けている。藤代はまだ木箱の前にいた。彼の腕に絡んだ黒は、少しずつ札に吸い込まれていく。
扉が閉まる直前、朔は藤代を見た。
藤代もこちらを見た。
その顔には、初めてはっきりとした恐怖があった。
だが、逃げてはいなかった。
扉が閉まり、厚い金属音が響いた。
廊下へ出た瞬間、一条が膝をついた。
朔も倒れかけ、壁に手をついた。
右腕が冷たい。袖をまくると、黒い線が肘近くまで伸びていた。まるで、皮膚の下に黒い糸を縫い込まれたようだった。
一条はそれを見て、顔を歪めた。
「だから呼ぶなと言った」
「戻っただろ」
「代償が大きすぎる」
「おまえが消えるよりはましだ」
「そういうことを言うから、危ないんだ」
「危なくても、今は生きている」
一条は黙った。
神に生きているという言葉が正しいのか分からない。だが、少なくとも一条はそこにいた。朔の手に、彼の腕の感触が残っている。
しばらくして、保管庫の扉が開いた。
藤代が出てきた。
顔色は悪く、右腕に黒い痕が残っている。だが、歩いていた。
「封止は、持ち直しました」
彼は言った。
「一時的にですが」
朔は壁にもたれたまま、藤代を見た。
「あなたも侵食されている」
「職業病です」
「冗談を言う人だったんですね」
「冗談ではありません」
藤代は一条に目を向けた。
「処置は中止します」
一条が眉を上げた。
「意外だな」
「現状の固定処置では、名喰いの誘導路になる可能性が高い。あなたを封じれば安全になる、という前提が崩れました」
「制度も間違うんだな」
「制度は間違います。だから記録を更新する」
藤代は淡々と言った。
朔はその言葉に、わずかに藤代という人間を見た気がした。
「ただし」
藤代は続けた。
「あなた方を自由に放置するわけにはいきません」
「でしょうね」
「名喰いの核は、保管庫を通じて京都各地の神名剥離と呼応しています。今回の反応で、それが明確になった。おそらく今後、剥離は加速します」
「止める方法は」
「分かりません」
藤代は正直に言った。
「ですが、三条さんの記録は一定の効果を示しました。分類ではなく、役割の再定義。神名が不明でも、何者であったかを記録することで、暴走を抑えられる可能性がある」
「つまり、協力しろと」
「はい」
「今度は命令ですか」
「依頼です」
藤代は、少しだけ頭を下げた。
「協力をお願いします」
朔は一条を見た。
一条は疲れた顔で肩をすくめた。
「俺を見るな。おまえはどうせ決めている」
「決めているように見えるか」
「見える」
「なら、そうなんだろうな」
朔は藤代に向き直った。
「条件があります」
「何でしょう」
「封じる前に、必ず記録する。神名が分からなくても、役割、記憶、終わり方を確認する。危険だからという理由だけで、箱に入れて終わりにはしない」
「全件は難しい」
「できる範囲ではなく、方針としてです」
藤代は少し考えた。
「方針として検討します」
「検討では足りません」
「私一人では決められない」
「なら、決められるところまで動かしてください」
藤代は苦い表情をした。
「あなたは、面倒な人ですね」
一条が小さく笑った。
「それは俺も言った」
「光栄です」
朔は笑わなかった。
保管庫を出る時、朔はもう一度奥を振り返った。
金属の扉の向こうには、名喰いの核がある。祖父が封じきれなかったもの。忘れられた神々の残骸。呼ばれなかった名の集合。
そして、それは今、一条の名を知った。
地上へ戻る階段を上る途中、一条がふらついた。
朔は支えた。
「大丈夫か」
「大丈夫と言うと怒るだろ」
「分かっているなら言うな」
「では、かなりまずい」
「正直でよろしい」
一条は苦笑した。
ビルの外へ出ると、雨は止んでいた。
雲の切れ間から夕方の光が差し、濡れた道路が淡く光っている。京都の町は、何もなかったように動いていた。バスが走り、学生が笑い、観光客が地図を見ている。
その下で、神々の名前が剥がれ始めていることなど、誰も知らない。
朔は右腕を押さえた。
黒い線は、肘の手前で止まっている。痛みはない。だが、時折、耳の奥で声がする。
名前を。
名前を。
名前を。
一条が隣で言った。
「事務所に帰ったら、甘いものが必要だ」
「命からがら逃げてきて、最初にそれか」
「神性の回復には糖分がいる」
「嘘だろ」
「嘘だが、必要なのは本当だ」
朔は小さく息を吐いた。
呆れたのか、安心したのか、自分でも分からなかった。
「帰るぞ」
「呼ばないのか」
一条が言った。
朔は彼を見る。
一条は、薄く笑っていた。
「呼ぶなと言ったり、呼べと言ったり、忙しいな」
「呼べとは言っていない。ただ、今のおまえは呼びたそうな顔をしている」
「分析するな」
「おまえの真似だ」
朔は少しだけ迷った。
呼べば、繋がる。
繋がれば、見つかる。
けれど、呼ばなければ、そこにいることを確かめられない。
名を呼ぶことと、名で縛ることは同じではない。
祖父の手紙の言葉が、胸の中で揺れた。
朔は、声を低くした。
「一条」
その名は、雨上がりの通りに静かに落ちた。
一条の輪郭が、少しだけ濃くなる。
同時に、朔の右腕が冷えた。
だが、今度は目を逸らさなかった。
一条は苦笑した。
「本当に面倒だな、おまえは」
「お互い様だ」
二人は並んで歩き出した。
遠くで、寺の鐘が鳴った。
その音に混じって、ほんのかすかに、別の声が聞こえた気がした。
名前を返せ。
朔は足を止めなかった。
返せる名前ばかりではない。
取り戻せる終わりばかりでもない。
それでも、箱に入れて黙らせるだけでは、何も終わらない。
制度に片づけられる前に、記録しなければならないものがある。
朔は右腕の冷たさを抱えたまま、夕暮れの京都を歩いた。
隣に、一条がいた。
まだ、いた。




