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京都あやかし遺品整理屋――忘れられた神様の死に方を片づけていたら、相棒の古い神まで遺品になりかけています  作者: 二条理|アコンプリス


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第三章 帳簿に増える名前

 帳簿は、夜に重くなる。

 三条朔がそれに気づいたのは、祖父が死んで一年ほど経った頃だった。

 昼間の帳簿は、ただの古い紙の束に見える。黒い表紙は擦り切れ、綴じ紐は何度も替えられ、ページの端には指の脂と時間が染み込んでいる。書かれているのは、地名、社の名、妖の名、依頼者の名、残された品、最後に見えた記憶。

 だが夜になると、その帳簿はわずかに重くなる。

 紙が湿気を吸うからではない。

 墨が沈むからでもない。

 記録されたものたちが、夜の底でそっと身じろぎするからだ。

 祖父は、帳簿を生き物のように扱っていた。

 使い終えると、必ず表紙に手を置く。

 開く前には、一呼吸置く。

 新しい名を書く時は、筆先をほんの少しだけ止める。

 幼い朔には、それが奇妙な儀式に見えた。

 ある夜、祖父に尋ねたことがある。

「帳簿に、礼をしてるの?」

 祖父は笑わなかった。

「礼というより、断りやな」

「何に?」

「ここに残したもんに」

「字なのに?」

「字やからや」

 祖父はそう言って、朔の頭を撫でた。

「名前を書いたら、そこに縁ができる。縁ができれば、呼べる。呼べるものは、完全には消えん。けどな、消えんということは、楽なことばかりやない」

 その意味を、当時の朔は分からなかった。

 今なら分かる。

 記録とは、慰めではない。

 記録とは、責任だ。

 名を書く者は、書いたものの終わりを背負うことになる。

 その朝、朔は畳に正座したまま、帳簿を見つめていた。

 夜明け前に目が覚めた。理由は分からない。雨戸の外はまだ暗く、事務所の奥には冷えた空気が沈んでいた。水を飲もうとして起き上がったとき、文机の上の帳簿がわずかに開いていることに気づいた。

 閉じ忘れた覚えはない。

 昨夜、縁切り社の記録を書いたあと、朔は確かに帳簿を閉じた。表紙に手を置き、黒い煤の小瓶を二つ並べ、灯りを落とした。

 それなのに、帳簿は開いていた。

 開いていたのは、白紙のページだった。

 いや、正確には白紙ではなかった。

 朔が書いた覚えのない文字が、そこに浮かんでいた。

 黒い墨ではない。

 焦げ跡のような、滲んだ黒。

 文字というより、塗り潰された痕。

 ページの上部に、縦書きで一行。

 名称――

 その下が、真っ黒に塗り潰されている。

 所在地の欄には、短い地名があった。

 壬生。

 古市場跡。

 依頼者の欄は空白。

 処置の欄も空白。

 最後の記憶の欄には、まだ何もない。

 そして、ページの隅に、薄く日付が浮かんでいた。

 今日の日付だった。

 朔はしばらく動けなかった。

 帳簿が勝手に開くことは、これまでもあった。記録したものが何かを訴える時、あるいは処置が不十分だった時、帳簿は時々、過去のページを開いて待っている。

 だが、まだ片づけていないもののページが現れたことはなかった。

 朔は指先で紙の表面に触れた。

 冷たい。

 昨夜から広がり始めた右手の黒い染みが、ずきりと疼いた。痛みではない。糸を引かれるような感覚だった。

「見るな」

 背後で声がした。

 朔は振り返らなかった。

「起きていたのか」

「おまえが帳簿に呼ばれて起きたからな」

 一条は奥の障子の陰に立っていた。まだ夜の気配をまとっている。薄い羽織の裾が、風もないのにわずかに揺れた。

「これは何だ」

 朔が尋ねると、一条は文机の前まで来た。

 帳簿を覗き込んだ瞬間、彼の表情が変わった。

 いつもの皮肉も、軽さも消えた。

「閉じろ」

「答えろ」

「閉じてからだ」

「一条」

 朔は帳簿から手を離さなかった。

 一条は短く息を吐いた。

「これから死ぬ神の名前だ」

 部屋の中の空気が、ひとつ下がったように感じた。

「これから?」

「厳密には、もう死に始めている。帳簿が拾ったんだろう。終わりかけているものの気配を」

「そんなことがあるのか」

「普通はない」

「なら、なぜ」

 一条は答える代わりに、ページの黒く塗り潰された部分を見た。

「名前が先に食われている」

「祠の神と同じか」

「同じとは限らない。ただ、近い」

「縁切り社とも」

「近い」

 朔はページに視線を戻した。

 壬生。古市場跡。

 場所には心当たりがあった。

 新選組ゆかりの観光地から少し外れた一角に、昔ながらの小さな市場があった。正確には、かつて市場だった場所だ。青果店、鮮魚店、豆腐屋、乾物屋、米屋。細いアーケードの下に並んでいた店は、十年ほど前から一軒ずつ閉まり、今ではほとんどシャッター通りになっている。

 最近、再開発の話が出ていたはずだ。

「行く」

 朔は言った。

 一条は眉を寄せた。

「おまえの右手を見てから言え」

「見ている」

「悪化している」

「だから行く」

「理屈になっていない」

「帳簿に出た以上、放ってはおけない」

「帳簿は命令書じゃない」

「だが、記録を求めている」

 一条は口を閉じた。

 朔は帳簿の写しを用意し始めた。木箱、手袋、白布、筆記具、小瓶。いつもの道具を鞄に入れる。その動作は淡々としていたが、内側は少し乱れていた。

 これから死ぬ神。

 その言葉が、頭の中に残っている。

 死に終わったものを整えることには慣れている。終わりの場に行き、残された記憶を拾い、記録し、歪まないように片づける。それが朔の仕事だった。

 だが、今度は違う。

 まだ終わりきっていないものが、帳簿に現れた。

 それは、助けを求めているのか。

 それとも、片づけを求めているのか。

 朔には判断がつかなかった。

「朔」

 一条が呼んだ。

「何だ」

「帳簿に先回りされる時は、たいてい碌なことにならん」

「経験があるのか」

「昔話だ」

「便利な言葉だな」

「便利だから生き残る」

 一条は鞄の中の小瓶を見た。

「黒い煤は置いていけ」

「比較が必要になる」

「持ち歩くな。繋がるぞ」

「何と」

「剥がれた名前同士が」

 朔は手を止めた。

「名前同士が繋がる?」

「名前は縁だと言っただろう。失われた名の残骸は、似たものを探す。集まれば、声になる」

「声になるとどうなる」

 一条は少しだけ目を伏せた。

「呼ぶ」

「誰を」

「呼べるものを」

 曖昧な答えだった。だが、一条がそれ以上言うつもりがないことは分かった。

 朔は迷った末、小瓶を事務所に残した。ただし、採取用の空瓶は持っていく。黒い煤がまた現れるなら、回収しないわけにはいかない。

 外へ出ると、朝の京都は薄い青に沈んでいた。

 路地の奥から、豆腐屋のラッパのような音が聞こえる。実際には車の警告音かもしれない。古い町では、現実の音と記憶の音が混ざることがある。

 一条は朔の少し後ろを歩いた。

 壬生までは市バスで向かった。車内には通勤客と、早朝の観光客が数人いた。朔は窓の外を見ていた。堀川通を過ぎ、町並みが少しずつ変わっていく。観光案内に載る京都の顔ではなく、生活の中にある京都だった。

 古い看板。

 自転車の並ぶ路地。

 コインランドリー。

 小さな地蔵。

 閉じたままの店。

 神は、立派な社だけにいるわけではない。

 むしろ、こういう場所にこそ、忘れられた小さな神はいる。

 人の暮らしの隙間に、名もなく、気づかれず、けれど確かに働いてきたものたち。

 店の繁盛を守り、子どもの通学を見守り、井戸水の濁りを鎮め、橋の下の暗がりに溜まるものを遠ざける。

 人が便利になるほど、その働きは見えなくなる。

 見えなくなったものは、やがて忘れられる。

 壬生のバス停で降りると、一条が先に歩き出した。

「場所が分かるのか」

「匂いがする」

「何の」

「古い銭と、濡れた紙と、腐りかけた願い」

「分かりにくい」

「市場の神は、だいたい似た匂いがする」

 市場跡は、住宅街の中に突然現れた。

 錆びたアーケードが道を覆い、ところどころ透明な屋根板が割れている。日が差し込む部分と暗い部分がまだらになり、通路は朝なのに夕方のようだった。

 入口には、古い看板が残っていた。

 壬生東市場。

 文字の一部は剥がれ、下地の木が見えている。看板の下には、閉店を知らせる紙が何枚も貼られていた。ほとんどは色褪せ、雨で端が丸まっている。

 営業している店は、数えるほどしかなかった。

 奥の方に小さな八百屋。

 その向かいに惣菜屋。

 手前にはシャッターの閉まった鮮魚店。

 米屋の看板はあるが、中は空だった。

 アーケードの真ん中あたりに、古い祠があった。

 市場の守り神としては、いかにも小さい。木製の台の上に載せられ、周囲には古い注連縄と、小さな陶器の狐、割れた招き猫が並んでいる。狐なのか猫なのか、商売繁盛の神なのか、豊穣の神なのか、境界が曖昧になっている。

 それでも、そこは確かに信仰の場所だった。

 祠の前には、まだ新しい百円玉が一枚置かれていた。

「誰かが参っている」

 朔が言うと、一条はうなずいた。

「忘れられきってはいない」

「それなのに、帳簿に出た」

「忘れられていないことと、名前を覚えられていることは違う」

 その言葉は、朔の胸に重く沈んだ。

 八百屋の店先から、老女がこちらを見ていた。小柄だが、背筋はまっすぐ伸びている。白髪を後ろでまとめ、緑色のエプロンをしていた。

「あんたら、何か用か」

 声には警戒があった。

 朔は名刺を出した。

「三条遺品整理の者です。この市場の祠について、少しお話を伺いたいのですが」

「遺品整理?」

 老女は名刺を見たあと、祠を見た。

「ああ、そういうことか。もう取り壊しの話が来てるさかいな」

「ご存じでしたか」

「そりゃ、ここで五十年も八百屋やってたら、だいたいのことは耳に入る」

「祠も撤去される予定ですか」

「そう聞いてる。けど、うちらだけではどうにもならん。土地の権利もややこしいし、残ってる店も少ない」

 老女は祠の前まで来て、百円玉を見た。

「また田島さんやな」

「田島さん?」

「元の魚屋の大将。もう店は畳んだけど、時々来て賽銭置いていかはる」

「この祠の神様について、何かご存じですか」

 老女は眉を寄せた。

「神様言うてもなあ。うちらは昔から、市場の神さん、いうて呼んでた」

「正式な名前は」

「知らん」

「誰か知っている方は」

「たぶん、もうおらんのと違うやろか」

 老女は祠を見つめた。

「昔は、毎月一日にみんなで手ぇ合わせてたんや。商売繁盛やら、怪我せんようにやら、今日も魚が腐りませんようにやら、野菜が売れ残りませんようにやら。何でもお願いしてた。けど、名前は……何やったかなあ」

「えびすさんとは違いますか」

「似たようなもんやと思ってたけど、違う言う人もいたな。お稲荷さんや言う人もいた。市場の神さんで通じたし、それ以上考えたことなかった」

 市場の神さん。

 それは呼び名ではある。だが、固有の名ではない。

 朔は祠の前にしゃがみ、手を合わせた。

 一条は少し離れたところで、アーケードの奥を見ていた。光が届きにくい場所に、古い空気が溜まっている。

「調べても?」

 朔が尋ねると、老女は腕を組んだ。

「壊さんのやったら、好きにしなはれ。ただ、荒っぽいことはせんといて」

「もちろんです」

「市場の神さん、怒らすと怖いで」

 その言い方には、冗談の色があった。だが、少しだけ本気も混じっていた。

 朔は手袋をはめ、祠の扉を開けた。

 中には、思ったより多くのものが詰められていた。

 古い札束を模した紙。

 錆びた秤の分銅。

 小さな木槌。

 商店名が書かれた古い領収書。

 魚の形をした陶器の置物。

 豆粒ほどの鈴。

 そして、奥に木札。

 木札の文字は、やはり黒く塗り潰されていた。

 墨で隠したのではない。文字だけが抜き取られ、その跡に闇が詰まっている。

 朔の右手が疼いた。

 一条が近くに来た。

「触るな、と言っても触るんだろうな」

「触らなければ、何も見えない」

「そのたびに、おまえの中に何かが入る」

「入ってきたものは記録する」

「記録できないものもある」

「その時は、その時だ」

 一条が不愉快そうに眉を寄せた。

「おまえの祖父も、よく似たことを言った」

「祖父が?」

「昔話だ」

「便利すぎるぞ、その昔話は」

 朔は木札に触れた。

 視界が暗くなり、すぐに明るくなった。

 そこは、かつての市場だった。

 人の声で満ちている。

 魚屋の大将が威勢よく客を呼ぶ。

 八百屋の女将が、大根を新聞紙で包む。

 豆腐屋の水槽で白い豆腐が揺れる。

 子どもが十円玉を握りしめて、コロッケを買いに走る。

 精肉店の油の匂い、魚の生臭さ、青菜の瑞々しい匂い、古い木箱の乾いた匂い。

 祠は市場の真ん中にあった。

 店の者たちは毎朝、通りすがりに手を合わせた。丁寧な者もいれば、急いで頭だけ下げる者もいる。賽銭を入れる者も、入れない者もいた。

 神は、それでよかった。

 市場の神は、商売だけを守っていたわけではない。

 朝、店主が腰を痛めないように。

 魚を捌く包丁で指を切らないように。

 台風の日、商品が駄目になっても、店を閉める決心がつくように。

 売れ残った惣菜を、近所の子どもに少し安く分ける優しさが残るように。

 金が入ることだけが繁盛ではない。

 人が行き交い、声を掛け合い、余ったものが誰かの夕飯になり、失敗した商いを笑って済ませる。それもまた、商売だった。

 神はそれを見守っていた。

 名前を呼ばれることは少なかった。

 市場の神さん。

 商いの神さん。

 えびすさん。

 お稲荷さん。

 祠さん。

 真ん中の神さん。

 呼び名はいくつもあった。正確ではないものも混じっていた。それでも、神は気にしなかった。人々がここを通る時に少しだけ頭を下げる。それだけで、神は自分の輪郭を保てた。

 だが、時代が変わった。

 大型スーパーができた。

 客足が減った。

 店主たちは歳を取り、後継ぎはいなかった。

 シャッターが一枚、また一枚と下りた。

 それでも、神は見守った。

 店を閉める者の背中を押すことも、神の仕事だった。

 続けることだけが善ではない。

 終えることにも、力がいる。

 魚屋の大将が最後の日、祠の前に立った。

 白い前掛けを外し、手を合わせた。

 大将の手は、魚の骨で何度も切った跡があり、ごつごつしていた。

「長いこと、すんませんでしたな」

 彼はそう言った。

 神は、その背中を見送った。

 寂しかったが、悪い終わりではなかった。

 だが、その後だった。

 誰かが、祠の木札に触れた。

 人間の手ではない。

 黒い煤が、文字の上を這った。

 市場の神は抵抗しようとした。

 自分の名を守ろうとした。

 けれど、すでに名は弱っていた。

 何十年も、正確には呼ばれていなかった。

 市場の神さん、で足りていた。

 それが悪いことだとは思っていなかった。

 しかし、名を奪われる時になって初めて、神は気づいた。

 自分は、本当は何と呼ばれていたのか。

 思い出せない。

 神の中で、商売の声が遠ざかっていく。

 八百屋の女将の笑い声も、魚屋の包丁の音も、豆腐屋の水音も、ひとつずつぼやけていく。

 それでも、最後に残ったものがあった。

 古い領収書の裏に押された朱印。

 その朱の中に、神の名の一部が残っている。

 記憶はそこで途切れた。

 朔は息を吸った。

 アーケードの冷えた空気が肺に入る。額に汗が滲んでいた。

「見えたか」

 一条が尋ねた。

「ああ」

「名前は」

「全部は分からない。だが、手がかりがある」

 朔は祠の中の古い領収書を慎重に取り出した。束になっている。魚屋、米屋、青果店、乾物屋。それぞれ店名が違う。中には昭和の日付が残るものもあった。

 裏を確認していく。

 何枚目かで、朔の手が止まった。

 朱印が押されていた。

 薄れてはいるが、丸い印影の中に文字がある。

 壬生東市場守……

 最後が欠けている。

「守?」

 一条が覗き込む。

「守市神、か」

「市を守る神」

「かもしれない。あるいは市場守神。土地の人間がそう呼んでいただけかもしれん」

「正式名ではない?」

「正式かどうかは、人間が思うほど重要じゃない」

 朔は朱印を見つめた。

 祠の神は、名前を完全に失っていたわけではない。人々の記憶の中には残らなかったが、商売の紙片に、かろうじて痕跡が残っていた。

 市場という場所は、物が出入りする場所だ。金、商品、声、人の手。領収書は、その流れを記したものだった。そこに神の名が残っていることは、不思議ではなかった。

 八百屋の老女が近づいてきた。

「何か分かったんか」

「この祠は、市場を守る神様だったようです。商売繁盛だけではなく、店を開けること、畳むこと、その両方を見守っていた」

「畳むことも?」

「はい」

 老女の顔に、かすかな驚きが浮かんだ。

「そうか。畳むことも、か」

「この朱印に、名前の一部が残っています。昔、これを使っていた覚えはありませんか」

 朔が領収書を見せると、老女は目を細めた。

「ああ……これ、共同の納品書やな。市場でまとめて仕入れた時に使ってた印やと思う」

「この印、どこかに残っていますか」

「どうやろ。組合の事務所に、古いもんが残ってるかもしれん」

「見せていただけますか」

 老女は少し迷ったあと、うなずいた。

「鍵、探してくるわ」

 市場組合の事務所は、アーケードの奥にあった。

 狭い部屋だった。壁には古いカレンダーが貼られたままになり、平成の途中で時間が止まっている。折り畳み机、錆びたロッカー、壊れかけた扇風機。棚には帳簿や納品書が積まれ、埃をかぶっていた。

 老女はロッカーの鍵を開けた。

「ここらへん、誰も触ってへん。何があるか分からんで」

 朔は礼を言い、手袋を替えた。

 古い書類には、場所の記憶が染みつく。触れるたびに断片が流れ込むことがある。市場の記録は特に強い。金銭と生活の気配が混ざっているからだ。

 一条は棚を見て、低く言った。

「懐かしいな」

「この市場を知っているのか」

「通ったことくらいはある」

「いつ」

「さあな」

「またか」

「神に時間を訊くな」

 朔は古い帳簿を一冊取り出した。

 表紙には、壬生東市場組合と書かれている。年号は、昭和四十八年。中を開くと、店名、会費、共同仕入れの記録が並んでいた。

 ページをめくるうち、ひとつの名前が目に留まった。

 三条宗一郎。

 朔の祖父の名だった。

 指先が止まる。

 一条が横から見た。

「やはりな」

「知っていたのか」

「この市場に来たことがあると言っただろう」

「祖父と?」

 一条は答えなかった。

 朔はページを読み進めた。

 三条宗一郎の名は、組合員ではなく、外部協力者の欄にあった。備考には、小さく「祠修繕」「祭礼記録整理」と書かれている。

 祖父は、この祠に関わっていた。

 朔の胸の奥に、小さな硬いものが沈んだ。

 祖父は、多くを語らない人だった。仕事の手順は教えた。道具の扱いも、記録の書き方も、神や妖に対する距離の取り方も教えた。

 だが、自分が何を片づけてきたのか、その全てを語ったわけではない。

 朔が知らない祖父の仕事は、京都のあちこちに残っている。

「一条」

「何だ」

「祖父は、ここで何をした」

「祠を直した。名前を確認し、祭礼の形を整えた。市場がまだ元気だった頃だ」

「なぜ黙っていた」

「おまえが訊かなかった」

「それは答えになっていない」

 一条は、古い帳簿のページを見つめた。

「宗一郎は、おまえに全部を背負わせたくなかったんだろう」

 朔は言い返そうとして、やめた。

 祖父なら、そう考えるかもしれない。

 だが、残された者にとって、知らされなかったことは優しさとは限らない。

 棚の奥から、老女が小さな木箱を見つけた。

「これ、印鑑箱やろか」

 朔は箱を受け取った。

 蓋を開けると、古い印章がいくつか入っていた。店の印、組合の印、会計用の印。その中に、小さな丸い朱肉の跡が残る印があった。

 持ち手の側面に、かすれた字で書かれている。

 市場守市神。

 朔は息を止めた。

 名があった。

 市場を守る、市の神。

 信仰としては小さく、格式もないのかもしれない。人々が便宜上つけた名かもしれない。だが、この場所では、その名で呼ばれていた。

 朔は印章を白布に置いた。

「これです」

 老女が覗き込んだ。

「そんな名前やったんか」

「おそらく」

「誰も覚えてへんかったなあ」

 その声には、後悔があった。

 朔は首を振った。

「完全に忘れられていたわけではありません。残っていました」

「紙の中に?」

「はい」

 老女は少し笑った。

「商売の神さんらしいわ。人の頭やのうて、領収書に残るなんて」

 その言葉に、一条が微かに笑った。

 朔も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 祠へ戻り、朔は印章を木札の前に置いた。

 市場は静かだった。老女は店番に戻り、遠くで惣菜屋の揚げ物の音がしている。油が跳ねる音は、かつての賑わいの残響のようだった。

 朔は帳面を開いた。

 名称の欄に、ゆっくりと書く。

 市場守市神。

 筆先が紙に触れた瞬間、祠の奥の空気が震えた。

 一条が顔を上げる。

 木札の黒い部分が、わずかに薄くなった。完全に文字が戻るわけではない。ただ、黒に埋もれていた輪郭が、一瞬だけ浮かんだ。

 神の姿は見えなかった。

 しかし、アーケードの上を、風が通った。

 閉じたシャッターがかすかに鳴り、古い看板が揺れる。八百屋の店先に並んだ小松菜の葉が震えた。惣菜屋の中から、誰かが「何や、風か」と言う声がした。

 朔は目を閉じた。

 記憶の中で見た市場の音が、ほんの少しだけ戻ってくる。

 魚屋の包丁。

 豆腐屋の水。

 八百屋の笑い声。

 子どもの走る足音。

 最後の日、祠の前で頭を下げた魚屋の大将。

 終わることにも、神は寄り添っていた。

 朔は記録を続けた。

 所在地、壬生東市場跡。

 神格、市場の開閉、商い、怪我避け、店を畳む者の背中を守る小神。

 通称、市場の神さん。

 過去の記録により、市場守市神の名を確認。

 木札の神名は黒い残滓により剥離。

 名の一部を印章および領収書裏の朱印より復元。

 文字を書き終えると、祠の中の分銅が小さく鳴った。

 金属が触れたような音だった。

 りん、ではない。

 からん、でもない。

 重さを測る道具が、自分の役目を思い出した音。

 一条が言った。

「戻ったな」

「完全にではない」

「完全に戻るものなんて、そう多くない」

「そうだな」

 朔は木札に手を合わせた。

 その時、祠の奥から黒い煤が滲み出した。

 前の二つと同じものだった。だが、量は少ない。名前の一部が戻ったことで、剥がれた残骸が押し出されたのかもしれない。

 朔は空瓶を取り出そうとした。

 一条が手首を掴んだ。

「俺がやる」

「おまえが?」

「おまえは触るな」

「だが」

「右手を見ろ」

 朔は反論しかけて、やめた。

 右手の黒い線は、朝よりも伸びている。手首の手前まで達していた。痛みはない。ただ冷たい。その冷たさに、皮膚の内側から何かが耳を澄ませているような気配があった。

 一条は朔から瓶を取り、黒い煤を慎重に集めた。

 その動作は慣れていた。

「やったことがあるのか」

「昔な」

「祖父と?」

「そういうことにしておけ」

「一条」

「深掘りするな。今のおまえは、掘れば掘るほど落ちる」

 朔は何も言えなかった。

 作業を終えると、八百屋の老女が二人に茶を出してくれた。紙コップに入った熱い番茶だった。

「市場の神さん、喜んではるやろか」

 老女が尋ねた。

「喜んでいるかは分かりません」

 朔は正直に答えた。

「ただ、少し軽くなったと思います」

「そうか」

 老女は祠を見た。

「ここ、もうすぐなくなるんや」

「はい」

「でもな、壊す前に名前が分かったんは、よかったかもしれん。うちら、ずっと市場の神さんで済ませてた。悪気はなかったんやけどな」

「悪気がない忘却は、よくあります」

「きついこと言わはるな」

「すみません」

「いや、その通りや」

 老女は笑った。皺の深い顔に、寂しさと納得が同時に浮かんでいた。

「店を畳むことも守ってくれる神さん、か。もっと早く知ってたら、閉めるときに楽やった人もおったやろな」

「今からでも、伝えられます」

「誰に?」

「店を畳んだ人に」

 老女は朔を見た。

「田島さんに言うたげよか。魚屋の大将。あの人、店閉めたあとも、ずっと悪いことしたみたいな顔してはる」

「ぜひ」

「商売はな、始めるより、終わる方がしんどい時がある」

 彼女は紙コップを両手で包んだ。

「ここも、終わり方を探してるんやろな」

 朔は、その言葉を帳面に書き留めたいと思った。だが、やめた。人間の言葉を何でも記録に混ぜればいいわけではない。

 それでも、その一言は胸に残った。

 終わり方を探している。

 それは、神だけではない。

 人も、場所も、町も、同じなのだろう。

 夕方前、事務所に戻った朔は、すぐに帳簿を開いた。

 朝、勝手に現れていたページが、まだそこにあった。黒く塗り潰されていた名称欄は、少しだけ変化している。

 真っ黒だった部分に、うっすらと文字が浮いていた。

 市場守市神。

 朔はその名を正式に記録した。

 すると、紙の重みが変わった。

 ページが沈むような感覚があった。帳簿が、その名を受け入れたのだ。

 一条は障子のそばに座っていた。疲れているように見えた。人ではないものに疲労という表現が正しいのか分からないが、少なくともいつもの軽口は少ない。

「今日は甘味を要求しないのか」

 朔が言うと、一条は片目だけ開けた。

「おまえが買ってくるなら食う」

「自分で行け」

「神に買い食いをさせるな」

「近いだけだろ」

 一条は小さく笑った。

 その笑みを見て、朔は少しだけ安心しかけた。

 だが、その直後だった。

 帳簿のページが勝手にめくれた。

 風はない。

 窓も閉まっている。

 朔は息を止めた。

 開いたのは、市場守市神の次のページだった。

 白紙のはずのそこに、また黒い文字が浮かんでいた。

 名称――

 黒く塗り潰されている。

 所在地の欄には、まだ何もない。

 依頼者の欄も空白。

 最後の記憶の欄も空白。

 ただ、ページの右下に、墨とは違う細い線が走っていた。

 それは、誰かの筆跡に似ていた。

 朔は、その筆跡を知っている。

 乱雑で、少し斜めに流れ、止めの部分だけ妙に几帳面な字。

 一条の字だった。

 そこには、たった二文字が書かれていた。

 一条。

 朔は顔を上げた。

 一条は、障子のそばで固まっていた。

「おまえが書いたのか」

「書くわけがない」

 声が、ほんのわずかに乾いていた。

 朔は帳簿を見た。

 名称欄は黒く塗り潰されている。

 その横に、一条の字で、一条とある。

 それが本名ではないことは、朔も知っている。さっき、一条自身が通り名だと言ったばかりだ。

 だが、帳簿はその名を拾った。

 これから死ぬ神の名前として。

「一条」

 朔が呼ぶと、一条は視線を逸らした。

「大げさに考えるな」

「帳簿に出た」

「帳簿も間違うことがある」

「あるのか」

「……ないとは言わない」

「一条」

「呼ぶな」

 その声は、鋭かった。

 朔は黙った。

 呼ぶな。

 その言葉の意味を、朔はすぐには理解できなかった。

 だが、一条の横顔を見て、ようやく分かった。

 名前は、呼ぶ者と呼ばれる者の間にある。

 呼べば、繋がる。

 繋がれば、剥がすものに見つかる。

 朔が一条を呼ぶことそのものが、今の一条にとって危険なのかもしれない。

 事務所の空気が重くなった。

 文机の上には、三つ目の小瓶があった。市場守市神から採取した黒い煤。その底で、黒い粒がゆっくりと動いている。

 奥の棚には、昨日までの二つの小瓶が並んでいる。

 朔は立ち上がり、それらを見に行った。

 二つの瓶の中の煤が、同じ方向に寄っていた。

 まるで、帳簿を見ているようだった。

 いや、違う。

 帳簿の中の「一条」という文字を見ている。

 一条が低く言った。

「見つかったかもしれない」

「何に」

「名を剥がすものに」

 朔はゆっくり振り返った。

 一条の姿が、また少し薄く見えた。

 障子の白に輪郭が溶けている。

 右手の指先が、光を透かしている。

 朔は呼びかけそうになった。

 だが、言葉を飲み込んだ。

 呼ぶな。

 その一言が、喉に刺さったように残っていた。

 一条は、いつものように笑おうとした。

 失敗した笑みだった。

「そんな顔をするな。俺はまだ、遺品になるつもりはない」

 朔は答えなかった。

 帳簿のページに、黒い塗り潰しがじわりと広がった。

 一条の名の周りを、ゆっくりと囲むように。

 その黒は、まるで獲物を見つけたものの影に似ていた。



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