第六章 朔が捨てた記憶
記憶は、忘れたふりをしているだけで、消えるわけではない。
普段は暗い箱の底に沈んでいる。鍵をかけたつもりでいても、箱そのものが古くなれば、底板の隙間から少しずつ漏れてくる。匂いだったり、音だったり、他人の一言だったりする。忘れたはずのものは、そうやって唐突に顔を出す。
三条朔にとって、それは雨の匂いだった。
湿った木。
古い紙。
畳に染み込んだ水気。
そして、黒い煤が放つ、名前を焼いたような匂い。
その夜、朔は高熱を出した。
初めは、ただ身体が重いだけだった。帳簿に浮かんだ「名喰い」の文字を見たあと、右手の黒い線が熱を持ち始めた。熱といっても、皮膚は冷たい。内側だけが焼けるように疼く。手首の内側から肘へ、細い針金を通されたような感覚がある。
一条は、朔を寝かせようとした。
「横になれ」
「大丈夫だ」
「大丈夫な人間は、畳に手をついて息をしていない」
「人間扱いするな」
「人間だろうが」
その声音に苛立ちがあった。朔は言い返そうとしたが、言葉が喉で引っかかった。頭の奥が重い。目の前の畳の目が、遠ざかったり近づいたりしている。
文机の上には、閉じた帳簿がある。
閉じているのに、中から声が漏れてくるようだった。
名前を返せ。
呼んでくれ。
忘れるな。
終わらせるな。
無数の声は、音として聞こえるのではない。皮膚の内側から滲む。黒い線に沿って、身体の中を上ってくる。
「朔」
一条が肩を掴んだ。
その手が冷たかった。
いや、冷たいのは朔の身体の方かもしれない。
「藤代を呼ぶ」
「呼ぶな」
「このままでは危ない」
「呼ぶな」
朔は一条の手を払おうとした。だが、力が入らない。右手の指先が自分のものではないようだった。
一条の顔が近づく。
輪郭が滲んでいた。熱のせいか、一条自身が薄れているせいか、分からない。
「おまえは、本当に面倒な人間だな」
「おまえに言われたくない」
「言われておけ」
一条は朔を支え、奥の部屋へ連れていった。布団を敷く音が遠くに聞こえる。身体を横たえられると、天井の木目が揺れた。
古い町家の天井。
雨の日の匂い。
祖父の声。
朔は、急に幼い頃のことを思い出した。
思い出したのではない。
引きずり込まれた。
目の前の天井が、別の天井に変わる。
もっと暗く、もっと低い天井。祖父の家の奥座敷だった。夏なのに、そこだけ妙に涼しかった。蚊取り線香の匂いがしている。障子の外で雨が降っていた。
朔は八歳だった。
自分が八歳だと分かるのは、畳に投げ出された自分の手が小さいからだ。爪の形も、指の細さも、今とは違う。だが、その手で触れているものの感覚だけは、今と同じだった。
古い鈴。
小さな銅の鈴だ。表面はくすみ、赤茶けた錆が浮いている。祖父がどこかの祠から持ち帰ったものだった。
「触るなと言うたやろ」
祖父の声がした。
三条宗一郎。
朔の祖父であり、前の三条遺品整理の主。
幼い朔にとって、祖父はいつも静かな人だった。怒鳴ることはほとんどない。けれど、短い言葉に重みがあった。だから、祖父が「触るな」と言えば、触ってはいけない。
そのはずだった。
だが、幼い朔は触った。
理由は単純だ。
鈴が泣いているように見えたからだ。
金属に目も口もない。もちろん涙もない。それでも、その鈴は泣いていた。誰にも鳴らされなくなった鈴ではない。鳴りたいのに、鳴ることを禁じられた鈴だった。
朔は、それが可哀想だった。
小さな手で鈴を握ると、記憶が流れ込んできた。
山際の小さな祠。
赤い鳥居。
土砂崩れ。
逃げ遅れた人々。
雨。
泥。
水を含んで膨らんだ畳。
泣く子ども。
手を伸ばす女。
その祠の神は、村の災厄を鎮める神だった。
大きな神ではない。川の氾濫や山崩れを完全に防ぐ力はない。ただ、雨が強くなりすぎる前に、人の胸をざわつかせる。危ない場所へ行こうとする足を重くする。地鳴りの前に犬を吠えさせる。その程度の神だった。
それでも、村の人々は長く祀っていた。
けれど、村はなくなった。
過疎で人が減り、家が空き、祠の掃除をする者もいなくなった。最後に残った老人が施設へ移り、神はひとりで山際に残された。
その後、大雨が降った。
土砂崩れが起き、廃村の一部が崩れた。人は住んでいなかった。だから、被害はなかった。そう記録された。
けれど、神はそう思っていなかった。
自分が守っていた村を、守れなかったと思っていた。
もう誰もいない村なのに。
誰も守る必要などなかったのに。
それでも、神は自分の役割を失えなかった。
守る。
知らせる。
逃がす。
呼ぶ者のいない場所で、その役割だけが残った。
祖父はその鈴を持ち帰った。終わりを整えるために。
だが、幼い朔はそれを知らなかった。
彼には、神が泣いているように見えた。
だから言った。
「忘れないよ」
鈴の中の神に向かって、八歳の朔はそう言った。
「ぼくが覚えてる。だから、消えないで」
今の朔なら、そこで止める。
記憶を受け入れるな。
自分の中に入れるな。
終わりかけた神に、自分の未来を差し出すな。
だが、八歳の朔は知らなかった。
鈴が鳴った。
小さな音だった。
りん、ではない。
喉の奥で誰かが息を吹き返すような音。
その瞬間、神の記憶が朔の中へ入り込んだ。
山の雨。
土の匂い。
災厄を知らせる役割。
守れなかったという悔い。
もう一度、誰かを守りたいという願い。
それらが、八歳の朔の身体に流れ込んだ。
幼い朔は倒れた。
そこから先の記憶は、断片でしか残っていなかった。
祖父の足音。
一条の声。
強い線香の匂い。
閉め切られた障子。
廊下に置かれた水差し。
自分の手首に巻かれた白い布。
そして、夜ごと、何かが家の中を歩く音。
その何かは、朔を守ろうとしていた。
祖父が近づくと、障子が鳴る。
母が部屋に入ろうとすると、電灯が消える。
外で車の音がすると、窓ガラスが震える。
朔に触れようとするものを、すべて遠ざけようとする。
神は、朔を守ることに執着した。
災厄から守る神だったはずのものが、朔の中に混じったことで、守る対象を誤ったのだ。
朔を守る。
朔を守る。
朔を守る。
そのためなら、他の誰を傷つけても構わない。
幼い朔は布団の中で震えていた。
助けたかっただけなのに。
消えてほしくなかっただけなのに。
自分の願いが、神を歪ませた。
ある夜、祖父が奥座敷に入ってきた。
一条もいた。
その頃の一条は、今とあまり変わらない姿をしていた。だが、表情は今よりも冷たく見えた。八歳の朔には、彼が人なのか何なのか分からなかった。
「朔」
祖父が呼んだ。
幼い朔は布団の中で目だけを動かした。
「怖いか」
朔は頷いた。
「助けたかったんか」
朔はまた頷いた。
祖父は怒らなかった。
怒鳴られるより、それがつらかった。
「救おうとしたんやな」
祖父は鈴を畳の上に置いた。
鈴は黒く濡れていた。水ではない。影のようなものが金属の表面を覆っている。
「けどな、朔。終わるもんを、人の願いで引き留めたらあかん」
「でも、泣いてた」
幼い朔は言った。
「消えたくないって」
「消えたくないもんは、ぎょうさんある」
祖父の声は静かだった。
「人も、神も、家も、村も、店も、名前も。みんな、できれば消えたくない」
「じゃあ、助けたらいい」
「助けられるもんと、助けたら歪むもんがある」
「歪む?」
「もう、自分で見たやろ」
その時、障子の向こうで何かが動いた。
ずるり、と畳を擦るような音。
朔は震えた。
祖父は振り返らなかった。
一条が障子の前に立った。彼の手には、細い白い紐があった。どこから出したのか分からない。紐は、雨の匂いをまとっていた。
「宗一郎」
一条が言った。
「時間がない」
「分かってる」
祖父は朔を見た。
「よう聞きなさい。あれは、もうおまえが助けようとした神やない。おまえを守ることだけに縛られたものや」
「ぼくのせい?」
「そうや」
祖父は、はっきりと言った。
幼い朔は泣かなかった。泣く余裕がなかった。
「けど、責めるために言うてるんやない。覚えるために言うてる」
祖父は鈴を手に取った。
「救おうとするな。終わりを歪ませるな」
その言葉は、幼い朔の胸に、釘のように打ち込まれた。
「これから、わしが片づける」
「消すの?」
「終わらせる」
「嫌だ」
「嫌でもやる」
祖父は立ち上がった。
一条が障子を開けた。
廊下の向こうに、黒い影がいた。
人の形をしているようにも、山の斜面が崩れたようにも見えた。雨音をまとい、泥の匂いを吐き、何本もの手を伸ばしている。その手は、朔の部屋を守るように、家中に張り巡らされていた。
守っている。
たしかに守っていた。
だが、それはもう守護ではなかった。
監禁に近かった。
祖父は鈴を鳴らした。
今度は、音が出なかった。
それでも、影は反応した。廊下の闇が揺れ、手のようなものが祖父に伸びる。
一条が白い紐を投げた。
紐は空中で幾筋にも分かれ、影の腕に絡みついた。
「朔を見るな」
一条の声が低く響いた。
影が呻いた。
その声は、山崩れの音に似ていた。大量の土が流れ、木が折れ、家が潰れる音。幼い朔は耳を塞いだ。
祖父は鈴を両手で包んだ。
「おまえは、もう守らんでええ」
祖父の声は、どこまでも静かだった。
「村は終わった。人は去った。朔も、おまえが守らんでええ。よう働いた。もう、終わってええ」
影が暴れた。
廊下の障子が破れ、畳がめくれ、雨戸が音を立てた。朔は布団の中で丸まった。怖かった。自分が助けようとしたものが、こんな姿になったことが怖かった。
だが、もっと怖かったのは、祖父の声が揺れないことだった。
祖父は、終わらせることを迷っていなかった。
一条が叫んだ。
「宗一郎、名が残っていない!」
「分かってる」
「呼べないぞ」
「役割で送る」
「無茶だ」
「朔に背負わせるよりましや」
その言葉を聞いた瞬間、幼い朔は顔を上げた。
祖父の背中が見えた。
小さな背中ではない。だが、今思えば、祖父も決して若くはなかった。背中には、年齢と疲労があった。
それでも祖父は、鈴を抱えたまま影に向かって歩いた。
「災いを知らせるもの。山の声を聞くもの。人の足を止めるもの」
祖父が言葉を紡ぐたび、影の輪郭が震えた。
「おまえの役目は終わった。終わったものを、子どもの中に残すな」
影の手が、祖父の肩に触れた。
祖父の顔が苦痛に歪む。
一条が紐を引いた。
「宗一郎!」
「朔」
祖父が、振り返らずに言った。
「見ときなさい」
幼い朔は、泣きながら見た。
影が鈴の中へ吸い込まれていく。
鈴は黒く膨らみ、今にも割れそうだった。
一条の白い紐が、その鈴を縛る。
祖父が低い声で何かを唱える。
雨の音が遠ざかる。
最後に、影は朔を見た。
顔はなかった。
それでも、見られたと分かった。
その視線にあったのは、恨みではない。
守りたかった。
ただ、それだけだった。
幼い朔は、それを理解してしまった。
だから、余計に苦しかった。
鈴が割れた。
音はしなかった。
黒い破片が畳に散り、影は消えた。
祖父はその場に膝をついた。一条が支えた。障子は破れ、廊下は泥水で濡れ、家の中には土砂の匂いが満ちていた。
幼い朔は、布団から出ようとした。
祖父が手で制した。
「来るな」
「おじいちゃん」
「来るな」
祖父の声は、まだ静かだった。
「これは、わしの仕事や」
その言葉を最後に、記憶は霞んだ。
次に見えたのは、朝だった。
障子は張り替えられ、畳は拭かれ、鈴の破片はなくなっていた。母は、朔に何があったのか詳しく聞かなかった。祖父は、奥の部屋で寝込んでいた。
一条は、庭先に立っていた。
幼い朔は、彼に尋ねた。
「あの神様、どこに行ったの」
一条は振り返った。
その頃から、彼は少し困ったように笑うことがあった。
「終わった」
「ぼくが、終わらせちゃったの?」
「おまえが始めた。終わらせたのは宗一郎だ」
「ぼく、悪いことした?」
一条はすぐに答えなかった。
「悪いことをした人間は、次に同じことをしないように覚える」
「覚えたら、許される?」
「許されるかは知らん」
一条は庭の濡れた石を見ていた。
「でも、忘れるよりはましだ」
その後、朔はその出来事を少しずつ忘れていった。
いや、忘れさせられたのかもしれない。
祖父は、朔に仕事のやり方を教えた。物に触れる時の距離、記憶に飲まれない呼吸、神や妖に同情しすぎないこと、帳簿への記録の仕方。
しかし、あの夜の話はしなかった。
一条も、しなかった。
朔自身も、いつしか断片だけを覚えている状態になった。
救おうとして、歪ませた。
祖父が片づけた。
だから、救わない。
記憶は、そういう短い教訓に圧縮された。
だが今、熱の中で、全てが戻ってきていた。
祖父の背中。
一条の白い紐。
鈴の割れる音のなさ。
そして、影の最後の視線。
守りたかっただけの神。
朔は布団の中で目を開けた。
天井が見える。
現在の事務所の天井だ。奥座敷ではない。雨の匂いはあるが、土砂の匂いではない。障子も破れていない。
傍らに、一条が座っていた。
行灯の弱い明かりの中で、彼の顔は白く見えた。薄くなっているのではなく、疲れているようだった。
「起きたか」
「どれくらい寝ていた」
「一晩」
「一晩?」
「おまえにしては素直に寝ていた」
朔は起き上がろうとして、身体の重さに顔をしかめた。
一条が肩を支えようとした。
朔はその手を見た。
透けていない。
少なくとも今は。
「夢を見た」
「熱があったからな」
「昔の夢だ」
一条の手が止まった。
「鈴の神のことを思い出した」
一条は何も言わなかった。
沈黙が、肯定だった。
「なぜ黙っていた」
「宗一郎に頼まれた」
「祖父に?」
「ああ」
「私に思い出させるなと?」
「正確には、急がせるなと」
「どう違う」
「いつか必要になれば、自分で思い出す。そう言っていた」
朔は布団の上で拳を握った。
右手の黒い線は、少し薄くなっていた。だが、消えてはいない。手首の手前で止まっている。
「必要になったということか」
「そうだろうな」
「祖父は、名喰いのことも知っていた」
「ああ」
「鈴の神と名喰いは関係あるのか」
一条はしばらく黙っていた。
「直接ではない」
「間接的には?」
「ある」
「話せ」
「おまえはまだ熱がある」
「話せ」
一条は、深く息を吐いた。
「鈴の神は、名を失いかけていた。だが、名喰いに剥がされたわけではない。村がなくなり、人が去り、自然に名が薄れていた。そこに、おまえが自分の記憶を差し出した」
「私が足場になった」
「そうだ」
「今と同じか」
「似ている。だが、今回は相手が悪い。名喰いは、足場を探している。おまえのように記録できる人間は、あれにとって都合がいい」
朔は、昨夜聞いた無数の声を思い出した。
名前を返せ。
呼んでくれ。
終わらせるな。
「あれは、神なのか」
「違う」
「妖か」
「それも違う」
「なら何だ」
一条は答えを探すように、障子の方を見た。
「終われなかったものの集まりだ。名前を失った神の残り滓、呼ばれなかった祈り、役割だけにされたものたちの怨み。そういうものが、長い時間をかけて絡まった」
「怨みなのか」
「怨みもある。悲しみもある。悪意も、善意もある。だから厄介なんだ。祓うべき悪として割り切れない」
「祖父は、それをどうした」
「封じようとした」
「藤代たちの前身組織と」
「ああ」
「失敗したのか」
一条は目を閉じた。
「半分は成功した。半分は失敗した」
「どういう意味だ」
「名喰いの核の一部は、保管庫に封じられた。だが、全部は捕まえられなかった。あれは名前そのものじゃない。名前が失われた跡だ。跡を全部拾うことはできない」
「だから今、また現れている」
「おそらくな」
朔は身体を起こした。
頭はまだ重いが、熱は少し引いている。喉が乾いていた。枕元に置かれていた水を飲むと、冷たさが腹に落ちた。
「保管庫に行く」
一条の顔が険しくなった。
「昨日の今日でそれを言うか」
「祖父が関わっている。名喰いの核がある。一条、おまえの名前も狙われている。行かない理由がない」
「ある。おまえの身体だ」
「動ける」
「動けることと、行っていいことは違う」
「止めるのか」
「止めたい」
「止められない」
一条は朔を睨んだ。
「本当に面倒な人間だ」
「昨日も聞いた」
「何度でも言う」
そのやりとりは、少しだけいつもの二人に戻ったようだった。けれど、空気は軽くならなかった。
朔は布団から出ようとして、ふらついた。
一条が支えた。
「ほら見ろ」
「立てる」
「立てるだけだ」
「十分だ」
「十分ではない」
一条の手は、今度は温かいように感じた。
いや、温かいのではない。朔の身体が冷えすぎているのだ。
その時、玄関の方で小さな音がした。
戸を叩く音ではない。紙が差し込まれる音。
一条が先に動いた。
朔も後を追った。
玄関の引き戸の下に、白い封筒が差し込まれていた。昨日と同じ種類の封筒だ。
朔は拾い上げ、封を切った。
中には短い文があった。
本日十三時、保管庫閲覧許可が下りました。
体調に問題がなければ、昨日の場所までお越しください。
なお、一条氏の同伴は推奨しません。
藤代慎
一条が読んで、鼻で笑った。
「推奨しない、か。役人らしい脅し方だ」
「同伴しない方がいいのか」
「行くに決まっている」
「推奨されていない」
「おまえに一人で行かせる方が推奨できない」
朔は封筒を畳んだ。
「その前に、祖父の箱を見たい」
「宗一郎の?」
「ああ」
事務所の奥には、祖父が残した木箱がある。帳簿の古い写しや、処置済みの札、使わなくなった道具が入っている。朔は何度か中を見たが、全てを調べたわけではなかった。祖父の死後、開けることにためらいがあった。
今は、ためらっている場合ではない。
木箱は押し入れの奥にあった。
桐の箱で、蓋には何も書かれていない。祖父は、重要なものほど表に名前をつけなかった。
朔は箱を畳に置き、蓋を開けた。
古い紙の匂いが立ち上った。
中には、帳簿の写し、白い紐、割れた鈴の破片を包んだ布、小さな木札、そして封のされた茶封筒が入っていた。
封筒には、祖父の字でこう書かれていた。
朔へ。
思い出した時に読むこと。
朔の指が止まった。
一条も黙っていた。
「知っていたのか」
朔が尋ねると、一条は首を振った。
「それは知らない」
朔は封を開けた。
中には便箋が三枚入っていた。祖父らしい、癖の少ない字だった。
朔へ。
これを読んでいるということは、お前はあの夜のことを思い出したのだろう。
思い出させたくなかったわけではない。だが、早く思い出せば、お前は自分を責める。遅く思い出せば、少しは仕事として受け止められるかもしれない。そう思った。
鈴の神を歪ませたのは、お前だけのせいではない。
あれは、すでに終わりそこねていた。お前はそこに手を差し出した。差し出し方を知らなかっただけだ。
それでも、覚えておかなければならない。
救いたいという気持ちは、美しいものではない。
時に、相手を自分の中に閉じ込める。
消えてほしくないという願いは、相手が終わる権利を奪うことがある。
だから、終わるものを歪ませるな。
ここまでは、朔の知る祖父の言葉だった。
だが、次の行で、筆跡が少し乱れていた。
ただし、一つだけ例外がある。
終わらせることそのものが、誰かによって歪められている時だ。
名を奪われ、役割だけを残され、終わることすらできなくなったものがいるなら、それはただの終わりではない。
その時は、片づける前に、何を奪われたのかを見なさい。
名喰いは、終わりを歪ませるものだ。
あれに触れる時、お前は自分の中に声を入れることになる。声は哀れに聞こえる。実際、哀れでもある。だが、哀れだからといって、全てを受け入れてはいけない。
お前は器ではない。記録者だ。
記録者は、聞く。
だが、住まわせない。
朔は、そこで一度手紙から目を離した。
聞く。
だが、住まわせない。
祖父が生きていたら、今の朔にそう言っただろう。
便箋の最後には、一条のことが書かれていた。
一条について。
あれは、名を失った神ではない。
名を置いてきた神だ。
本人が語らない限り、お前から暴くな。
ただし、あれが消えかけた時、お前は必ず救いたいと思うだろう。そう思うこと自体は止められない。人は、近くにいるものを失いたくない。
けれど、覚えておきなさい。
一条を救うことと、一条を終わらせないことは同じではない。
名を呼ぶことと、名で縛ることも同じではない。
お前がいつか選ぶ時、仕事としてではなく、人として選びなさい。
その代わり、選んだ責任は帳簿に書きなさい。
宗一郎
朔は手紙を握ったまま、しばらく動けなかった。
一条が、少し離れたところに立っている。
表情は分からない。手紙の内容が見えたのか、見えなかったのかも分からない。
「読むか」
朔が尋ねた。
一条は首を横に振った。
「宗一郎が、おまえに宛てたものだ」
「おまえのことも書いてある」
「だろうな」
「気にならないのか」
「気になる。だが、読まない」
「なぜ」
「読んだら、宗一郎と喧嘩したくなる」
朔は、少しだけ笑った。
久しぶりに笑った気がした。
一条も、かすかに口元を緩めた。
だが、その穏やかさは長く続かなかった。
朔が手紙を畳もうとした時、押し入れの奥から別の紙片が落ちた。
小さな札だった。
白い札に、古い墨で文字が書かれている。
名を喰うものは、名を持たぬものに寄る。
名を置いたものは、名を失ったものに似る。
朔はその文を読んだ。
一条が札を見た瞬間、顔色を変えた。
「しまえ」
「これは何だ」
「しまえ」
「一条」
「今すぐしまえ」
強い声だった。
朔は札を木箱に戻した。
一条は奥の障子の方へ歩いていった。背中が硬い。
「名を置いてきた神、というのはどういう意味だ」
朔は尋ねた。
一条は答えなかった。
「祖父の手紙にそうあった」
「読まないと言っただろう」
「聞かないとは言っていない」
一条は振り返らなかった。
「保管庫に行けば、分かるかもしれない」
「だから行くなと言っている」
「おまえの本当の名前に関わるのか」
一条の肩がわずかに動いた。
それだけで、答えは十分だった。
昼前、朔は外出の準備をした。
熱は完全には下がっていない。だが、意識ははっきりしている。右手の黒い線は手首の手前で止まっているが、油断すればまた伸びるだろう。
一条は終始、不機嫌だった。
「今からでも断れる」
「断らない」
「藤代に資料だけ送らせろ」
「送ると思うか」
「思わない」
「なら行くしかない」
「おまえは、本当に面倒な人間だ」
「三回目だ」
「足りない」
朔は鞄に祖父の手紙の写しを入れた。原本は木箱に戻す。持ち歩くには重すぎる。
帳簿は持たない。
持っていくべきではないと判断した。名喰いの文字が浮かんだ帳簿を、保管庫の近くへ持ち込むのは危険すぎる。帳簿は事務所の棚に戻し、白い布をかけた。
出かける直前、一条が文机に向かった。
朔は靴を履きながら、その様子を見ていた。
一条は何かを書いている。
「何をしている」
「置き手紙」
「誰に」
「おまえに」
「今から一緒に出るだろう」
「念のためだ」
朔は嫌な予感がした。
「見せろ」
「あとで見ろ」
「今見せろ」
一条は紙を折り、文机の端に置いた。
「行くぞ。遅れる」
「一条」
「呼ぶな」
そう言われると、朔はそれ以上言えなかった。
事務所を出て鍵をかける。
雨は上がっていた。空には、薄く光が差している。路地の石畳はまだ濡れていて、二人の影をぼんやり映していた。
しばらく歩いてから、朔は隣に一条の気配がないことに気づいた。
振り返る。
そこには誰もいなかった。
少し先の角にも、路地の入口にも、一条の姿はない。
朔は声を出しかけた。
だが、呼べなかった。
呼べば、見つかる。
その言葉が頭をよぎった。
朔は急いで事務所へ戻った。
鍵を開け、文机へ向かう。
一条が置いた紙がある。
開くと、そこには短い文字が書かれていた。
俺を探すな。
その下に、もう一行。
おまえに片づけられる前に、自分で行く。
朔は紙を握りしめた。
行く場所は、一つしかない。
藤代の管理室。
あるいは、その保管庫。
一条は、自分が祟り化する前に、封じられに行ったのだ。
朔の胸の奥で、何かが冷たく割れた。
救おうとするな。
終わりを歪ませるな。
祖父の声が聞こえる。
だが、同時に手紙の最後の言葉も浮かんだ。
仕事としてではなく、人として選びなさい。
朔は鞄を掴んだ。
右手の黒い線が、鋭く疼いた。まるで、どこか遠くで一条の名が剥がされ始めたかのようだった。
今度は呼ばなかった。
呼ぶ代わりに、朔は走った。
京都の路地を抜け、濡れた石畳を蹴り、まだ人の少ない通りへ出る。
終わらせるためではない。
片づけるためでもない。
ただ、一条が自分で決めた終わりを、誰かに勝手に決めさせないために。
朔は初めて、自分の仕事の掟を破る覚悟をした。




