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京都あやかし遺品整理屋――忘れられた神様の死に方を片づけていたら、相棒の古い神まで遺品になりかけています  作者: 二条理|アコンプリス


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第四章 子どもにしか見えない神様

 子どもは、いなくなるものに敏感だ。

 大人は、消えかけたものを見ないふりができる。古い店が閉まっても、通学路の木が切られても、毎朝聞こえていた犬の鳴き声が途絶えても、少し寂しいと思うだけで歩いていける。理由をつけることを覚えているからだ。

 時代だから。

 仕方がないから。

 危ないから。

 古いから。

 もう誰も使わないから。

 そう言えば、心のどこかに空いた小さな穴を、上手く塞いだふりができる。

 子どもは、それが下手だ。

 昨日までそこにあったものが、今日ない。

 昨日まで見えていたものが、今日薄い。

 昨日まで遊んでいた相手が、もうすぐ消える。

 それを、理屈で受け入れるには幼すぎる。

 だから時々、子どもは大人が無視した終わりの前で、ひとりだけ立ち止まる。

 三条朔の事務所にその少年が来たのは、曇った日の午後だった。

 京都の空は低く、雨になるかならないかを迷っているようだった。路地の石畳には湿気が残り、軒先の風鈴は鳴らなかった。朔は文机の前に座り、帳簿を閉じたまま見つめていた。

 開けば、そこに一条の名がある。

 それが分かっているから、開けなかった。

 昨夜、帳簿は勝手にページをめくった。黒く塗り潰された名称欄。その横に、一条の字で「一条」と書かれていた。これから死ぬ神の名前だ、と一条は言った。

 それ以降、朔は不用意に彼の名を呼んでいない。

 呼べば繋がる。

 繋がれば、見つかる。

 名前は、呼ぶ者と呼ばれる者の間にある。そう言ったのは一条自身だ。

 だが、呼ばなければ、そこにいることを確かめられない。

 厄介な矛盾だった。

 一条は障子のそばで横になっていた。眠っているようにも、ただ目を閉じているだけのようにも見える。朝から口数が少ない。昨日までなら、茶が薄いだの、甘味が足りないだの、何かしら文句を言っていたはずだ。

 その沈黙が、事務所を狭くしていた。

 玄関の引き戸が、控えめではなく、どんどんと叩かれた。

 子どもの叩き方だった。

 朔が戸を開けると、ランドセルを背負った少年が立っていた。小学四年生か五年生くらいだろう。髪は雨に濡れたように額に貼りつき、息が上がっている。灰色のパーカーの袖口は擦り切れ、膝には乾いた泥がついていた。

「ここ、三条さん?」

 少年は挨拶もなしに言った。

「そうです」

「遺品整理の?」

「はい」

「神様のも、片づけるって本当?」

 朔は一瞬、答えを探した。

 その言い方をする子どもは珍しい。たいていの大人は遠回しに言う。祠を見てほしい、変なものが残っている、何かいる気がする。神様の遺品整理と言い切る者は少ない。

「誰に聞きましたか」

「おばあちゃん」

「おばあちゃんの名前は?」

「森川千代子」

 朔は記憶を探った。

 森川千代子。二年前、古い櫛に宿ったものを片づけた依頼人だ。孫がいると言っていたような気がする。

「君の名前は」

「森川奏太」

「奏太くん。今日はどうしたんですか」

 少年は、朔の顔を真っ直ぐ見た。

「友だちが消えそうなんです」

 背後で、一条が目を開けた。

 奏太は事務所に入ると、畳の上に正座した。子どもにしては姿勢がいい。ただし、落ち着きはなかった。膝の上で手を握ったり開いたりしている。

 朔は麦茶を出した。奏太は一口で半分ほど飲んだ。走ってきたのだろう。

「友だちというのは、人間ですか」

 朔が尋ねると、奏太はすぐに首を振った。

「たぶん違う」

「たぶん?」

「人間じゃないと思う。だって、先生もお母さんも見えないから」

「どこにいる友だちですか」

「公園」

「名前は」

 奏太は言葉に詰まった。

「名前は、ない」

「ない?」

「ぼくは、木の下の子って呼んでた」

 一条が起き上がった。奏太には見えていないようだったが、少年の言葉に反応したらしい。

 朔は続けた。

「その友だちは、どんな姿をしていますか」

「ぼくより小さい。幼稚園くらい。でも、声はちょっと大人みたいなときもある。髪は、葉っぱみたいな色。服は、昔の服みたいな……お祭りのときに着るやつじゃなくて、もっと白いやつ」

「いつから見えるように?」

「二年生のとき」

 奏太は視線を畳に落とした。

「ぼく、その公園で転んで、足を怪我したんです。血が出て、泣いてたら、木の下にその子がいた。何で泣くのって言われて、転んだからって言ったら、転ぶのは地面が悪いって言った」

 一条が小さく笑った。

「それはなかなかいい友だちだ」

 奏太には聞こえない。

「それから、たまに会うようになりました。学校帰りに公園に寄ると、いる時がある。いない時もある。でも、昨日行ったら、体が薄くなってて」

「薄い?」

「向こう側の木が見えたんです」

 奏太の声が震えた。

「それで、もうすぐいなくなるって言った。だから、三条さんのところに行けって、おばあちゃんが言いました。前に助けてもらったことがあるからって」

 朔は森川千代子の顔を思い出した。あの老女は、余計なことを言う人ではなかった。だが、必要だと思えば、子どもにも神や妖の話を隠さないのだろう。

「その公園はどこですか」

「御池からちょっと北。もうすぐなくなる公園です」

「なくなる?」

「マンションになるって。遊具も、来週撤去するって」

 朔は一条を見た。

 一条は表情を消していた。

 忘れられる神。

 願われすぎた神。

 名を失いかけた市場の神。

 今度は、子どもにしか見えない神。

 流れは偶然ではない。

「案内できますか」

 朔が尋ねると、奏太は強く頷いた。

「できます。今から行けます」

「保護者には?」

「おばあちゃんが、三条さんと一緒ならいいって」

「お母さんは」

「仕事。おばあちゃんには言ってある」

 子どもを連れて歩くには、確認が必要だった。朔は森川千代子に電話をかけた。彼女は落ち着いた声で応対し、奏太が本当に事務所へ向かったこと、自分が行くよう勧めたことを認めた。

「無理なお願いをしてすみません」

 電話の向こうで、千代子は言った。

「けど、あの子が見ているものを、私らが笑うわけにはいきません。私も昔、そういうものを見て笑われたことがあります」

「公園の件は?」

「近所では、もう決まった話です。古い遊具が危ない、利用者が少ない、防犯上も問題がある。大人の言うことは、いつも間違ってはいません」

「はい」

「でも、間違っていないことが、全部正しいわけでもありません」

 その言葉を聞いた時、朔は少しだけ黙った。

 電話を切ったあと、道具を鞄に詰めた。白布、手袋、記録帳、木箱、空瓶。帳簿の写しも入れる。

 一条は立ち上がらなかった。

「来ないのか」

 朔が訊くと、一条は薄く笑った。

「呼ばない方がいいんじゃなかったのか」

「今は名前を呼んでいない」

「そういう問題か」

「来るのか、来ないのか」

 一条は障子の外を見た。

「子どもにしか見えない神は、苦手だ」

「なぜ」

「まっすぐ見てくる」

「おまえにも苦手なものがあるんだな」

「多いぞ。渋い茶、湿った煎餅、名前の話、子どもの目」

 軽口だった。

 けれど、その最後だけは本当のように聞こえた。

 一条はゆっくり立ち上がり、羽織を肩にかけた。

「行く。おまえ一人だと、また余計なものに触る」

 奏太が不思議そうに首を傾げた。

「三条さん、誰と話してるんですか」

 朔は少し考えた。

「仕事仲間です」

「見えない人?」

「今は、君には見えないようです」

 奏太は驚かなかった。むしろ、少し安心したようだった。

「じゃあ、本当にそういう仕事なんだ」

「そういう仕事です」

 公園は、町の隙間に残っていた。

 古い住宅と新しいマンションの間、わずかに開けた三角形の土地。入口には錆びた車止めがあり、赤いペンキの剥がれたすべり台、半分埋まりかけた砂場、鎖の片方が新しく交換されたブランコがある。中央には大きな楠が立っていた。

 その楠の根元に、小さな祠のようなものがあった。

 祠といっても、正式なものではない。石を二つ重ね、上に古い瓦を載せただけの簡素なものだ。前には、泥のついたボール、割れたシャベル、色褪せた迷子札、拾ったビー玉、折れたクレヨンが置かれている。

 子どもの供物だ。

 公園の入口には、白い看板が立っていた。

 公園廃止のお知らせ。

 老朽化した遊具撤去および再開発工事のため、来月より本公園を閉鎖します。

 その文字は役所の文面らしく、丁寧で、どこにも感情がなかった。

「ここ」

 奏太は楠の方へ走りかけて、途中で止まった。何かを驚かせないようにしているのだろう。足音を小さくし、根元へ近づく。

「いる?」

 奏太は木の陰に向かって話しかけた。

 朔には、まだ何も見えなかった。

 しかし、気配はあった。

 祠の神や市場の神とは違う。もっと軽く、柔らかい。木漏れ日の中に残った笑い声のような気配だった。だが、その輪郭はひどく薄い。

 一条は公園の入口で立ち止まったまま、楠を見ていた。

「いるな」

「見えるか」

「見ようと思えば」

「見たくないのか」

「さっき言っただろう。子どもの目は苦手だ」

 朔は楠に近づいた。

 奏太が木の根元にしゃがんでいる。

「連れてきたよ。三条さん。神様の遺品を片づける人」

 その紹介は少し違うと思ったが、朔は訂正しなかった。

 楠の陰が揺れた。

 最初は光の加減だと思った。

 だが、やがてそこに小さな影が浮かんだ。

 幼い子どもの姿をしている。奏太が言った通り、五歳か六歳くらいに見える。髪は淡い緑を含んだ灰色で、目は大きい。白い衣のようなものを着ているが、その裾は土や落ち葉に溶けている。輪郭は薄く、向こう側の木肌が透けていた。

 子どもは、朔を見た。

 その目は、見た目よりずっと古かった。

「大人だ」

 小さな神は言った。

 声は、風が葉の裏を撫でるようだった。

「はい」

 朔は膝をつき、目線を少し下げた。

「三条朔です」

「名前があるんだ」

「あります」

「いいな」

 その言葉が、朔の胸の奥を静かに刺した。

 奏太が慌てて言った。

「この子、いなくなりそうなんです。三条さん、助けてください」

 助けてください。

 子どもの口から出るその言葉は、重い。

 朔はすぐには答えなかった。

 小さな神は、奏太の袖を引いた。

「言わなくていいって言った」

「でも、消えちゃうじゃん」

「公園がなくなるから」

「そんなの、おかしいよ。公園がなくなったら、どこかに行けばいいじゃん」

「行けない」

「どうして」

「ここだから」

 奏太は唇を噛んだ。

 小さな神は、朔を見上げた。

「あなたは、片づける人?」

「そうです」

「じゃあ、片づけに来たんだ」

「まだ決めていません」

「決めてない?」

「まず、あなたが何者なのかを見ます」

 小さな神は首を傾げた。

「ぼく、何者なんだろう」

 その声は、ひどく静かだった。

 朔は楠の根元に置かれた品々を見た。

 泥のついたボール。

 割れた黄色いシャベル。

 赤いクレヨン。

 名前の消えた迷子札。

 ビー玉。

 小さな靴の片方。

 どれも、子どもが忘れていったものだ。遊びの途中に置き去りにされ、やがて誰のものでもなくなったもの。

「触れてもいいですか」

 朔が尋ねると、小さな神は少し考えた。

「痛くしない?」

「しません」

「じゃあ、いい」

 奏太が不安そうに見ている。

「三条さん、何するの」

「記憶を見る」

「記憶?」

「この子が、どういう神だったのかを確かめます」

「見たら、助けられる?」

 朔は答えなかった。

 答えなかったことが、奏太には答えに聞こえたのだろう。彼の顔が強張った。

 朔は手袋をはめ、まず泥のついたボールに触れた。

 視界が揺れた。

 公園は、今より少し新しかった。

 すべり台の赤は鮮やかで、ブランコの鎖も錆びていない。楠は今より若く、根元にはまだ石も瓦もなかった。

 子どもたちが走っている。

 ボールが転がる。

 誰かが追いかける。

 砂場で山を作る子がいる。

 ブランコを押してほしいと泣く子がいる。

 楠の下に、小さな気配があった。

 最初は形を持たない。ただ、子どもたちの声に反応して揺れるもの。転びそうな子の足元を少しだけ柔らかくし、迷子になりかけた幼児の目線を母親の方へ向ける。ボールが道路へ飛び出しそうになれば、風でわずかに軌道を変える。

 誰も気づかない。

 それでも、気配は嬉しかった。

 子どもたちはよく物を忘れた。

 シャベル、ビー玉、クレヨン、髪留め、片方だけの手袋。忘れ物は楠の根元に集まった。誰かが拾って置く。やがて、それはこの場所の小さな決まりになった。

 落とし物は、木の下へ。

 その積み重ねが、形のない気配に輪郭を与えた。

 見守るもの。

 忘れ物を預かるもの。

 転んだ子どもの痛みを、ほんの少しだけ軽くするもの。

 それが、この小さな神だった。

 名前はなかった。

 子どもたちは、さまざまに呼んだ。

 木の下の子。

 公園の子。

 見えない友だち。

 忘れ物番。

 葉っぱの子。

 どれも正式な名ではない。だが、神はそれで十分だった。子どもたちはすぐに大きくなる。名前を覚え続けることなどできない。けれど、遊んでいる間だけでも呼ばれれば、それでよかった。

 季節が進んだ。

 子どもの数が減った。

 塾へ行く子が増えた。

 公園で遊ぶより、家で画面を見る時間が増えた。

 近所の大人たちは、遊具が古くて危ないと言い始めた。

 夜になると若者が集まるから、防犯上よくないという声も出た。

 公園は、少しずつ大人の言葉に囲まれていった。

 利用者数。

 老朽化。

 維持管理費。

 安全性。

 再開発。

 どれも間違ってはいなかった。

 ただ、その言葉の中に、子どもたちの笑い声は含まれていなかった。

 小さな神は、少しずつ薄くなった。

 最後に来るようになったのが、奏太だった。

 よく転ぶ子だった。

 慎重なようで、肝心なところで足元を見ない。泣き虫ではないが、痛いときはちゃんと泣く。神はそこが気に入っていた。

 奏太は、木の下の子と呼んだ。

 初めてそう呼ばれた時、小さな神は自分に形が戻るのを感じた。

 けれど、奏太だけでは足りなかった。

 子ども一人の記憶は、温かいが細い。

 神を繋ぎ止めるには、あまりに頼りない。

 そして、公園廃止の看板が立った。

 その日から、小さな神は自分の足元が消えていくのを感じた。

 神は土地に結びついている。

 楠、砂場、すべり台、忘れ物の石。

 それらがなくなれば、自分もほどける。

 奏太は言った。

 忘れない。

 絶対に忘れない。

 小さな神は、それが嬉しかった。

 同時に、苦しかった。

 子どもに「忘れない」と言わせることは、呪いに近い。

 記憶は、子どもの未来を縛るためにあるものではない。

 映像が途切れた。

 朔はボールから手を離した。

 掌が冷えている。だが、前の三つの事件で触れた黒い煤のような冷たさではない。もっと透明で、春先の水のような冷たさだった。

 奏太が身を乗り出した。

「見えた?」

「ああ」

「助けられる?」

 また、その問いだった。

 小さな神も、朔を見ている。

 一条は少し離れた場所で楠にもたれていた。彼の顔は読めない。

 朔は、祠の品々を見た。

「この神は、この公園に結びついています」

「じゃあ、公園がなくなったら」

 奏太の声が硬くなる。

「消える可能性が高い」

「そんなの嫌だ」

「奏太くん」

「嫌だ!」

 公園に少年の声が響いた。

 近くを通りかかった女性が、何事かとこちらを見た。朔は視線を下げたまま、奏太が落ち着くのを待った。

 奏太は拳を握りしめていた。

「三条さんは、神様の遺品を片づける人なんでしょ。だったら、消えないようにできるんじゃないの」

「私は、消えないようにする人ではありません」

「じゃあ、何しに来たの」

「終わりを歪ませないために」

「終わらせたくない!」

 その叫びは、まっすぐだった。

 朔は言葉を失った。

 大人なら、もう少し迂回する。

 仕方がないと自分に言い聞かせる。

 何とかできないかと問いながら、どこかで諦める準備をする。

 だが、子どもはそうしない。

 嫌だと叫ぶ。

 その単純さが、時に一番正しい。

 奏太は楠の根元に駆け寄り、小さな神の前に立った。

「ぼくの家に来ればいいじゃん。ぼくの部屋、空いてるよ。公園じゃなくても、ぼくが覚えてる。毎日話す。だから消えないでよ」

 小さな神は、困ったように笑った。

「行けない」

「何で」

「ぼくは、ここだから」

「ここがなくなるんだよ」

「だから、ぼくもなくなるんだよ」

「そんなの、おかしい!」

 奏太の目から涙が落ちた。

「神様なら、なんとかしてよ」

 小さな神は、少しだけ首を傾げた。

「神様って、なんとかできるものなの?」

 その問いに、奏太は答えられなかった。

 朔も、答えられなかった。

 一条が小さく息を吐いた。

「子どもは、残酷だな」

 朔は彼を見た。

「そうか」

「ああ。できないことを、まっすぐ願う」

「願うことが残酷なのか」

「願われた方が、できないと知っている場合はな」

 一条の声には、奇妙な実感があった。

 朔は、祖父の言葉を思い出していた。

 救おうとするな。

 終わりを歪ませるな。

 幼い頃、朔は死にかけた神を救おうとしたことがある。まだ断片しか思い出せない。祖父はその話をあまりしたがらなかった。ただ、結果として何かが歪み、祖父がそれを片づけた。それだけは分かっている。

 だから朔は、救わないことを覚えた。

 けれど、目の前で泣く子どもに「終わるものは終わる」と言うことが、正しいのかどうかは分からなかった。

 朔は楠の根元に置かれた迷子札を手に取った。

 古い金属板で、表面の名前は消えている。裏側に、子どもの字で「ここ」と書かれていた。

 ここ。

 名前の代わりのような言葉だった。

「奏太くん」

 朔は言った。

「この公園が閉鎖される前に、できることがあります」

 奏太が涙を拭いた。

「助ける方法?」

「完全に助ける方法ではありません」

「じゃあ嫌だ」

「でも、この子が何もなかったように消えるのは防げるかもしれない」

 奏太は黙った。

 小さな神が朔を見た。

「何をするの」

「お別れ会です」

 奏太が顔をしかめた。

「お別れなんかしたくない」

「お別れをしないまま消える方がいいですか」

「……」

「この子は、子どもたちの忘れ物から形を持った神です。なら、最後に子どもたちがここにいたこと、この子がここにいたことを記録する必要があります」

「記録?」

「名前がなくても、存在したことは残せる」

 一条の視線が、朔に向いた。

 その言葉は、自分に向けられたものだと分かったのだろう。

 奏太はまだ納得していなかった。

「でも、記録したら、消えないの?」

「消えるかもしれません」

「じゃあ意味ない」

「意味があるかどうかは、残るかどうかだけで決まるものではありません」

 それは、子どもには難しい言葉だった。

 朔自身にも、簡単ではなかった。

 だから言い直した。

「ひとりで覚えているのは、つらいです」

 奏太が顔を上げた。

「君だけが忘れないと言うと、この子は君を縛ってしまう。君も、この子を縛ってしまう」

「縛る?」

「忘れちゃいけない、と思い続けることです」

 奏太は唇を噛んだ。

「忘れたら、悪いじゃん」

「忘れることは、いつも悪いことではありません」

「悪いよ」

「そう思うのは、君が優しいからです」

 奏太の目が揺れた。

「でも、この子は、君にずっと泣いていてほしいと思っていない」

 小さな神が、少しだけ笑った。

「うん」

 奏太は振り返った。

「ほんと?」

「ほんと」

「ぼくが忘れても?」

「忘れても、いい」

「そんなの、嫌だ」

「でも、奏太は大きくなる」

 小さな神は、楠の根元から公園を見た。

「大きくなったら、ここで遊ばなくなる。走らなくなる。転ばなくなる。もしかしたら、転ぶかもしれないけど、泣かなくなる」

「泣くかもよ」

「泣いてもいいけど」

 小さな神は、ほんの少し得意げに言った。

「でも、そのころには、ぼくはいなくていい」

 奏太の顔がくしゃりと歪んだ。

「何でそんなこと言うの」

「子どもを見送るのが、ぼくだったから」

 その言葉で、朔はこの神の輪郭を理解した。

 守るだけではない。

 預かるだけでもない。

 この神は、子どもたちが公園を卒業することまで見守っていたのだ。

 遊び場は、永遠にいる場所ではない。

 いつか通り過ぎる場所だ。

 だからこそ、その場所に宿る神は、子どもを引き留めてはいけない。

 朔は立ち上がった。

「奏太くん。近所の子で、この公園で遊んだことがある子を呼べますか」

「今?」

「今日でなくてもいい。閉鎖までに」

「呼べると思う。でも、みんな来るかな」

「来るかどうかは分かりません。けれど、声をかけることはできます」

「何て言えばいいの」

「公園のお別れ会をする、と」

「木の下の子のことは?」

「見える子には見える。見えない子には、公園へのお礼でいい」

 奏太は迷っていた。

 お別れ会という言葉が、まだ嫌なのだろう。

 だが、彼は涙を拭いて頷いた。

「やる」

 小さな神は目を丸くした。

「ほんとに?」

「やる。だって、ひとりで覚えてるのは、つらいって三条さんが言ったから」

 朔は少しだけ目を伏せた。

 子どもは、残酷なほどまっすぐ願う。

 だが同じくらい、まっすぐ受け取る。

 それからの数日は、妙に慌ただしかった。

 奏太は本当に子どもたちに声をかけた。近所の同級生、昔その公園で遊んでいた中学生、保育園帰りの親子。森川千代子も手伝い、町内会に話を通した。

 公園廃止前の小さなお別れ会。

 そういう名目なら、大人も反対しなかった。むしろ、長年使った場所への感謝として悪くないという声も出た。役所の担当者も、工事前の短時間なら問題ないと言った。

 朔は表に出すぎないようにした。

 自分の仕事は、祭りを仕切ることではない。記録することだ。

 それでも、準備には関わった。

 楠の根元にある忘れ物を一つずつ拭き、白布の上に並べる。割れたシャベルは危なくないように包み、迷子札は小さな木箱に入れた。奏太と近所の子どもたちは、公園の思い出を紙に書いた。

 ブランコで靴を飛ばした。

 砂場に宝物を埋めた。

 すべり台でズボンが破れた。

 ここで初めて逆上がりができた。

 犬に追いかけられて泣いた。

 転んだら、いつも木の下に行った。

 見えない友だちのことを書いたのは、奏太だけではなかった。

 小さな女の子が、一枚の紙にこう書いていた。

 きのしたに、だれかいるきがした。

 こわくなかった。

 それだけで十分だった。

 お別れ会の日、空はよく晴れた。

 公園には、思ったより多くの人が集まった。子どもたちだけでなく、親や祖父母もいた。かつてこの公園で遊んだという大人も数人来ていた。

 彼らには、小さな神は見えていない。

 それでも、不思議なことに、楠の根元に近づくと皆少しだけ声を落とした。何かを感じているのだろう。見えなくても、そこにあったものの気配は伝わることがある。

 奏太は、楠の前に立った。

 手には、小さな紙の束を持っている。子どもたちが書いた思い出の紙だ。

「この公園で遊んだことを書きました」

 声は震えていたが、最後まで言えた。

「ありがとうございました」

 大人たちが微笑ましそうに見ている。

 奏太は紙の束を楠の根元に置いた。

 小さな神は、その隣に立っていた。

 今日は、いつもよりはっきり見える。たくさんの子どもの記憶が集まったからだろう。髪の葉のような色も、白い衣も、目の古さも、輪郭を取り戻していた。

 しかし、それは消滅が遠のいたという意味ではなかった。

 ろうそくが消える前に、一瞬強く燃えるのに似ていた。

 朔は少し離れた場所で帳面を開いていた。一条はその隣にいる。今日は、彼の姿も少し濃く見える。子どもたちの声が、この場のあらゆる輪郭を強めているのかもしれなかった。

「いい終わり方だな」

 一条が言った。

「終わらないかもしれない」

「そう思いたいのか」

 朔は答えなかった。

 一条は、小さな神を見た。

「あれは、消える」

 声は冷たくなかった。ただ、事実を言う声だった。

「分かっている」

「分かっている顔ではない」

「分析するな」

「分析ではない。心配だ」

 朔は一条を見た。

 その言葉が一条の口から出るのは、珍しかった。

 会の終わりに、奏太が小さな神に向かって言った。

「名前、つけてもいい?」

 小さな神は驚いた。

「ぼくに?」

「うん。木の下の子だと、長いし」

「名前があると、消えない?」

 その問いに、奏太は一瞬、朔を見た。

 朔は首を横に振らなかった。縦にも振らなかった。

 奏太は自分で考え、答えた。

「消えないかは分からない。でも、呼びたい」

 小さな神は、ゆっくり頷いた。

「じゃあ、いい」

 奏太は深く息を吸った。

「このは」

 小さな神が瞬きをした。

「このは?」

「木の葉っぱみたいだから。あと、ここにいたから。ここ、の、は」

 子どもらしい、単純な名前だった。

 正式な神名ではない。

 由緒もない。

 祭神としての名でもない。

 けれど、それは呼ぶための名前だった。

 小さな神――このはは、初めて見る顔で笑った。

「このは」

 自分でそう繰り返す。

 その瞬間、楠の葉が一斉に揺れた。

 風が吹いたのではない。葉の一枚一枚が、小さな声で返事をしたようだった。

 子どもたちの中に、何人か不思議そうに木を見上げる者がいた。見えてはいない。けれど、何かが起きたことは分かったらしい。

 奏太は泣かなかった。

 泣かないように、必死に口を結んでいた。

「またね、じゃないよね」

 奏太が言った。

 このはは少し考えた。

「ありがとう、がいい」

「ありがとう」

「うん」

「ありがとう、このは」

 その名を呼ばれた時、このはの姿が白く透けた。

 奏太が手を伸ばしかける。

 朔は止めなかった。

 奏太の手は、このはの手に触れたように見えた。実際には、木漏れ日を掴んだだけかもしれない。それでも、奏太は確かに何かを感じた顔をした。

 このはは、最後に公園を見回した。

 すべり台。

 砂場。

 ブランコ。

 楠。

 忘れ物の石。

 子どもたち。

 大人になった子どもたち。

 もう遊ばない者たち。

 そのすべてを見送るように、微笑んだ。

 そして、薄れていった。

 消える瞬間、黒い煤は出なかった。

 名前を剥がされたのではない。

 役割を奪われたのでもない。

 終わる場所で、呼ばれて終わった。

 だから、黒は出なかった。

 代わりに、楠の根元に小さな葉が一枚落ちた。

 まだ青い葉だった。

 奏太はそれを拾い、両手で包んだ。

 公園のお別れ会は、何事もなかったように終わった。

 大人たちは、いい会だったと言いながら帰っていった。子どもたちは最後にすべり台を滑り、ブランコをこぎ、名残惜しそうに公園を出た。

 奏太は最後まで残っていた。

 朔は楠の根元に置かれた品々を木箱に納めた。すべてを持ち帰るわけではない。いくつかは町内会で保管し、いくつかは公園の跡地に埋めることになった。迷子札と子どもたちの思い出の紙だけは、朔が記録として預かる。

「三条さん」

 奏太が言った。

「このは、助かったの?」

 朔は木箱の蓋を閉めた。

「分かりません」

「消えたよ」

「はい」

「じゃあ、助かってないじゃん」

「そうかもしれません」

 奏太は不満そうだった。

 朔は少年の目を見た。

「でも、歪まずに終われました」

「それって、いいこと?」

「私には、そう思えます」

「ぼくには、まだ分かんない」

「すぐに分からなくてもいいです」

 奏太は、手の中の葉を見た。

「忘れてもいいって言われたけど、たぶん忘れない」

「忘れないと決める必要はありません」

「でも、忘れたくない」

「なら、今は覚えていてください」

「今は?」

「いつか忘れたとしても、今日君が呼んだことは消えません」

 奏太は少しだけ考えた。

「記録したから?」

「それもあります」

「三条さんの帳簿に?」

「はい」

「じゃあ、このはは、そこにいる?」

 朔は答えに迷った。

 帳簿に書けば、完全には消えない。だが、それは存在を保存することとは違う。記録は場所であり、同時に墓でもある。

「そこに、いたことは残ります」

 奏太はゆっくり頷いた。

「じゃあ、お願いします」

 その言い方があまりに大人びていて、朔は少し胸が詰まった。

「分かりました」

 奏太は頭を下げ、公園を出ていった。途中で一度振り返ったが、もう泣いてはいなかった。

 事務所に戻ったのは、夕方だった。

 朔は帳簿を開いた。

 今度は勝手にページが現れたわけではない。自分で白紙を開き、日付を書いた。

 名称。

 このは。

 正式名称、不明。

 通称、木の下の子、公園の子、忘れ物番。

 所在地、御池北、旧児童公園。

 神格、子どもの遊び場、忘れ物、転倒避け、迷子避けを見守る小神。

 依頼者、森川奏太。

 残された物品、泥のついたボール、割れたシャベル、迷子札、ビー玉、子どもたちの思い出の紙、楠の青葉。

 朔は筆を止めた。

 最後の記憶の欄に、どう書くべきか迷った。

 神は死んだ。

 だが、死という言葉はどこか違う。

 消滅した。

 それも冷たすぎる。

 終わった。

 それが一番近い。

 朔は書いた。

 公園閉鎖を前に、子どもたちの記憶により一時的に輪郭を回復。森川奏太により「このは」と呼称される。正式な神名ではないが、最後に呼ばれた名として記録。黒い残滓は発生せず。終わりは自然。歪みなし。

 歪みなし。

 その三文字を書いた時、朔の右手がかすかに震えた。

 黒い染みは、今日は広がっていなかった。むしろ少しだけ色が薄くなっているようにも見える。このはの終わりに、黒い煤が出なかったからかもしれない。

 一条は文机の向かいに座っていた。

「よかったな」

「何が」

「黒が増えなかった」

「そうだな」

「だが、おまえの顔は、全然よくなさそうだ」

 朔は帳簿を閉じた。

「一条」

 呼んでから、しまったと思った。

 一条の表情がわずかに固まる。

 しかし、何も起きなかった。少なくとも、その場では。

「すまない」

 朔は言った。

 一条は目を逸らした。

「謝るくらいなら呼ぶな」

「呼ばなければ、話せない」

「不便だな、名前というものは」

「おまえが言ったんだろう」

「ああ。言うんじゃなかった」

 朔はしばらく黙った。

 それから、言った。

「今日、あの子は最後に名前をもらった」

「このはか」

「あれは正式な名ではない」

「だが、呼ぶための名だった」

「おまえの一条も、そうなのか」

 一条は返事をしなかった。

 障子の向こうが赤く染まり始めている。夕方の光が畳の上を長く伸びていた。

 朔は続けた。

「本当の名前が分からなくても、呼ぶための名があれば、残せるのかもしれない」

「残すことが救いとは限らない」

「分かっている」

「分かっていない顔だ」

「分析するな」

 一条は小さく笑った。

 その笑みは、少し疲れていた。

「朔」

「何だ」

「おまえは今日、あの神を救わなかった」

「そうだな」

「でも、救いたいと思っただろう」

 朔は答えなかった。

 思った。

 あの公園を残せれば。

 このはを移せれば。

 奏太の願いを叶えられれば。

 一瞬でも、そう思った。

「それは悪いことか」

 朔が尋ねると、一条は少し驚いたように見えた。

「悪いとは言っていない」

「祖父なら、悪いと言ったかもしれない」

「宗一郎は、そんなに単純じゃなかった」

「おまえは祖父をよく知っている」

「長くいるからな」

「どれくらい」

 一条は答えなかった。

 朔は追及しなかった。今日は、問い詰める気になれなかった。

 夜、森川千代子から電話があった。

 奏太が帰ってから、ずっと青い葉を見ているという。泣いてはいない。ただ、自分の机の上に小さな皿を置き、その上に葉を乗せたらしい。

「ありがとうございました」

 千代子は言った。

「あの子、たぶん初めて、自分の力ではどうにもならない別れを知りました」

「早すぎたかもしれません」

「いいえ。早い別れは、誰にでも来ます」

 電話の向こうで、千代子は静かに笑った。

「大人が嘘をつかなかっただけ、ましです」

 朔は何も言えなかった。

 通話を終えたあと、帳簿を棚に戻そうとした。

 その時、表紙の隙間から、一枚の紙が落ちた。

 白い紙だった。

 朔は拾い上げた。

 それは、今日、奏太が書いた思い出の紙の一枚ではなかった。もっと古い紙だ。黄ばんでいて、端が脆くなっている。

 そこには、子どもの字でこう書かれていた。

 わすれものは、木の下へ。

 朔は息を止めた。

 今日、持ち帰った記録の中に、こんな紙はなかったはずだ。

 一条が覗き込んだ。

「昔の公園の決まり書きだな」

「なぜ帳簿から出てきた」

「帳簿が拾ったんだろう」

「このはの記録としてか」

「あるいは」

 一条は言葉を切った。

「あるいは?」

「忘れ物として」

 朔は紙を見つめた。

 忘れ物は、木の下へ。

 このはは、子どもたちの忘れ物から形を得た神だった。なら、この紙は彼の最初の輪郭かもしれない。

 朔は新しい封筒を出し、その紙を丁寧に入れた。

 帳簿のこのはのページに挟もうとして、手が止まった。

 隣のページが、少しだけ開いていた。

 そこには、あの黒い塗り潰しがあった。

 一条のページ。

 名称欄はまだ黒く、右下には「一条」の文字がある。だが、その文字の横に、細い黒い筋が増えていた。

 まるで、何かが少しずつその名に近づいているようだった。

 朔は一条を見た。

 一条は笑っていなかった。

「呼ぶための名前か」

 彼はぽつりと言った。

「それがあるだけで救われるなら、楽なんだがな」

「救われないのか」

「名前を呼ばれれば、残る。残れば、見つかる。見つかれば、剥がされる」

「なら、どうすればいい」

 一条は答えなかった。

 朔は帳簿を閉じた。

 今日は、黒い煤の出ない終わりを見た。

 歪まずに終わる神を記録した。

 子どもが、最後に神を呼ぶ声を聞いた。

 それなのに、胸は軽くならなかった。

 救わない。

 歪ませない。

 その信条は、まだ朔の中にある。

 だが、その横に別の言葉が生まれつつあった。

 呼びたい。

 消えかけたものを、ただ片づけるのではなく、最後に名を呼びたい。

 それが救いなのか、歪みなのか、今の朔には分からなかった。

 障子の外で、夜風が楠の葉のような音を立てた。

 朔は棚に帳簿を戻した。

 その指先に、今日拾った青い葉の冷たさが、いつまでも残っていた。



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