第五章 名前を剥がす者
呼ばれない名前は、乾いていく。
紙に書かれた名は、まだいい。墨が残る。戸籍に載った名も、墓石に刻まれた名も、古い領収書の裏に押された朱印も、誰かが読もうと思えば読める。たとえ呼ぶ者がいなくなっても、名は物にしがみついて残ることがある。
だが、声だけに宿っていた名は脆い。
母親が子を呼ぶ声。
店主が神棚に向かって呟く呼び名。
子どもが木の下の見えない友だちに与えた名。
通りすがりの老人が、祠の前で何気なく口にした古い神の名。
そういう名前は、記憶の中でしか生きられない。
人が忘れれば薄れ、呼び間違えれば形を変え、誰も口にしなくなれば、やがて音になる前の沈黙へ戻っていく。
三条朔は、そのことを知っていた。
知っていたはずだった。
それでも、帳簿の中に浮かんだ「一条」という二文字を見るたび、自分が何も知らなかったような気がした。
その名は、本名ではない。
一条自身がそう言った。通り名だと。誰が呼び始めたのか、いつからその名で在るのか、彼は曖昧に笑って答えなかった。
だが、帳簿は拾った。
これから死に始める神の名として。
朔は、数日間、そのページを開かなかった。開かなければ進行が止まるというわけではない。むしろ、見ないふりに近い。だが、見るたびに黒い塗り潰しが広がっているようで、確認することが恐ろしかった。
祖父なら、どうしただろう。
その問いは何度も浮かんだ。
祖父なら、たぶん帳簿を開いただろう。必要なことから逃げる人ではなかった。終わるものがあるなら、その終わりを見届ける。神であれ、妖であれ、自分の知る者であれ。
救おうとするな。
終わりを歪ませるな。
祖父の声は、いつも短かった。
だからこそ、朔は聞き返せない。
もし終わりかけているのが、長年そばにいた相手だったらどうするのか。
記録することが正しいのか。
呼ばないことが守ることなのか。
それとも、呼ばないことで、こちらから存在を薄めているだけなのか。
答えはなかった。
その朝、事務所に郵便ではない封書が届いた。
郵便受けに入っていたのではない。玄関の引き戸の隙間に挟まれていた。白い封筒で、差出人は書かれていない。表には、黒い文字で「三条朔殿」とだけある。
字は整っていた。
整いすぎていて、人間味がなかった。
「招待状か」
一条が言った。
彼はいつもの場所、障子のそばに座っていた。姿は見えている。だが、以前より少しだけ光を透かすようになった。朝の白い光が、彼の肩の輪郭を曖昧にしている。
「招待状にしては、愛想がない」
朔は封を開けた。
中には、薄い紙が一枚だけ入っていた。
三条朔様
貴殿が保管中の黒色残滓および一連の神名剥離事案について、確認したい事項があります。
本日十五時、下記住所までお越しください。
京都異類文化財保全管理室
調査官 藤代慎
住所は、京都府庁に近い古いビルの一室だった。
朔は紙を文机に置いた。
「京都異類文化財保全管理室」
一条が読み上げるように言った。
「知っているのか」
「名前だけはな」
「どんな組織だ」
「役所と神社と学者と、祓い屋崩れが半端に混ざったようなところだ」
「偏見があるな」
「実体験だ」
「昔話ではなく?」
「昔話にしておきたい実体験だ」
一条は封筒をつまみ上げ、紙質を確かめるように指先で擦った。
「藤代慎。嫌な名だ」
「知り合いか」
「知らない。だが、字が嫌いだ」
「字で人を判断するな」
「字は人を裏切るが、人も字を裏切れない」
朔は封書をもう一度見た。
黒色残滓。
神名剥離事案。
こちらが採取した煤の存在を知っている。しかも、一連の出来事として把握している。祠、縁切り社、市場守市神。この数日の出来事を、誰かが見ていたということだ。
「行くのか」
一条が訊いた。
「行く」
「当然のように言うな」
「向こうが何を知っているのか確認する必要がある」
「罠かもしれん」
「その可能性はある」
「なら」
「罠でも、情報はある」
一条は呆れたように目を細めた。
「おまえは、危ない橋を渡る時、橋の構造を調べながら落ちるタイプだな」
「落ちる前提で話すな」
「最近のおまえを見ていると、前提にしたくもなる」
朔は返事をしなかった。
文机の上には、三つの小瓶が並んでいる。忘れられた祠、願われすぎた縁切り社、市場守市神。それぞれから採取した黒い煤は、完全に同じではない。祠の煤は乾いた木の灰に似ている。縁切り社の煤は、糸のように伸びる。市場の煤は、粒の一つ一つが小さな朱印を潰したような黒をしていた。
だが、どれも名を剥がされた場所に現れた。
異類文化財保全管理室がそれを知っているなら、無視はできない。
「一条」
朔は言いかけて、止まった。
呼んではいけない。
そう思うより早く、名は口から出かけた。
一条が静かにこちらを見ている。
「何だ」
彼の方から応じた。
朔は少しだけ息を吐いた。
「一緒に来るか」
「来るなと言われても行く」
「なぜ」
「おまえが余計なものに触るからだ」
「そればかりだな」
「実績がある」
一条は立ち上がった。
その足元の影が、少し遅れて動いたように見えた。
京都府庁の周辺は、古い建物と新しい施設が奇妙に同居している。
観光客の多い場所ではない。通りにはスーツ姿の人間が目立ち、昼過ぎの歩道には、急いでいるようで急いでいない足音が流れていた。梅雨前の空は重く、灰色の雲が低い。
指定されたビルは、御影石風の外壁を持つ五階建てだった。昭和の終わり頃に建てられたものだろう。入口のプレートには、いくつかの事務所名が並んでいる。
京都異類文化財保全管理室の名はなかった。
朔はエレベーターで四階へ上がった。廊下は薄暗く、蛍光灯が一本だけちらついている。突き当たりに、何も書かれていない扉があった。
ノックすると、すぐに返事があった。
「どうぞ」
中は、役所の出張所のような部屋だった。
灰色のキャビネット。金属製の机。壁には京都市内の地図が貼られ、赤と青のピンが無数に刺さっている。窓際には観葉植物が置かれているが、葉先が枯れていた。
部屋の中央に、男が立っていた。
三十代後半から四十代前半。濃紺のスーツに、無地のネクタイ。髪は短く整えられ、眼鏡の奥の目は静かだった。人当たりのいい顔をしているが、笑ってはいない。
「三条朔さんですね」
「はい」
「藤代慎です。お越しいただき、ありがとうございます」
声は丁寧だった。
丁寧すぎて、温度がなかった。
藤代は朔の後ろに目を向けた。
「そちらの方も、お入りください」
朔は振り返った。
一条は、扉の横に立っていた。藤代には見えている。
一条が目を細める。
「見えるのか」
「見えます。記録上は、古い境界神性、通称一条。未登録、未管理。そう理解しています」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
藤代は、最初から一条を知っていた。
朔は一歩前に出た。
「未管理とは、どういう意味ですか」
「文字通りです。神社庁の管理下にもなく、民間信仰としての継承記録も乏しく、祠や祭祀基盤も確認できない。人に近い形で活動し、特定の記録者と継続的に接触している。危険性は現時点で未評価」
「物のように言うんですね」
「文化財も、神性も、記録されなければ保全できません」
「保全?」
一条が笑った。
「よく言う。おまえらの保全は、たいてい箱に入れて鍵をかけることだ」
藤代は一条の皮肉を受け流した。
「座ってください。話が長くなります」
金属製の机を挟み、朔と一条は椅子に座った。藤代は向かいに座り、薄いファイルを開いた。
そこには、朔が最近関わった場所の写真が挟まれていた。
鳴らない鈴の祠。
縁切り社。
壬生東市場の祠。
閉鎖前の公園。
朔は表情を変えないようにした。
「監視していたんですか」
「調査です」
「同じことです」
「違います。監視は対象を制限するために行う。調査は対象を理解するために行う」
「理解したうえで制限することもある」
藤代は、初めてわずかに口元を動かした。
「その通りです」
一条が低く言った。
「嫌な男だな」
「よく言われます」
「褒めていない」
「承知しています」
藤代はファイルの一枚を取り出した。黒い粒子の拡大写真だった。
「三条さんが採取された黒色残滓。こちらでも同種のものを確認しています」
「どこで」
「京都市内各所です。特に、管理者不明の小祠、廃社、過剰な願掛けが行われている場所、閉鎖予定の市場や公園跡など」
「神名が剥がされている?」
「はい。私たちは、神名剥離と呼んでいます」
藤代は地図を指した。
赤いピンが刺さった場所。数は、朔が思っていたより多い。十や二十ではない。京都の中心部から周辺部まで、広く散っている。
「発生時期は」
「少なくとも半年前から。顕著になったのは、この一ヶ月です」
「なぜ私に接触したんですか」
「三条さんが関わった四件は、いずれも神名剥離後の処置が行われています。特に壬生東市場の件では、失われた神名の一部復元に成功している」
「成功というほどではありません」
「こちらでは、成功例として扱います」
「あなた方も処置をしているんですか」
「しています」
「どんな処置を」
藤代は、そこで少しだけ間を置いた。
「封止です」
一条が笑みを消した。
「やっぱりな」
朔は藤代を見た。
「封止とは」
「危険性のある神性、妖性、残留霊的構造物を、物品または記録媒体に固定し、外部への影響を遮断します」
「つまり、閉じ込める」
「必要な場合は」
「神名を取り戻すのではなく?」
「取り戻せるとは限りません。名を失った神性は、役割だけが暴走することがあります。願いを過剰に実行し、人や土地に影響を及ぼす。そうなる前に封じることが、被害を最小化する方法です」
正論に聞こえる。
だからこそ、不気味だった。
朔は縁切り社を思い出した。あの神は、役割だけが残り、人の縁を無差別に切ろうとしていた。放置すれば被害は広がっただろう。藤代の言う封止は、確かに被害を止める方法の一つかもしれない。
しかし、それは神の終わりを整えることとは違う。
「封じた神は、どうなりますか」
「保管されます」
「記録は」
「取ります」
「最後の記憶は」
「危険性が高い場合、接触は制限されます」
「つまり、見ない」
藤代の目がわずかに細くなった。
「全てを見る必要はありません」
「あります」
朔は即答した。
「終わるものには、終わる理由があります。そこを見ずに封じれば、ただ存在を止めるだけです」
「存在を止めなければ、人が傷つくこともあります」
「だから、傷つく前に片づける」
「それはあなたの方法です。私たちの方法ではない」
部屋の温度が下がったようだった。
一条は黙って二人を見ている。
藤代はファイルを閉じた。
「三条さん、私たちはあなたを責めるために呼んだわけではありません。協力を求めています」
「協力?」
「黒色残滓の採取記録、処置記録、帳簿の閲覧を希望します」
朔は沈黙した。
帳簿。
それは、祖父から受け継いだ仕事の核だった。名と最後の記憶が記録されたもの。救えなかった神、歪ませずに終わらせた妖、人の記憶から消えた小さなものたち。そのすべてがある。
それを、管理室に見せる。
考えるまでもなかった。
「お断りします」
藤代は驚かなかった。
「理由を伺っても?」
「帳簿は、管理のための資料ではありません」
「では、何ですか」
「墓であり、記録です」
「墓ならば、なおさら保全が必要です」
「保全と所有は違います」
「私たちは所有したいわけではありません」
「見たものを分類し、危険度をつけ、必要なら封じる。そういう組織では?」
藤代は黙った。
否定しない。
朔はそれで十分だった。
「もう一つ、確認したいことがあります」
藤代が言った。
「何ですか」
「一条氏についてです」
一条が、退屈そうに足を組み替えた。
「氏をつけられると気持ち悪いな」
「あなたの神名は、現在著しく不安定です」
「知っている」
「では、ご自身が神名剥離の対象になっていることも?」
一条は答えなかった。
朔が代わりに訊いた。
「なぜ分かる」
藤代は別の資料を出した。
そこには、墨で描いたような図がある。人の形をした輪郭。その周囲に、線や記号が書かれていた。専門的な図式なのだろうが、朔には詳しくは分からない。
「数日前から、境界系神性に異常な揺らぎが確認されています。場所は三条通周辺、およびあなたの事務所。該当する未登録神性は一条氏のみです」
「だから?」
「保護が必要です」
一条が短く笑った。
「保護。いい言葉だ」
朔は藤代を見た。
「具体的には」
「当室の保管施設で、神名の固定処置を行います。暴走を防ぐため、外部との接触は制限します」
「生きたまま遺品にするということですか」
言葉は自然に出た。
藤代の表情が初めて少し動いた。
「強い表現ですね」
「違いますか」
「安全確保です」
「本人の意思は」
「人に準じる意識がある場合は、確認します。ただし、公共安全上の危険が認められる場合、制限が優先されます」
一条は窓の外を見ていた。
表情は読めない。
朔の中で、冷たい怒りがゆっくり広がった。
「あなた方は、神を守っているつもりですか」
「少なくとも、人を守っています」
「神は?」
「神性は、人に影響を与える存在です。管理不能になれば、被害が出る」
「人に都合が悪くなれば封じる」
「人に害を及ぼせば封じます」
「害を及ぼす前から、封じようとしている」
藤代は静かに朔を見た。
「三条さん。あなたは、神や妖を近くに置きすぎている」
「仕事です」
「仕事なら、距離を取るべきです」
「距離を取って見えなくなるものもあります」
「見えすぎることで、判断を誤ることもあります」
その言葉は、痛いところを突いていた。
朔は反射的に一条を見そうになり、こらえた。
見れば、藤代に読まれる。そう思った。
しかし藤代は、すでに読んでいるようだった。
「一条氏が対象になっていることは、あなたにとって冷静な判断を難しくします」
「あなたに私の冷静さを測られる筋合いはありません」
「あります。あなたが黒色残滓に接触し続けているからです」
藤代は朔の右手を見た。
朔は無意識に手を握った。
「見せてください」
「断ります」
「黒い線が出ていますね」
一条が立ち上がった。
「そこまでにしろ」
藤代は一条に目を向けた。
「あなたも分かっているはずです。彼は足場にされている」
「おまえに言われるまでもない」
「なら、止めるべきです」
「止めて止まる男なら、苦労していない」
その言い方がいつもの一条らしくて、朔は少しだけ胸が痛んだ。
藤代は椅子から立ち上がり、壁の地図の前へ行った。
「神名剥離の中心には、名喰いと呼ばれる現象があると考えています」
名喰い。
その言葉が部屋に落ちた瞬間、一条の気配が変わった。
「知っているのか」
朔が訊くと、藤代はうなずいた。
「古い記録にあります。忘れられた神の名を食うもの。名を奪われた神は、祟り化するか、消滅する」
「実体があるんですか」
「不明です。妖に近い存在なのか、現象なのか、複数の神性残滓が集合したものなのか。確定していません。ただ、今回の一連の事案は、名喰いの記録と一致する点が多い」
一条が低く言った。
「昔話だ」
「昔話は、記録されれば資料になります」
「資料にすれば扱えると思うな」
藤代は一条の言葉を無視した。
「問題は、名喰いが単に神名を奪っているだけではないことです。神の役割を残し、名前を剥がす。すると神は、自分の目的を忘れ、役割だけを実行し続ける」
「縁切り社のように」
「はい。あるいは、名前を完全に奪われた場合、存在がほどけ、黒色残滓になる」
「祠の神のように」
「おそらく」
藤代は地図の赤いピンを一本指差した。
「半年前、右京区の廃社で最初の大きな事案がありました。名を失った水神が、周辺の井戸水を腐らせた。封止処置を行いましたが、処置後に黒色残滓が大量に発生した」
「封じたからでは?」
朔の問いに、藤代はすぐには答えなかった。
「可能性は否定しません」
その正直さが、かえって厄介だった。
藤代は完全な悪人ではない。少なくとも、そう見える。彼は彼なりに被害を防ごうとしている。だが、その方法が朔とは根本的に違う。
藤代は人を守るために神を止める。
朔は神の終わりを歪ませないことで、人の世界にも歪みを残さないようにする。
どちらが正しいのかは、簡単には決められない。
「名喰いは、なぜ今になって動いているんですか」
朔が訊くと、藤代は机の上に別の資料を置いた。
古い文書の写しだった。
「名喰いは、単独では発生しにくい。忘れられた神名の残骸が、一定量集まることで生じると考えられています」
「誰かが集めた?」
「その可能性があります」
「あなた方ではないんですか」
藤代の目が、少しだけ鋭くなった。
「疑うのは当然です」
「否定しないんですか」
「当室は過去に、多数の神性残滓を保管してきました。その中に、神名を失ったものも含まれます」
「つまり、名喰いの餌を集めていた」
一条が言った。
藤代は彼を見た。
「そう解釈されても仕方ありません」
「ずいぶん素直だな」
「事実を歪めても意味がありません」
「歪めてきた結果がこれじゃないのか」
藤代は何も言わなかった。
朔はその沈黙に引っかかった。
「あなたは、管理室の処置に問題があると思っているんですか」
藤代は視線を下げた。
「あると思っています」
意外な答えだった。
「なら、なぜ続けている」
「他に被害を止める方法がないからです」
藤代の声は、初めて人間らしく聞こえた。
「私は、祟り化した神性が人に何をするか知っています」
「経験があるんですね」
「あります」
短い答えだった。
それ以上は語らないつもりなのかと思ったが、藤代は少し間を置いて続けた。
「十年前、私の妹は、名を失った家守神に取り込まれました」
部屋の中が静かになった。
「家を守る神でした。古い町家に祀られていたものです。本来は、そこに住む家族の安全を守る小さな神だった。ですが、家が売却され、解体が決まり、神は名を失った。最後に残った役割は、家を守ることだけでした」
藤代の声は淡々としていた。
淡々としているからこそ、その奥にあるものが見えた。
「妹は、その家の調査に同行していました。神は、家族が出ていくことを許さなかった。家を守るため、そこに人を閉じ込めようとした。妹は三日後に見つかりました。生きてはいましたが、以後、家の外に出られなくなった」
「精神的に?」
「そう診断されています」
「実際は?」
「今も、あの家の中にいるつもりで生活しています」
朔は何も言えなかった。
藤代は眼鏡を外し、布で拭いた。手は震えていない。
「だから私は、神性を信用していません。善意の神であっても、名前を失えば役割に縛られる。役割に縛られた神は、人を壊すことがある」
「それで、封じる」
「はい」
「あなたの妹を壊した神も、封じたんですか」
「私が封じました」
その言葉には、誇りも安堵もなかった。
あるのは、古い傷だけだった。
一条が静かに言った。
「それで、おまえは助かったのか」
藤代は一条を見た。
「いいえ」
「だろうな」
藤代は眼鏡をかけ直した。
「ですが、他の被害は止まりました」
一条はそれ以上言わなかった。
朔は、藤代のことを少し理解した。
理解したからといって、同意できるわけではない。
「私に何をさせたいんですか」
朔が訊くと、藤代は再び仕事の顔に戻った。
「名喰いの発生源を特定したい。あなたの帳簿は、神名剥離の痕跡を拾っている可能性があります。協力していただければ、被害を抑えられる」
「帳簿は渡しません」
「閲覧だけでも」
「断ります」
「では、黒色残滓の照合を」
「それは考えます」
一条が朔を見た。
朔は続けた。
「ただし、こちらの記録を一方的に渡すつもりはありません。あなた方が持っている過去の神名剥離事案の記録を見せてください」
藤代はしばらく朔を見ていた。
「条件交渉ですか」
「協力を求めているのはそちらです」
「分かりました。一部なら可能です」
「一部では足りません」
「全ては無理です。危険性の高い資料が含まれます」
「危険かどうかは、こちらでも判断します」
「それは認められない」
二人は黙った。
一条が呆れたように言った。
「役所と職人の喧嘩は、長いな」
その一言で、わずかに緊張が緩んだ。
藤代は深く息を吐いた。
「では、まず一件。あなたに見てもらいたいものがあります」
「どこですか」
「当室の保管庫です」
一条が即座に言った。
「行くな」
「なぜ」
「保管庫は、封じたものの墓場だ。生きているものが行く場所じゃない」
「あなたは行ったことがあるんですか」
藤代が尋ねると、一条は冷たい目を向けた。
「似たような場所はな」
藤代は朔に向き直った。
「無理にとは言いません。ただ、名喰いに関する最古の保管物があります。あなたの祖父、三条宗一郎氏の記録とも関連している」
祖父の名が出た瞬間、朔は顔を上げた。
「祖父?」
「はい。二十七年前、宗一郎氏は、名を失った神性集合体の処置に関わっています。当室の前身組織と共同で」
「聞いていません」
「記録上は、非公開案件です」
一条の表情がわずかに動いた。
それを朔は見逃さなかった。
「知っているのか」
一条は答えなかった。
藤代は続けた。
「その案件名が、名喰いです」
部屋の蛍光灯が、かすかに鳴った。
朔は、祖父の古い背中を思い出した。帳簿を書く時の手。名を書く前に、筆先を少し止める癖。あれは、単なる儀式ではなかったのかもしれない。
祖父は知っていた。
名喰いを。
名前を剥がすものを。
そして、おそらく一条についても。
「保管庫はどこですか」
朔が訊くと、一条が低く言った。
「朔」
名前を呼ばれた。
朔は、一条を見た。
一条は本気で止めようとしていた。
「行くな」
「祖父が関わっている」
「だからだ」
「だから?」
「宗一郎が話さなかったことには、話さなかった理由がある」
「知らないままでいろということか」
「知らずに済むなら、その方がいいこともある」
「今さら無理だ」
朔は右手を見せた。
黒い線は、手首近くまで伸びている。
「もう関わっている」
一条は言葉を失った。
藤代はそのやりとりを見ていたが、口を挟まなかった。
「保管庫の閲覧は、明日以降の手続きになります」
「手続き?」
「許可が必要です。あなたは外部者ですから」
一条が皮肉っぽく笑った。
「便利だな、手続きというものは。危険なものは封じるくせに、見るには判子がいる」
藤代は何も言わず、名刺を一枚差し出した。
「明日、こちらから連絡します。それまで、黒色残滓には触れないでください」
「努力します」
「努力では不十分です」
「では、触れません」
「一条氏についても、急激な希薄化が進む場合は連絡を」
一条は笑った。
「自分が薄くなったら、おまえに電話しろと?」
「はい」
「断る」
「そう言われると思いました」
藤代は淡々と名刺をもう一枚置いた。
「それでも、必要なら連絡してください」
朔たちがビルを出る頃には、雨が降り始めていた。
細かい雨だった。傘を差すほどではないが、歩いているうちに肩が湿る。府庁前の通りを車が流れ、タイヤが水を薄く弾いていた。
一条はしばらく黙っていた。
朔も話しかけなかった。
呼ぶことが危険だと分かっていても、黙って隣を歩くことは、それはそれで不自然だった。今までは、何でもない会話が二人の間にあった。茶が渋い、団子が食べたい、今日の依頼人はまともだった、そういう言葉のやりとりが。
それらが消えるだけで、一条の存在が少し薄くなるように感じた。
「宗一郎のこと」
一条が不意に言った。
「何か知っているんだな」
「少しは」
「名喰いの案件に関わったことも?」
「ああ」
「なぜ言わなかった」
「言ってどうする」
「判断材料になる」
「ならない。おまえは、知れば必ず近づく」
「近づくべきなら近づく」
「だから言わなかった」
朔は足を止めた。
雨が髪に落ちる。
「おまえも祖父も、私を何だと思っている」
一条は少し遅れて振り返った。
「守るべき相手だ」
「私は子どもじゃない」
「子どもではないが、危なっかしい」
「それは理由にならない」
「理由になる」
一条の声が、珍しく強かった。
「名喰いは、おまえが思っているような相手じゃない。祓えば終わるものでも、記録すれば収まるものでもない」
「何なのか、言え」
「忘却だ」
雨音が、少し強くなった。
一条は続けた。
「人間が忘れたもの。呼ばなかったもの。役割だけを使って、名前を捨てたもの。そういう残り滓が集まってできたものだ。悪意だけじゃない。悲しみだけでもない。救えなかったもの、終われなかったもの、呼ばれたかったものの塊だ」
「それを、祖父は処置した?」
「処置しようとした」
「失敗したのか」
一条は答えなかった。
それが答えだった。
朔は手を握った。右手の黒い線が、雨に濡れて冷たくなる。
「その時、おまえもいたのか」
「いた」
「祖父と一緒に?」
「ああ」
「名喰いは封じられたのか」
「一部はな」
「一部?」
「全部は無理だった」
朔は、藤代の言葉を思い出した。
最古の保管物。
三条宗一郎の記録。
名喰い案件。
「残りが今、動いている」
「かもしれない」
「そして、おまえの名前にも近づいている」
一条は、かすかに笑った。
「俺に名前があればな」
「通り名でも名前だ」
「今日の子どもの神みたいにはいかない」
「なぜ」
「俺は、あの子ほど綺麗に終われない」
その言い方に、朔は苛立ちを覚えた。
「終わる前提で話すな」
「おまえは終わりを歪ませない仕事をしている」
「仕事の話をしているんじゃない」
一条は黙った。
朔は自分が何を言ったのか、少し遅れて理解した。
仕事ではない。
その言葉は、越えてはいけない線を越えたようでもあった。
遺品整理屋としてなら、朔は一条を記録することになる。終わりが来れば、その名を帳簿に残し、最後の記憶を見て、歪まないように片づける。
だが、今の朔はそれを拒んでいる。
救わない。
歪ませない。
その信条の外へ、足を踏み出そうとしている。
一条は、雨の中で静かに朔を見た。
「それが危ないんだ」
声は穏やかだった。
「おまえが俺を仕事として見られなくなれば、俺の終わりは歪む」
「終わらせない方法を探す」
「それを救うと言う」
「救ってはいけないのか」
「いけないわけじゃない」
一条は目を伏せた。
「ただ、救おうとして壊れるものもある」
朔は何も言えなかった。
祖父の言葉と同じだった。
救おうとするな。
雨が二人の間に降っている。
ふいに、一条の輪郭が揺れた。
雨の向こうに溶けるように、肩から先が薄くなる。
「一条」
朔は思わず呼んだ。
一条の姿が、一瞬だけ戻った。
同時に、朔の右手の黒い線が鋭く疼いた。
まるで、どこか遠くで誰かがその名を聞いたように。
一条は顔をしかめた。
「呼ぶなと言っただろう」
「消えかけた」
「呼べば戻ると思うな」
「戻った」
「その分、見つかる」
朔は右手を押さえた。
黒い線が、雨に濡れて光っている。いや、光っているのではない。皮膚の下で、何かが動いたのだ。
遠くから、声が聞こえた気がした。
呼んで。
返して。
終わらせないで。
朔は息を止めた。
「聞こえたか」
一条が訊いた。
「ああ」
「もう、足場になり始めている」
その声に、怒りではなく恐れがあった。
事務所へ戻ると、三つの小瓶がすべて倒れていた。
蓋は閉まっている。割れてもいない。だが、瓶の中の黒い煤が、それぞれ内側に張りついていた。
三つの瓶の煤は、同じ形を作っていた。
文字ではない。
だが、明らかに何かを示そうとしている。
線が一本。
その線から枝分かれするように、細い筋が伸びている。
地図のようにも、血管のようにも、根のようにも見えた。
朔は棚から帳簿を取り出した。
一条が止めるより早く、開く。
ページは、例の場所だった。
名称欄が黒く塗り潰されたページ。右下に、一条の字で「一条」とある。
その文字の周囲に、黒い筋が増えていた。
そして、ページの中央に、新しい文字が浮かび上がっていた。
名喰い。
墨ではない。
煤でもない。
穴のような黒で、その二文字は紙に沈んでいた。
朔は、そこから目を離せなかった。
文字を見ているというより、文字の向こうから見られているようだった。
耳の奥で、また声がした。
名前を返せ。
呼んでくれ。
終わらせるな。
それは、ひとつの声ではなかった。
無数の声だった。
老人の声。
子どもの声。
女の声。
獣の声。
風の音。
水の音。
金属が錆びる音。
木が朽ちる音。
忘れられたものたちの声が、帳簿の奥から噴き出してくる。
朔は立っていられなくなった。
膝が畳に落ちる。
一条が駆け寄った。
彼の手が朔の肩に触れる。
冷たい。
いや、冷たいのは一条の手ではなかった。朔の右手から、冷たさが全身へ広がっていた。黒い線が手首を越え、腕の内側へ伸びようとしている。
朔は帳簿から目を離そうとした。
離れない。
名喰い。
その二文字が、こちらを呼んでいる。
呼ばれることを待っていた名前が、今度は朔を呼んでいる。
「見るな!」
一条の声がした。
次の瞬間、一条が帳簿を閉じた。
音が途切れた。
朔は大きく息を吸った。肺が痛い。自分が呼吸を止めていたことに、そこで気づいた。
一条は帳簿の上に手を置いていた。
その手が、透けている。
はっきりと、向こう側の黒い表紙が見えた。
「おまえ」
朔が言うと、一条は笑おうとした。
「大したことはない」
「嘘をつくな」
「嘘だ」
珍しく、あっさり認めた。
一条は帳簿から手を離し、壁にもたれた。輪郭が揺れている。
「朔」
「喋るな」
「聞け」
「喋るなと言っている」
「俺が薄くなったら、藤代に連絡しろ」
朔は言葉を失った。
一条は苦しげに息をついた。神に呼吸が必要なのかは分からない。それでも、その仕草は苦痛に見えた。
「封じられるつもりか」
「封じられた方が、ましな場合もある」
「ふざけるな」
「ふざけていない」
「生きたまま遺品になるようなものだと言っただろう」
「だから、おまえがやるよりましだ」
その言葉の意味を理解した瞬間、朔の胸が冷えた。
おまえがやるよりまし。
一条は、朔に自分を片づけさせたくないのだ。
「勝手に決めるな」
朔の声は低かった。
一条は目を閉じた。
「おまえも、勝手に救おうとするな」
沈黙が落ちた。
外では雨が続いている。事務所の中には、濡れた衣の匂いと、古い紙の匂いと、黒い煤の気配が混ざっていた。
朔は右手を見た。
黒い線は、手首を越えていない。だが、皮膚の下でまだ疼いている。
帳簿は閉じられている。
閉じられていても、その中に「名喰い」の二文字があることを、朔は知っている。
藤代の保管庫。
祖父の非公開案件。
名を剥がされた神々。
そして、一条。
すべてが、ようやく一本の線になり始めていた。
だが、その線は糸ではなかった。
首にかかる縄のように、静かに締まり始めていた。




