第四章 子どもにしか見えない神様
子どもは、いなくなるものに敏感だ。
大人は、消えかけたものを見ないふりができる。古い店が閉まっても、通学路の木が切られても、毎朝聞こえていた犬の鳴き声が途絶えても、少し寂しいと思うだけで歩いていける。理由をつけることを覚えているからだ。
時代だから。
仕方がないから。
危ないから。
古いから。
もう誰も使わないから。
そう言えば、心のどこかに空いた小さな穴を、上手く塞いだふりができる。
子どもは、それが下手だ。
昨日までそこにあったものが、今日ない。
昨日まで見えていたものが、今日薄い。
昨日まで遊んでいた相手が、もうすぐ消える。
それを、理屈で受け入れるには幼すぎる。
だから時々、子どもは大人が無視した終わりの前で、ひとりだけ立ち止まる。
三条朔の事務所にその少年が来たのは、曇った日の午後だった。
京都の空は低く、雨になるかならないかを迷っているようだった。路地の石畳には湿気が残り、軒先の風鈴は鳴らなかった。朔は文机の前に座り、帳簿を閉じたまま見つめていた。
開けば、そこに一条の名がある。
それが分かっているから、開けなかった。
昨夜、帳簿は勝手にページをめくった。黒く塗り潰された名称欄。その横に、一条の字で「一条」と書かれていた。これから死ぬ神の名前だ、と一条は言った。
それ以降、朔は不用意に彼の名を呼んでいない。
呼べば繋がる。
繋がれば、見つかる。
名前は、呼ぶ者と呼ばれる者の間にある。そう言ったのは一条自身だ。
だが、呼ばなければ、そこにいることを確かめられない。
厄介な矛盾だった。
一条は障子のそばで横になっていた。眠っているようにも、ただ目を閉じているだけのようにも見える。朝から口数が少ない。昨日までなら、茶が薄いだの、甘味が足りないだの、何かしら文句を言っていたはずだ。
その沈黙が、事務所を狭くしていた。
玄関の引き戸が、控えめではなく、どんどんと叩かれた。
子どもの叩き方だった。
朔が戸を開けると、ランドセルを背負った少年が立っていた。小学四年生か五年生くらいだろう。髪は雨に濡れたように額に貼りつき、息が上がっている。灰色のパーカーの袖口は擦り切れ、膝には乾いた泥がついていた。
「ここ、三条さん?」
少年は挨拶もなしに言った。
「そうです」
「遺品整理の?」
「はい」
「神様のも、片づけるって本当?」
朔は一瞬、答えを探した。
その言い方をする子どもは珍しい。たいていの大人は遠回しに言う。祠を見てほしい、変なものが残っている、何かいる気がする。神様の遺品整理と言い切る者は少ない。
「誰に聞きましたか」
「おばあちゃん」
「おばあちゃんの名前は?」
「森川千代子」
朔は記憶を探った。
森川千代子。二年前、古い櫛に宿ったものを片づけた依頼人だ。孫がいると言っていたような気がする。
「君の名前は」
「森川奏太」
「奏太くん。今日はどうしたんですか」
少年は、朔の顔を真っ直ぐ見た。
「友だちが消えそうなんです」
背後で、一条が目を開けた。
奏太は事務所に入ると、畳の上に正座した。子どもにしては姿勢がいい。ただし、落ち着きはなかった。膝の上で手を握ったり開いたりしている。
朔は麦茶を出した。奏太は一口で半分ほど飲んだ。走ってきたのだろう。
「友だちというのは、人間ですか」
朔が尋ねると、奏太はすぐに首を振った。
「たぶん違う」
「たぶん?」
「人間じゃないと思う。だって、先生もお母さんも見えないから」
「どこにいる友だちですか」
「公園」
「名前は」
奏太は言葉に詰まった。
「名前は、ない」
「ない?」
「ぼくは、木の下の子って呼んでた」
一条が起き上がった。奏太には見えていないようだったが、少年の言葉に反応したらしい。
朔は続けた。
「その友だちは、どんな姿をしていますか」
「ぼくより小さい。幼稚園くらい。でも、声はちょっと大人みたいなときもある。髪は、葉っぱみたいな色。服は、昔の服みたいな……お祭りのときに着るやつじゃなくて、もっと白いやつ」
「いつから見えるように?」
「二年生のとき」
奏太は視線を畳に落とした。
「ぼく、その公園で転んで、足を怪我したんです。血が出て、泣いてたら、木の下にその子がいた。何で泣くのって言われて、転んだからって言ったら、転ぶのは地面が悪いって言った」
一条が小さく笑った。
「それはなかなかいい友だちだ」
奏太には聞こえない。
「それから、たまに会うようになりました。学校帰りに公園に寄ると、いる時がある。いない時もある。でも、昨日行ったら、体が薄くなってて」
「薄い?」
「向こう側の木が見えたんです」
奏太の声が震えた。
「それで、もうすぐいなくなるって言った。だから、三条さんのところに行けって、おばあちゃんが言いました。前に助けてもらったことがあるからって」
朔は森川千代子の顔を思い出した。あの老女は、余計なことを言う人ではなかった。だが、必要だと思えば、子どもにも神や妖の話を隠さないのだろう。
「その公園はどこですか」
「御池からちょっと北。もうすぐなくなる公園です」
「なくなる?」
「マンションになるって。遊具も、来週撤去するって」
朔は一条を見た。
一条は表情を消していた。
忘れられる神。
願われすぎた神。
名を失いかけた市場の神。
今度は、子どもにしか見えない神。
流れは偶然ではない。
「案内できますか」
朔が尋ねると、奏太は強く頷いた。
「できます。今から行けます」
「保護者には?」
「おばあちゃんが、三条さんと一緒ならいいって」
「お母さんは」
「仕事。おばあちゃんには言ってある」
子どもを連れて歩くには、確認が必要だった。朔は森川千代子に電話をかけた。彼女は落ち着いた声で応対し、奏太が本当に事務所へ向かったこと、自分が行くよう勧めたことを認めた。
「無理なお願いをしてすみません」
電話の向こうで、千代子は言った。
「けど、あの子が見ているものを、私らが笑うわけにはいきません。私も昔、そういうものを見て笑われたことがあります」
「公園の件は?」
「近所では、もう決まった話です。古い遊具が危ない、利用者が少ない、防犯上も問題がある。大人の言うことは、いつも間違ってはいません」
「はい」
「でも、間違っていないことが、全部正しいわけでもありません」
その言葉を聞いた時、朔は少しだけ黙った。
電話を切ったあと、道具を鞄に詰めた。白布、手袋、記録帳、木箱、空瓶。帳簿の写しも入れる。
一条は立ち上がらなかった。
「来ないのか」
朔が訊くと、一条は薄く笑った。
「呼ばない方がいいんじゃなかったのか」
「今は名前を呼んでいない」
「そういう問題か」
「来るのか、来ないのか」
一条は障子の外を見た。
「子どもにしか見えない神は、苦手だ」
「なぜ」
「まっすぐ見てくる」
「おまえにも苦手なものがあるんだな」
「多いぞ。渋い茶、湿った煎餅、名前の話、子どもの目」
軽口だった。
けれど、その最後だけは本当のように聞こえた。
一条はゆっくり立ち上がり、羽織を肩にかけた。
「行く。おまえ一人だと、また余計なものに触る」
奏太が不思議そうに首を傾げた。
「三条さん、誰と話してるんですか」
朔は少し考えた。
「仕事仲間です」
「見えない人?」
「今は、君には見えないようです」
奏太は驚かなかった。むしろ、少し安心したようだった。
「じゃあ、本当にそういう仕事なんだ」
「そういう仕事です」
公園は、町の隙間に残っていた。
古い住宅と新しいマンションの間、わずかに開けた三角形の土地。入口には錆びた車止めがあり、赤いペンキの剥がれたすべり台、半分埋まりかけた砂場、鎖の片方が新しく交換されたブランコがある。中央には大きな楠が立っていた。
その楠の根元に、小さな祠のようなものがあった。
祠といっても、正式なものではない。石を二つ重ね、上に古い瓦を載せただけの簡素なものだ。前には、泥のついたボール、割れたシャベル、色褪せた迷子札、拾ったビー玉、折れたクレヨンが置かれている。
子どもの供物だ。
公園の入口には、白い看板が立っていた。
公園廃止のお知らせ。
老朽化した遊具撤去および再開発工事のため、来月より本公園を閉鎖します。
その文字は役所の文面らしく、丁寧で、どこにも感情がなかった。
「ここ」
奏太は楠の方へ走りかけて、途中で止まった。何かを驚かせないようにしているのだろう。足音を小さくし、根元へ近づく。
「いる?」
奏太は木の陰に向かって話しかけた。
朔には、まだ何も見えなかった。
しかし、気配はあった。
祠の神や市場の神とは違う。もっと軽く、柔らかい。木漏れ日の中に残った笑い声のような気配だった。だが、その輪郭はひどく薄い。
一条は公園の入口で立ち止まったまま、楠を見ていた。
「いるな」
「見えるか」
「見ようと思えば」
「見たくないのか」
「さっき言っただろう。子どもの目は苦手だ」
朔は楠に近づいた。
奏太が木の根元にしゃがんでいる。
「連れてきたよ。三条さん。神様の遺品を片づける人」
その紹介は少し違うと思ったが、朔は訂正しなかった。
楠の陰が揺れた。
最初は光の加減だと思った。
だが、やがてそこに小さな影が浮かんだ。
幼い子どもの姿をしている。奏太が言った通り、五歳か六歳くらいに見える。髪は淡い緑を含んだ灰色で、目は大きい。白い衣のようなものを着ているが、その裾は土や落ち葉に溶けている。輪郭は薄く、向こう側の木肌が透けていた。
子どもは、朔を見た。
その目は、見た目よりずっと古かった。
「大人だ」
小さな神は言った。
声は、風が葉の裏を撫でるようだった。
「はい」
朔は膝をつき、目線を少し下げた。
「三条朔です」
「名前があるんだ」
「あります」
「いいな」
その言葉が、朔の胸の奥を静かに刺した。
奏太が慌てて言った。
「この子、いなくなりそうなんです。三条さん、助けてください」
助けてください。
子どもの口から出るその言葉は、重い。
朔はすぐには答えなかった。
小さな神は、奏太の袖を引いた。
「言わなくていいって言った」
「でも、消えちゃうじゃん」
「公園がなくなるから」
「そんなの、おかしいよ。公園がなくなったら、どこかに行けばいいじゃん」
「行けない」
「どうして」
「ここだから」
奏太は唇を噛んだ。
小さな神は、朔を見上げた。
「あなたは、片づける人?」
「そうです」
「じゃあ、片づけに来たんだ」
「まだ決めていません」
「決めてない?」
「まず、あなたが何者なのかを見ます」
小さな神は首を傾げた。
「ぼく、何者なんだろう」
その声は、ひどく静かだった。
朔は楠の根元に置かれた品々を見た。
泥のついたボール。
割れた黄色いシャベル。
赤いクレヨン。
名前の消えた迷子札。
ビー玉。
小さな靴の片方。
どれも、子どもが忘れていったものだ。遊びの途中に置き去りにされ、やがて誰のものでもなくなったもの。
「触れてもいいですか」
朔が尋ねると、小さな神は少し考えた。
「痛くしない?」
「しません」
「じゃあ、いい」
奏太が不安そうに見ている。
「三条さん、何するの」
「記憶を見る」
「記憶?」
「この子が、どういう神だったのかを確かめます」
「見たら、助けられる?」
朔は答えなかった。
答えなかったことが、奏太には答えに聞こえたのだろう。彼の顔が強張った。
朔は手袋をはめ、まず泥のついたボールに触れた。
視界が揺れた。
公園は、今より少し新しかった。
すべり台の赤は鮮やかで、ブランコの鎖も錆びていない。楠は今より若く、根元にはまだ石も瓦もなかった。
子どもたちが走っている。
ボールが転がる。
誰かが追いかける。
砂場で山を作る子がいる。
ブランコを押してほしいと泣く子がいる。
楠の下に、小さな気配があった。
最初は形を持たない。ただ、子どもたちの声に反応して揺れるもの。転びそうな子の足元を少しだけ柔らかくし、迷子になりかけた幼児の目線を母親の方へ向ける。ボールが道路へ飛び出しそうになれば、風でわずかに軌道を変える。
誰も気づかない。
それでも、気配は嬉しかった。
子どもたちはよく物を忘れた。
シャベル、ビー玉、クレヨン、髪留め、片方だけの手袋。忘れ物は楠の根元に集まった。誰かが拾って置く。やがて、それはこの場所の小さな決まりになった。
落とし物は、木の下へ。
その積み重ねが、形のない気配に輪郭を与えた。
見守るもの。
忘れ物を預かるもの。
転んだ子どもの痛みを、ほんの少しだけ軽くするもの。
それが、この小さな神だった。
名前はなかった。
子どもたちは、さまざまに呼んだ。
木の下の子。
公園の子。
見えない友だち。
忘れ物番。
葉っぱの子。
どれも正式な名ではない。だが、神はそれで十分だった。子どもたちはすぐに大きくなる。名前を覚え続けることなどできない。けれど、遊んでいる間だけでも呼ばれれば、それでよかった。
季節が進んだ。
子どもの数が減った。
塾へ行く子が増えた。
公園で遊ぶより、家で画面を見る時間が増えた。
近所の大人たちは、遊具が古くて危ないと言い始めた。
夜になると若者が集まるから、防犯上よくないという声も出た。
公園は、少しずつ大人の言葉に囲まれていった。
利用者数。
老朽化。
維持管理費。
安全性。
再開発。
どれも間違ってはいなかった。
ただ、その言葉の中に、子どもたちの笑い声は含まれていなかった。
小さな神は、少しずつ薄くなった。
最後に来るようになったのが、奏太だった。
よく転ぶ子だった。
慎重なようで、肝心なところで足元を見ない。泣き虫ではないが、痛いときはちゃんと泣く。神はそこが気に入っていた。
奏太は、木の下の子と呼んだ。
初めてそう呼ばれた時、小さな神は自分に形が戻るのを感じた。
けれど、奏太だけでは足りなかった。
子ども一人の記憶は、温かいが細い。
神を繋ぎ止めるには、あまりに頼りない。
そして、公園廃止の看板が立った。
その日から、小さな神は自分の足元が消えていくのを感じた。
神は土地に結びついている。
楠、砂場、すべり台、忘れ物の石。
それらがなくなれば、自分もほどける。
奏太は言った。
忘れない。
絶対に忘れない。
小さな神は、それが嬉しかった。
同時に、苦しかった。
子どもに「忘れない」と言わせることは、呪いに近い。
記憶は、子どもの未来を縛るためにあるものではない。
映像が途切れた。
朔はボールから手を離した。
掌が冷えている。だが、前の三つの事件で触れた黒い煤のような冷たさではない。もっと透明で、春先の水のような冷たさだった。
奏太が身を乗り出した。
「見えた?」
「ああ」
「助けられる?」
また、その問いだった。
小さな神も、朔を見ている。
一条は少し離れた場所で楠にもたれていた。彼の顔は読めない。
朔は、祠の品々を見た。
「この神は、この公園に結びついています」
「じゃあ、公園がなくなったら」
奏太の声が硬くなる。
「消える可能性が高い」
「そんなの嫌だ」
「奏太くん」
「嫌だ!」
公園に少年の声が響いた。
近くを通りかかった女性が、何事かとこちらを見た。朔は視線を下げたまま、奏太が落ち着くのを待った。
奏太は拳を握りしめていた。
「三条さんは、神様の遺品を片づける人なんでしょ。だったら、消えないようにできるんじゃないの」
「私は、消えないようにする人ではありません」
「じゃあ、何しに来たの」
「終わりを歪ませないために」
「終わらせたくない!」
その叫びは、まっすぐだった。
朔は言葉を失った。
大人なら、もう少し迂回する。
仕方がないと自分に言い聞かせる。
何とかできないかと問いながら、どこかで諦める準備をする。
だが、子どもはそうしない。
嫌だと叫ぶ。
その単純さが、時に一番正しい。
奏太は楠の根元に駆け寄り、小さな神の前に立った。
「ぼくの家に来ればいいじゃん。ぼくの部屋、空いてるよ。公園じゃなくても、ぼくが覚えてる。毎日話す。だから消えないでよ」
小さな神は、困ったように笑った。
「行けない」
「何で」
「ぼくは、ここだから」
「ここがなくなるんだよ」
「だから、ぼくもなくなるんだよ」
「そんなの、おかしい!」
奏太の目から涙が落ちた。
「神様なら、なんとかしてよ」
小さな神は、少しだけ首を傾げた。
「神様って、なんとかできるものなの?」
その問いに、奏太は答えられなかった。
朔も、答えられなかった。
一条が小さく息を吐いた。
「子どもは、残酷だな」
朔は彼を見た。
「そうか」
「ああ。できないことを、まっすぐ願う」
「願うことが残酷なのか」
「願われた方が、できないと知っている場合はな」
一条の声には、奇妙な実感があった。
朔は、祖父の言葉を思い出していた。
救おうとするな。
終わりを歪ませるな。
幼い頃、朔は死にかけた神を救おうとしたことがある。まだ断片しか思い出せない。祖父はその話をあまりしたがらなかった。ただ、結果として何かが歪み、祖父がそれを片づけた。それだけは分かっている。
だから朔は、救わないことを覚えた。
けれど、目の前で泣く子どもに「終わるものは終わる」と言うことが、正しいのかどうかは分からなかった。
朔は楠の根元に置かれた迷子札を手に取った。
古い金属板で、表面の名前は消えている。裏側に、子どもの字で「ここ」と書かれていた。
ここ。
名前の代わりのような言葉だった。
「奏太くん」
朔は言った。
「この公園が閉鎖される前に、できることがあります」
奏太が涙を拭いた。
「助ける方法?」
「完全に助ける方法ではありません」
「じゃあ嫌だ」
「でも、この子が何もなかったように消えるのは防げるかもしれない」
奏太は黙った。
小さな神が朔を見た。
「何をするの」
「お別れ会です」
奏太が顔をしかめた。
「お別れなんかしたくない」
「お別れをしないまま消える方がいいですか」
「……」
「この子は、子どもたちの忘れ物から形を持った神です。なら、最後に子どもたちがここにいたこと、この子がここにいたことを記録する必要があります」
「記録?」
「名前がなくても、存在したことは残せる」
一条の視線が、朔に向いた。
その言葉は、自分に向けられたものだと分かったのだろう。
奏太はまだ納得していなかった。
「でも、記録したら、消えないの?」
「消えるかもしれません」
「じゃあ意味ない」
「意味があるかどうかは、残るかどうかだけで決まるものではありません」
それは、子どもには難しい言葉だった。
朔自身にも、簡単ではなかった。
だから言い直した。
「ひとりで覚えているのは、つらいです」
奏太が顔を上げた。
「君だけが忘れないと言うと、この子は君を縛ってしまう。君も、この子を縛ってしまう」
「縛る?」
「忘れちゃいけない、と思い続けることです」
奏太は唇を噛んだ。
「忘れたら、悪いじゃん」
「忘れることは、いつも悪いことではありません」
「悪いよ」
「そう思うのは、君が優しいからです」
奏太の目が揺れた。
「でも、この子は、君にずっと泣いていてほしいと思っていない」
小さな神が、少しだけ笑った。
「うん」
奏太は振り返った。
「ほんと?」
「ほんと」
「ぼくが忘れても?」
「忘れても、いい」
「そんなの、嫌だ」
「でも、奏太は大きくなる」
小さな神は、楠の根元から公園を見た。
「大きくなったら、ここで遊ばなくなる。走らなくなる。転ばなくなる。もしかしたら、転ぶかもしれないけど、泣かなくなる」
「泣くかもよ」
「泣いてもいいけど」
小さな神は、ほんの少し得意げに言った。
「でも、そのころには、ぼくはいなくていい」
奏太の顔がくしゃりと歪んだ。
「何でそんなこと言うの」
「子どもを見送るのが、ぼくだったから」
その言葉で、朔はこの神の輪郭を理解した。
守るだけではない。
預かるだけでもない。
この神は、子どもたちが公園を卒業することまで見守っていたのだ。
遊び場は、永遠にいる場所ではない。
いつか通り過ぎる場所だ。
だからこそ、その場所に宿る神は、子どもを引き留めてはいけない。
朔は立ち上がった。
「奏太くん。近所の子で、この公園で遊んだことがある子を呼べますか」
「今?」
「今日でなくてもいい。閉鎖までに」
「呼べると思う。でも、みんな来るかな」
「来るかどうかは分かりません。けれど、声をかけることはできます」
「何て言えばいいの」
「公園のお別れ会をする、と」
「木の下の子のことは?」
「見える子には見える。見えない子には、公園へのお礼でいい」
奏太は迷っていた。
お別れ会という言葉が、まだ嫌なのだろう。
だが、彼は涙を拭いて頷いた。
「やる」
小さな神は目を丸くした。
「ほんとに?」
「やる。だって、ひとりで覚えてるのは、つらいって三条さんが言ったから」
朔は少しだけ目を伏せた。
子どもは、残酷なほどまっすぐ願う。
だが同じくらい、まっすぐ受け取る。
それからの数日は、妙に慌ただしかった。
奏太は本当に子どもたちに声をかけた。近所の同級生、昔その公園で遊んでいた中学生、保育園帰りの親子。森川千代子も手伝い、町内会に話を通した。
公園廃止前の小さなお別れ会。
そういう名目なら、大人も反対しなかった。むしろ、長年使った場所への感謝として悪くないという声も出た。役所の担当者も、工事前の短時間なら問題ないと言った。
朔は表に出すぎないようにした。
自分の仕事は、祭りを仕切ることではない。記録することだ。
それでも、準備には関わった。
楠の根元にある忘れ物を一つずつ拭き、白布の上に並べる。割れたシャベルは危なくないように包み、迷子札は小さな木箱に入れた。奏太と近所の子どもたちは、公園の思い出を紙に書いた。
ブランコで靴を飛ばした。
砂場に宝物を埋めた。
すべり台でズボンが破れた。
ここで初めて逆上がりができた。
犬に追いかけられて泣いた。
転んだら、いつも木の下に行った。
見えない友だちのことを書いたのは、奏太だけではなかった。
小さな女の子が、一枚の紙にこう書いていた。
きのしたに、だれかいるきがした。
こわくなかった。
それだけで十分だった。
お別れ会の日、空はよく晴れた。
公園には、思ったより多くの人が集まった。子どもたちだけでなく、親や祖父母もいた。かつてこの公園で遊んだという大人も数人来ていた。
彼らには、小さな神は見えていない。
それでも、不思議なことに、楠の根元に近づくと皆少しだけ声を落とした。何かを感じているのだろう。見えなくても、そこにあったものの気配は伝わることがある。
奏太は、楠の前に立った。
手には、小さな紙の束を持っている。子どもたちが書いた思い出の紙だ。
「この公園で遊んだことを書きました」
声は震えていたが、最後まで言えた。
「ありがとうございました」
大人たちが微笑ましそうに見ている。
奏太は紙の束を楠の根元に置いた。
小さな神は、その隣に立っていた。
今日は、いつもよりはっきり見える。たくさんの子どもの記憶が集まったからだろう。髪の葉のような色も、白い衣も、目の古さも、輪郭を取り戻していた。
しかし、それは消滅が遠のいたという意味ではなかった。
ろうそくが消える前に、一瞬強く燃えるのに似ていた。
朔は少し離れた場所で帳面を開いていた。一条はその隣にいる。今日は、彼の姿も少し濃く見える。子どもたちの声が、この場のあらゆる輪郭を強めているのかもしれなかった。
「いい終わり方だな」
一条が言った。
「終わらないかもしれない」
「そう思いたいのか」
朔は答えなかった。
一条は、小さな神を見た。
「あれは、消える」
声は冷たくなかった。ただ、事実を言う声だった。
「分かっている」
「分かっている顔ではない」
「分析するな」
「分析ではない。心配だ」
朔は一条を見た。
その言葉が一条の口から出るのは、珍しかった。
会の終わりに、奏太が小さな神に向かって言った。
「名前、つけてもいい?」
小さな神は驚いた。
「ぼくに?」
「うん。木の下の子だと、長いし」
「名前があると、消えない?」
その問いに、奏太は一瞬、朔を見た。
朔は首を横に振らなかった。縦にも振らなかった。
奏太は自分で考え、答えた。
「消えないかは分からない。でも、呼びたい」
小さな神は、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、いい」
奏太は深く息を吸った。
「このは」
小さな神が瞬きをした。
「このは?」
「木の葉っぱみたいだから。あと、ここにいたから。ここ、の、は」
子どもらしい、単純な名前だった。
正式な神名ではない。
由緒もない。
祭神としての名でもない。
けれど、それは呼ぶための名前だった。
小さな神――このはは、初めて見る顔で笑った。
「このは」
自分でそう繰り返す。
その瞬間、楠の葉が一斉に揺れた。
風が吹いたのではない。葉の一枚一枚が、小さな声で返事をしたようだった。
子どもたちの中に、何人か不思議そうに木を見上げる者がいた。見えてはいない。けれど、何かが起きたことは分かったらしい。
奏太は泣かなかった。
泣かないように、必死に口を結んでいた。
「またね、じゃないよね」
奏太が言った。
このはは少し考えた。
「ありがとう、がいい」
「ありがとう」
「うん」
「ありがとう、このは」
その名を呼ばれた時、このはの姿が白く透けた。
奏太が手を伸ばしかける。
朔は止めなかった。
奏太の手は、このはの手に触れたように見えた。実際には、木漏れ日を掴んだだけかもしれない。それでも、奏太は確かに何かを感じた顔をした。
このはは、最後に公園を見回した。
すべり台。
砂場。
ブランコ。
楠。
忘れ物の石。
子どもたち。
大人になった子どもたち。
もう遊ばない者たち。
そのすべてを見送るように、微笑んだ。
そして、薄れていった。
消える瞬間、黒い煤は出なかった。
名前を剥がされたのではない。
役割を奪われたのでもない。
終わる場所で、呼ばれて終わった。
だから、黒は出なかった。
代わりに、楠の根元に小さな葉が一枚落ちた。
まだ青い葉だった。
奏太はそれを拾い、両手で包んだ。
公園のお別れ会は、何事もなかったように終わった。
大人たちは、いい会だったと言いながら帰っていった。子どもたちは最後にすべり台を滑り、ブランコをこぎ、名残惜しそうに公園を出た。
奏太は最後まで残っていた。
朔は楠の根元に置かれた品々を木箱に納めた。すべてを持ち帰るわけではない。いくつかは町内会で保管し、いくつかは公園の跡地に埋めることになった。迷子札と子どもたちの思い出の紙だけは、朔が記録として預かる。
「三条さん」
奏太が言った。
「このは、助かったの?」
朔は木箱の蓋を閉めた。
「分かりません」
「消えたよ」
「はい」
「じゃあ、助かってないじゃん」
「そうかもしれません」
奏太は不満そうだった。
朔は少年の目を見た。
「でも、歪まずに終われました」
「それって、いいこと?」
「私には、そう思えます」
「ぼくには、まだ分かんない」
「すぐに分からなくてもいいです」
奏太は、手の中の葉を見た。
「忘れてもいいって言われたけど、たぶん忘れない」
「忘れないと決める必要はありません」
「でも、忘れたくない」
「なら、今は覚えていてください」
「今は?」
「いつか忘れたとしても、今日君が呼んだことは消えません」
奏太は少しだけ考えた。
「記録したから?」
「それもあります」
「三条さんの帳簿に?」
「はい」
「じゃあ、このはは、そこにいる?」
朔は答えに迷った。
帳簿に書けば、完全には消えない。だが、それは存在を保存することとは違う。記録は場所であり、同時に墓でもある。
「そこに、いたことは残ります」
奏太はゆっくり頷いた。
「じゃあ、お願いします」
その言い方があまりに大人びていて、朔は少し胸が詰まった。
「分かりました」
奏太は頭を下げ、公園を出ていった。途中で一度振り返ったが、もう泣いてはいなかった。
事務所に戻ったのは、夕方だった。
朔は帳簿を開いた。
今度は勝手にページが現れたわけではない。自分で白紙を開き、日付を書いた。
名称。
このは。
正式名称、不明。
通称、木の下の子、公園の子、忘れ物番。
所在地、御池北、旧児童公園。
神格、子どもの遊び場、忘れ物、転倒避け、迷子避けを見守る小神。
依頼者、森川奏太。
残された物品、泥のついたボール、割れたシャベル、迷子札、ビー玉、子どもたちの思い出の紙、楠の青葉。
朔は筆を止めた。
最後の記憶の欄に、どう書くべきか迷った。
神は死んだ。
だが、死という言葉はどこか違う。
消滅した。
それも冷たすぎる。
終わった。
それが一番近い。
朔は書いた。
公園閉鎖を前に、子どもたちの記憶により一時的に輪郭を回復。森川奏太により「このは」と呼称される。正式な神名ではないが、最後に呼ばれた名として記録。黒い残滓は発生せず。終わりは自然。歪みなし。
歪みなし。
その三文字を書いた時、朔の右手がかすかに震えた。
黒い染みは、今日は広がっていなかった。むしろ少しだけ色が薄くなっているようにも見える。このはの終わりに、黒い煤が出なかったからかもしれない。
一条は文机の向かいに座っていた。
「よかったな」
「何が」
「黒が増えなかった」
「そうだな」
「だが、おまえの顔は、全然よくなさそうだ」
朔は帳簿を閉じた。
「一条」
呼んでから、しまったと思った。
一条の表情がわずかに固まる。
しかし、何も起きなかった。少なくとも、その場では。
「すまない」
朔は言った。
一条は目を逸らした。
「謝るくらいなら呼ぶな」
「呼ばなければ、話せない」
「不便だな、名前というものは」
「おまえが言ったんだろう」
「ああ。言うんじゃなかった」
朔はしばらく黙った。
それから、言った。
「今日、あの子は最後に名前をもらった」
「このはか」
「あれは正式な名ではない」
「だが、呼ぶための名だった」
「おまえの一条も、そうなのか」
一条は返事をしなかった。
障子の向こうが赤く染まり始めている。夕方の光が畳の上を長く伸びていた。
朔は続けた。
「本当の名前が分からなくても、呼ぶための名があれば、残せるのかもしれない」
「残すことが救いとは限らない」
「分かっている」
「分かっていない顔だ」
「分析するな」
一条は小さく笑った。
その笑みは、少し疲れていた。
「朔」
「何だ」
「おまえは今日、あの神を救わなかった」
「そうだな」
「でも、救いたいと思っただろう」
朔は答えなかった。
思った。
あの公園を残せれば。
このはを移せれば。
奏太の願いを叶えられれば。
一瞬でも、そう思った。
「それは悪いことか」
朔が尋ねると、一条は少し驚いたように見えた。
「悪いとは言っていない」
「祖父なら、悪いと言ったかもしれない」
「宗一郎は、そんなに単純じゃなかった」
「おまえは祖父をよく知っている」
「長くいるからな」
「どれくらい」
一条は答えなかった。
朔は追及しなかった。今日は、問い詰める気になれなかった。
夜、森川千代子から電話があった。
奏太が帰ってから、ずっと青い葉を見ているという。泣いてはいない。ただ、自分の机の上に小さな皿を置き、その上に葉を乗せたらしい。
「ありがとうございました」
千代子は言った。
「あの子、たぶん初めて、自分の力ではどうにもならない別れを知りました」
「早すぎたかもしれません」
「いいえ。早い別れは、誰にでも来ます」
電話の向こうで、千代子は静かに笑った。
「大人が嘘をつかなかっただけ、ましです」
朔は何も言えなかった。
通話を終えたあと、帳簿を棚に戻そうとした。
その時、表紙の隙間から、一枚の紙が落ちた。
白い紙だった。
朔は拾い上げた。
それは、今日、奏太が書いた思い出の紙の一枚ではなかった。もっと古い紙だ。黄ばんでいて、端が脆くなっている。
そこには、子どもの字でこう書かれていた。
わすれものは、木の下へ。
朔は息を止めた。
今日、持ち帰った記録の中に、こんな紙はなかったはずだ。
一条が覗き込んだ。
「昔の公園の決まり書きだな」
「なぜ帳簿から出てきた」
「帳簿が拾ったんだろう」
「このはの記録としてか」
「あるいは」
一条は言葉を切った。
「あるいは?」
「忘れ物として」
朔は紙を見つめた。
忘れ物は、木の下へ。
このはは、子どもたちの忘れ物から形を得た神だった。なら、この紙は彼の最初の輪郭かもしれない。
朔は新しい封筒を出し、その紙を丁寧に入れた。
帳簿のこのはのページに挟もうとして、手が止まった。
隣のページが、少しだけ開いていた。
そこには、あの黒い塗り潰しがあった。
一条のページ。
名称欄はまだ黒く、右下には「一条」の文字がある。だが、その文字の横に、細い黒い筋が増えていた。
まるで、何かが少しずつその名に近づいているようだった。
朔は一条を見た。
一条は笑っていなかった。
「呼ぶための名前か」
彼はぽつりと言った。
「それがあるだけで救われるなら、楽なんだがな」
「救われないのか」
「名前を呼ばれれば、残る。残れば、見つかる。見つかれば、剥がされる」
「なら、どうすればいい」
一条は答えなかった。
朔は帳簿を閉じた。
今日は、黒い煤の出ない終わりを見た。
歪まずに終わる神を記録した。
子どもが、最後に神を呼ぶ声を聞いた。
それなのに、胸は軽くならなかった。
救わない。
歪ませない。
その信条は、まだ朔の中にある。
だが、その横に別の言葉が生まれつつあった。
呼びたい。
消えかけたものを、ただ片づけるのではなく、最後に名を呼びたい。
それが救いなのか、歪みなのか、今の朔には分からなかった。
障子の外で、夜風が楠の葉のような音を立てた。
朔は棚に帳簿を戻した。
その指先に、今日拾った青い葉の冷たさが、いつまでも残っていた。




