第二章 願われすぎた縁切り神
縁というものは、結ばれているうちは見えない。
切れかけて初めて、人はそれが自分の身体のどこかに繋がっていたことを知る。
ある者は胸に痛みを覚え、ある者は指先の冷えとして感じる。何も感じない者もいる。そういう人間ほど、失ったあとで、部屋の広さや食卓の静けさに戸惑う。
三条朔は、縁という言葉があまり好きではなかった。
便利すぎるからだ。
偶然も縁。
執着も縁。
逃げられない関係も縁。
ただの惰性も縁。
人はそれを、良いもののようにも、悪いもののようにも使う。結ぶことを祝福し、切ることを不幸と決めつける者もいる。だが、朔の仕事をしていると、そう単純には言えなくなる。
切らなければ生きていけない縁はある。
切ってはいけなかった縁もある。
そして時には、切るべきものと残すべきものの区別がつかないまま、人は神の前で手を合わせる。
その日の朝、三条遺品整理の事務所には、湿った紙の匂いが残っていた。
前日に持ち帰った祠の品々は、白布の上にまだ並べられている。鳴らない鈴、読めない木札、赤い紐、竹の笛、三枚の絵馬。小瓶に収めた黒い煤は、文机の右端に置いてあった。
朔は、木札を斜めから光に透かしていた。
墨の痕はある。
文字の骨も残っている。
しかし、読めない。
通称として「守りさん」と記録することはできる。町内の古い記憶に残っていた呼び名だ。だが、それは正式な名ではない。
名を失った神は、何になるのか。
その問いは、昨夜から朔の中に残っていた。
「まだ睨んでいるのか」
一条が奥から出てきた。片手に湯呑みを持っている。朝の光の中で見ると、彼の姿はいつもより薄いように見えた。障子越しの白い明るさに輪郭が溶けている。
朔は視線を木札から外さなかった。
「睨んでいるわけじゃない」
「似たようなものだ。おまえの目つきは、たまに刃物を研いでいる職人みたいになる」
「木札は答えない」
「神も、死にかけると口が重くなる」
一条は向かいに座り、湯呑みを畳に置いた。
朔は彼の右手を見た。
「昨日のことだが」
「何の話だ」
「おまえの手が透けた」
「気のせいだ」
「同じ嘘を何度も使うな」
一条は面倒そうに息をついた。
「古いものは、光の加減でそう見えることがある」
「おまえは掛け軸か」
「掛け軸の方が由緒正しい場合もある」
「ふざけるな」
朔の声が、少しだけ低くなった。
一条は口を閉じた。
事務所の外を、自転車のベルが通り過ぎていく。朝の三条通はまだ人が少ない。遠くで配送車の扉が閉まる音がした。
一条はしばらく湯呑みの茶を見ていた。
「朔」
「何だ」
「昨日の黒い煤は、捨てるな」
「捨てるつもりはない」
「触るなとも言いたい」
「調べなければ分からない」
「分かったところで、手遅れになることもある」
朔は、今度は一条を見た。
「何を知っている」
「昔話だ」
「またそれか」
「昔話は便利なんだ。嘘としても語れるし、本当としても逃げられる」
一条は湯呑みを口元に運んだ。茶は少しも減らなかった。彼は飲む仕草だけをしていることがある。食べることも飲むこともできるが、それが必要なのかどうか、朔には分からない。
「名を剥がすものは、縁を好む」
「縁?」
「名前は、単独では存在しない。呼ぶ者がいて、呼ばれる者がいる。その間に生まれるものだ。だから名前を奪うには、まず縁を探る」
「祠の神と誰かの縁を辿ったということか」
「かもしれない」
「なぜ、そんなことをする」
一条は答えなかった。
その沈黙が、かえって答えに近かった。
朔がさらに尋ねようとしたとき、玄関の引き戸が鳴った。
来客を知らせる鈴はない。朔は鈴を置かないことにしている。小さな社から持ち帰った鳴らない鈴のせいで、なおさらその空白が目立った。
戸を開けると、若い女性が立っていた。
二十代後半だろう。淡いベージュのコートに、黒いパンプス。髪は低い位置でまとめられ、化粧は控えめだが、目の下の青さだけは隠せていない。傘を持つ手に力が入りすぎて、指先が白くなっていた。
「あの、こちらが三条遺品整理さんで合っていますか」
「はい」
「水無瀬莉子と申します。突然すみません。紹介で来ました」
紹介という言葉のあと、彼女は鞄から一枚の紙を取り出した。そこには、几帳面な字で三条遺品整理の住所が書かれていた。裏には、女性の名前が一つある。
朔はその名に覚えがあった。以前、亡くなった祖母が残した櫛に宿っていたものを片づけた家の孫娘だ。
「どうぞ」
朔が招くと、水無瀬は小さく頭を下げた。
事務所に入った瞬間、彼女は足を止めた。白布の上に並ぶ鈴や木札を見たのだろう。普通の遺品整理業者の事務所だと思って来たのなら、奇妙に見えたに違いない。
「座ってください」
朔は座布団を出した。
水無瀬は膝を揃えて座った。背筋は伸びているが、肩だけが落ちている。疲れている人間の座り方だった。
一条は、部屋の隅に移動していた。水無瀬には見えていないようだった。だが、彼は彼女を見るなり、わずかに眉をひそめた。
「ご相談というのは」
朔が尋ねると、水無瀬はすぐには答えなかった。鞄を膝に載せ、両手で持ち手を握っている。
「人との縁が、切れていくんです」
そう言ったあと、自分でもおかしなことを言っていると思ったのか、彼女は苦く笑った。
「すみません。意味が分からないですよね」
「続けてください」
朔は遮らなかった。
「最初は、いいことだと思ったんです。嫌な人と離れられたから」
「嫌な人?」
「職場の先輩です」
水無瀬は視線を落とした。
「同じ部署の女性で、私のやることにいちいち口を出す人でした。ミスを大きな声で指摘したり、他の人の前で遠回しに馬鹿にしたり。仕事はできる人なので、誰も何も言わない。私も我慢していました」
「その人との関係が切れた」
「はい。突然、異動になったんです。地方の支社へ。本人も知らなかったようで、かなり揉めていました。でも、私は正直ほっとしました」
それだけなら、ただの偶然だ。
朔は黙って続きを待った。
「その次は、元彼でした。別れたあとも連絡がしつこくて、家の近くで待っていたこともあって。警察に相談するほどではないけれど、怖かった。そうしたら、彼が急に転職して、東京へ行きました」
「それも望んでいたことですか」
「はい」
「その次は?」
水無瀬の喉が小さく動いた。
「友人です」
声が少し震えた。
「学生時代から仲の良かった友人がいました。何でも話せると思っていました。でも、最近少し距離を置きたいと思うことがあって。彼女は悪い人じゃないんです。ただ、私の話を聞いているようで、いつも自分の話にしてしまう。疲れているときに会うと、もっと疲れる。それで、一度だけ思ったんです。少し離れたいって」
「それから」
「連絡が来なくなりました。既読にもならない。SNSも見られなくなっていました。共通の友人に聞いたら、私が何かしたんじゃないかと言われました。彼女の中で、私との記憶が少しおかしくなっているみたいなんです。私が何度も約束を破ったとか、彼女を見下していたとか、そんなことを言っているらしくて」
水無瀬は唇を噛んだ。
「でも、そこまではまだ、偶然かもしれないと思えました」
「今は思えない」
「はい」
彼女は鞄からスマートフォンを取り出した。画面を開き、朔に見せる。そこには、会社の勤怠アプリらしきものが表示されていた。
「昨日、会社に行ったら、私の社員証が使えなかったんです」
「退職扱いになっていた?」
「違います。もっと変なんです。人事のデータから、私の名前だけが消えていました」
朔は画面を見た。
部署名、社員番号、勤務履歴。そこには確かに不自然な空白があった。スクリーンショットも何枚か残っている。だが、しばらくするとデータは復旧したらしい。会社側はシステムの一時的な不具合だと説明したという。
「でも、それだけじゃありません」
水無瀬はスマートフォンを握る手に力を込めた。
「母から、電話が来なくなりました」
「いつから」
「三日前からです。毎週、必ず電話をくれる人なんです。大した用事はありません。天気の話とか、近所の話とか。でも、三日前から急に」
「こちらからかけましたか」
「かけました。出ませんでした。父に聞いたら、母は元気だと言われました。でも、母が私の話をほとんどしないそうなんです。まるで、私の存在だけが少し薄くなったみたいに」
水無瀬の目に、初めて涙が浮かんだ。
「怖いんです。嫌いな人が離れていくのは、正直ありがたかった。でも、今は違う。必要な人まで、私から離れていく。私が誰かと繋がっていたこと自体が、なかったことになっていく気がするんです」
朔は彼女の左手を見た。
手首に、細い赤い跡があった。糸で締められたような痕だ。本人は気づいていないのか、袖で半分隠れている。
一条が、部屋の隅で低く言った。
「縁切りだな」
朔はわずかに頷いた。
「最近、どこかの神社や祠に行きましたか」
水無瀬は驚いた顔をした。
「どうして分かるんですか」
「思い当たる場所があるんですね」
「あります」
彼女はスマートフォンを操作し、一枚の写真を出した。
古びた小さな社だった。朱塗りだったらしい鳥居は色褪せ、周囲には絵馬がぎっしり吊るされている。場所は京都市内の外れ。観光名所というほどではないが、最近SNSで少し話題になっている縁切り社だという。
「会社の同僚に教えられました。すごく効くって。嫌な縁が切れるって」
「何を願いましたか」
水無瀬は一瞬、答えに詰まった。
「最初は、先輩との縁が切れますように、と」
「それだけですか」
「……元彼のことも」
「他には」
水無瀬は視線を逸らした。
「友人のことも、少し」
「母親のことは?」
「願っていません」
答えは早かった。
「母のことは願っていません。確かに、電話が面倒だと思うことはあります。疲れているときに近所の誰々さんがどうしたとか聞かされると、正直うんざりすることもあります。でも、縁を切りたいなんて思ったことはありません」
「思ったことがない」
「ありません」
彼女の声ははっきりしていた。そこに嘘はなさそうだった。
一条が言った。
「願いの範囲が広がっている」
朔は水無瀬に尋ねた。
「その社に、もう一度行けますか」
「はい」
「では、案内してください」
水無瀬は不安げに頷いた。
縁切り社は、街の中心から外れた住宅地の奥にあった。
バス停から十分ほど歩く。道は途中から細くなり、両側に古い塀が続く。観光客の姿はない。だが、スマートフォンを見ながら歩く若い女性が数人、同じ方向へ向かっていた。
社に近づくにつれ、空気が変わった。
神域の清らかさではない。もっと重く、粘り気のある空気だった。人が吐き出した言葉が、湿った布のように木々に絡みついている。
鳥居の前で、水無瀬は足を止めた。
「ここです」
朱塗りの鳥居は、小さい。石段を数段上った先に拝殿があり、その周囲を埋め尽くすように絵馬が吊るされていた。
数が多すぎる。
朔はまずそう思った。
小さな社に見合わない量だった。絵馬掛けはもちろん、柵、木の枝、柱、果ては古い雨樋にまで紐で結ばれている。新しいものも古いものも混在し、雨に濡れた板が重なり合っていた。
そこに書かれた文字が、朔の目に入った。
別れられますように。
あの女が消えますように。
夫が戻ってきますように。
上司が異動しますように。
親と縁が切れますように。
あいつが不幸になりますように。
私の人生から、あの人をなかったことにしてください。
願いというより、刃だった。
水無瀬は顔を伏せた。
「私も、ここに書きました」
「どれですか」
彼女は迷いながら、奥の方を指した。
朔は絵馬の群れをかき分けるように進んだ。触れないよう慎重に目で追う。水無瀬の絵馬は、比較的新しい板だった。丸みのある字で、こう書かれている。
職場の先輩との縁が切れますように。
もう私の前に現れませんように。
その下に、別の文字が重なっていた。
元彼との縁が完全に切れますように。
追ってこられませんように。
さらに小さく、隅に書かれている。
疲れる友人とも、少し距離を置けますように。
それだけだった。
母親のことはない。
朔は社を見た。
拝殿の奥に、小さな木札が掛かっていた。だが、文字が読めない。雨風で薄れたというより、何かが意図的に墨を吸い取ったように黒い空白になっている。
朔の右手が疼いた。
前日の黒い染みが、熱を持ったように感じた。
一条は拝殿の前に立ち、周囲を見渡していた。今日の彼は、水無瀬には見えていない。だが、ここにいる何かには見えているようだった。絵馬が、風もないのにかすかに揺れる。
「ひどいな」
一条が言った。
「神が歪んでいるのか」
「神だけじゃない。願いが腐っている」
朔は拝殿に一礼し、手袋をはめた。
この社の神が、本来どういう存在だったのかを知る必要がある。壊れてしまった願いの流れを止めるには、まず元の役割を見なければならない。
彼は水無瀬に言った。
「ここで待っていてください」
「中に入るんですか」
「少し調べます」
「私も」
「来ない方がいい」
朔の声に何かを感じたのか、水無瀬はそれ以上言わなかった。
拝殿の奥には、小さな祭壇があった。中央に古い鏡、その横に木札、そして赤と白の紐が何本も絡まった箱が置かれている。紐は、本来なら願いを結ぶためのものだったのだろう。だが今は、箱から溢れ、蛇のように絡み合っている。
朔は木札に触れた。
冷たい。
瞬間、視界が切り替わった。
社は、今よりずっと小さかった。
絵馬はほとんどない。木々の間を抜ける風が静かに通り、石段には落ち葉が積もっている。訪れる者も少ない。
その神は、縁を切る神だった。
だが、人を孤独にする神ではなかった。
暴力を振るう夫から逃げたい女。
借金を押しつける親戚と縁を切りたい男。
付きまといから逃れたい娘。
悪い仲間から離れたい若者。
神は、切らなければ生きていけない縁を断った。
鋏のように乱暴に切るのではない。
絡まった糸を、少しずつほどく。
相手への恐怖や罪悪感に縛られた心を、ほんの少し軽くする。
逃げるための一歩を踏み出せるように、背中を押す。
その神は、人の不幸を望んでいなかった。
誰かを消したかったわけでもない。
憎しみを叶えたかったわけでもない。
ただ、苦しんでいる者を、苦しめている縁から離してやりたかった。
それが、いつから変わったのか。
記憶が濁る。
参拝者が増えた。
最初は口コミだった。
あそこは効く。
嫌な相手が消える。
上司が飛ばされた。
元恋人が遠くへ行った。
あの女と別れさせられた。
願いは、救いから呪いへと変わっていく。
誰かの人生から消えてほしい。
不幸になってほしい。
病気になってほしい。
会社を辞めてほしい。
家族と縁が切れますように。
あの子が孤独になりますように。
神は戸惑った。
切るべき縁と、切りたいだけの縁は違う。
逃げるための願いと、傷つけるための願いも違う。
けれど、願われる量が増えすぎた。
声が重なり、言葉が潰れ、誰が何から逃げたいのか分からなくなる。絵馬に書かれた文字が、神の中へ泥のように流れ込んだ。
神は、役割だけを強く求められた。
切れ。
切れ。
切れ。
切れ。
悪縁かどうかは問われない。
切りたいと言われたものを、切る。
それが神の役目なのだと、人が決めた。
社の木札に、黒い煤が滲んだ。
神の名前が、剥がれていく。
名前を失った瞬間、神は自分が何のために縁を切っていたのかを忘れた。
残ったのは、切るという役割だけだった。
糸が見える。
人と人を繋ぐ、細い糸。赤いもの、白いもの、灰色のもの、泥のように濁ったもの。そのすべてに神の手が伸びる。
切る。
切る。
切る。
願いに書かれていない縁にまで、刃が及ぶ。
少し面倒だと思った母の電話。
疲れるけれど大切だった友人。
嫌いではないが、距離が近すぎた同僚。
自分の名前を記録する会社。
帰る家。
思い出。
自分自身との繋がり。
切る。
そこで記憶は途切れた。
朔は祭壇の前で膝をついていた。
右手が痺れている。木札に触れていた指先から、黒い染みが少し濃くなったように見えた。
「朔」
一条がそばにいた。
「見た」
「ああ」
「どうだった」
「神は、悪意で切っていたわけじゃない」
「だろうな」
「名前がない。役割だけが残っている」
一条は箱から溢れた紐を見た。
「役割だけになった神は、道具に近い」
「止められるか」
「名を戻せばな」
「読めない」
「だろうな」
朔は立ち上がった。拝殿の外で、水無瀬が不安そうにこちらを見ている。彼女の手首の赤い痕は、さっきより濃くなっていた。
「別の方法を考える」
「あるのか」
「作るしかない」
一条は少し笑った。
「おまえは、そういうところだけ祖父に似ていない」
「祖父を知っているように言うな」
「知っているから言っている」
その言葉に引っかかりを覚えたが、今は聞いている場合ではなかった。
朔は水無瀬のところへ戻った。
「水無瀬さん」
「はい」
「あなたが本当に切りたかった縁と、切りたくなかった縁を書き分ける必要があります」
「書き分ける?」
「この神は今、区別がつかなくなっています。あなたの願いに触れたものを、すべて切ろうとしている。嫌な相手だけではなく、面倒だと思った相手、少し距離を置きたいと思った相手、疲れた日にうんざりした相手まで」
水無瀬の顔が青ざめた。
「そんな」
「願いは、正確でなければ危険です。特に、弱っている神の前では」
朔は鞄から白い紙を二枚出した。
「一枚には、本当に切りたい縁を書いてください。もう一枚には、切りたくなかった縁を書いてください」
「ここで、ですか」
「はい」
水無瀬は戸惑いながら紙を受け取った。
拝殿の横にある石の台に紙を置き、ペンを握る。最初の一枚には、比較的早く書いた。
職場の先輩。
元恋人。
そこで手が止まった。
疲れる友人、という言葉を書くかどうか迷っているのが分かった。
朔は何も言わなかった。
やがて水無瀬は、友人の名前を書かなかった。
次の紙に移る。切りたくなかった縁。
母。
友人。
今の職場。
私を心配してくれた人たち。
そこまで書いて、水無瀬の手が止まった。
彼女は新しい行に、震える字で書いた。
私が私でいられること。
朔はそれを見て、何も言わなかった。
人間は、追い詰められると、嫌な縁ばかりを数える。
だが、本当に失うのが怖いものは、その奥に隠れている。
水無瀬はペンを置いた。
「これで、戻りますか」
「戻せるものと、戻せないものがあります」
「友人は」
「相手の気持ちまでは戻せません」
彼女の表情が歪んだ。
「ただ、歪められた部分はほどけるかもしれません」
朔は二枚の紙を受け取り、拝殿の前に置いた。
一条が箱から一本の紐を引き出した。人間の目には見えない紐だった。赤く、細く、ところどころ黒く濁っている。
「これは水無瀬のか」
「一部だ」
「ほどけるか」
「数が多い。手伝え」
「どうやって」
一条は朔を見た。
「おまえは記録しろ。何を切り、何を残すか。言葉で分けろ」
朔は頷いた。
彼は帳面を開き、水無瀬が書いた二枚の紙の内容を写した。
切るべき縁。
切ってはならない縁。
その区別を、ひとつずつ読み上げる。
「水無瀬莉子は、職場の先輩から受けた不当な支配との縁を切る」
一条が紐を一本ほどく。
社の奥で、何かが軋んだ。
「水無瀬莉子は、元恋人からの執着との縁を切る」
また一本、黒い部分が落ちる。
「水無瀬莉子は、母との縁を切らない」
赤い紐が震えた。
拝殿の奥から、低い音がした。神が抵抗しているのではない。区別できずに戸惑っているのだ。
朔は続けた。
「水無瀬莉子は、友人との縁を切らない。ただし、疲れたときに距離を置く自由を持つ」
一条が小さく笑った。
「いい言い方だ」
「茶化すな」
「茶化していない。人間には、そういう中途半端な言葉が必要なんだろう」
朔は最後の行を見た。
私が私でいられること。
「水無瀬莉子は、自分自身との縁を切らない」
その瞬間、社の中に溜まっていた空気が、はっきりと動いた。
絵馬が一斉に揺れた。
風ではない。人々の願いが、束になって震えている。
水無瀬が短い悲鳴を上げた。彼女の手首に浮かんでいた赤い痕が、糸のようにほどけていく。痛みがあるのか、彼女は手首を押さえた。
一条は見えない紐を両手で掴み、力を込めた。
「朔、名前は無理でも役割を呼べ」
「役割?」
「この神が何だったか、記録したんだろう」
朔は拝殿の奥を見た。
木札の文字は読めない。名前は失われている。だが、神が本来何をしていたのかは見た。
苦しむ者を、悪縁から逃がす神。
朔は声に出した。
「あなたは、人を孤独にする神ではない」
社の奥の黒い影が、わずかに揺れた。
「あなたは、憎しみを叶える神ではない。誰かを消す神でもない」
絵馬の文字が、にじむように揺れる。呪いの言葉が重なり、耳の奥でざわめいた。
消せ。
切れ。
離せ。
奪え。
朔は続けた。
「あなたは、逃げられない人を逃がす神だった。苦しむ人が、生きるために必要な縁を選び直せるようにする神だった」
黒い煤が、木札の表面から滲み出た。
朔の右手が激しく冷えた。指先から腕へ、氷の糸が這い上がってくる。前日の祠で付いた黒い染みが、呼応するように広がった。
一条が叫んだ。
「触るな!」
だが遅かった。
朔の視界に、無数の顔が流れ込んできた。
願った者たち。
泣きながら絵馬を書いた者。
笑いながら誰かの不幸を願った者。
憎しみを正義だと思い込んだ者。
逃げたいと言いながら、本当は追い詰めたかった者。
別れたいと願いながら、相手が不幸になることまで望んだ者。
その声の中に、神の声が混じっていた。
切ればいいのか。
切れば、救えるのか。
切れば、喜ばれるのか。
切れば、私はまだ神でいられるのか。
朔は歯を食いしばった。
「違う」
声が出た。
「願われた通りに壊すことが、神でいることじゃない」
その言葉が届いたのかどうかは分からない。
ただ、木札の黒い煤が一気に噴き出した。
一条が見えない紐を引き裂くようにほどいた。赤と白の糸が空中で分かれ、濁った黒だけが床へ落ちる。落ちた黒は、前日の祠で見た煤と同じものだった。
朔は小瓶を取り出し、それを受けた。
煤が瓶の中で蠢く。
それは、神から剥がれた名前の残骸のようにも、誰かの願いの腐った部分のようにも見えた。
社の空気が、少し軽くなった。
絵馬のすべてが浄化されたわけではない。そんな都合のいいことは起こらない。呪いに近い願いは、まだそこに残っている。人間が書いた言葉は、人間が責任を持つべきものだ。
だが、社の奥にあった神の気配は、ほんのわずかに輪郭を取り戻していた。
朔は水無瀬の二枚の紙を折り、白い紐で結んだ。片方だけを結ぶのではなく、二枚を重ねて結ぶ。
切ることと、残すこと。
その両方を神前に置いた。
「願い直してください」
水無瀬は涙を拭い、拝殿の前に立った。
彼女は長い時間、手を合わせていた。
何を願ったのか、朔は聞かなかった。
帰り道、水無瀬は少しだけ顔色を取り戻していた。
バス停までの道を歩きながら、彼女は何度も手首を見た。赤い痕は薄くなっている。完全に消えたわけではない。
「母に、電話してみます」
彼女は言った。
「はい」
「友人にも、謝ります。戻れるかは分からないけど」
「それでいいと思います」
「私、切ることばかり考えていました」
水無瀬は小さく笑った。泣いたあとの笑い方だった。
「嫌なものから離れたいと思うのは、悪いことじゃないですよね」
「悪いことではありません」
「でも、嫌になった瞬間があるからって、その人との全部を消したいわけじゃなかった」
「人との関係は、白黒で分けられるものばかりではありません」
「だから難しいんですね」
朔は答えなかった。
バス停に着くと、水無瀬は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「まだ完全に戻ったわけではありません。何かあれば連絡してください」
「はい」
バスが来た。水無瀬は乗り込み、窓際の席に座った。スマートフォンを取り出し、しばらく画面を見つめている。やがて、誰かに電話をかけた。
バスが動き出す直前、彼女の表情が変わった。
相手が出たのだろう。
朔には声は聞こえなかったが、水無瀬の口が「お母さん」と動いたのが見えた。
バスは角を曲がり、見えなくなった。
一条は隣で、退屈そうに伸びをした。
「ひとまず、切られずに済んだな」
「彼女はな」
「社の方は?」
「終わっていない」
「だろうな」
朔は小瓶を取り出した。中には、黒い煤がまた増えている。前日のものと混ざり合い、底で静かに揺れていた。
「同じものだと思うか」
一条が尋ねた。
「祠の神名を剥がしたものと、この社を歪めたものか」
「ああ」
「似ている」
「似ているだけか」
「同じ匂いがする。だが、同じ手かどうかは分からない」
朔は瓶を鞄にしまった。
「名前を食うものは、縁を好むと言ったな」
「言った」
「なら、これは偶然ではない」
一条は答えなかった。
その沈黙が、朔の推測を肯定しているように思えた。
事務所へ戻ると、朔はすぐに帳簿を開いた。
新しいページに、縁切り社の記録を書く。
所在地。
依頼者、水無瀬莉子。
社の通称。
正式名称、判読不能。
神格、本来は悪縁を断ち、逃げるべき者の背を押す小神。
現在、過剰な願掛けにより役割が歪曲。
神名、黒い残滓により剥離した形跡あり。
願いの範囲が拡大し、依頼者の必要な縁まで切断しかけた。
朔は筆を止めた。
一条は横から覗き込み、珍しく何も茶化さなかった。
「名前は分からず、か」
「分からないものは分からないと書く」
「正しい」
「だが、役割は残す」
朔は続きを書いた。
処置。依頼者本人に、切るべき縁と残すべき縁を明文化させる。神前にて役割を再定義。願いの一部を分離。黒い残滓を採取。完全な浄化には至らず。継続観察を要する。
そこまで書いたところで、右手の黒い染みがまた疼いた。
朔は筆を置き、手を見る。
前日より、ほんの少し線が伸びている。爪の脇から指の腹へ、そして手首に向かって、細い黒が這っていた。
一条が言った。
「だから触るなと言った」
「触らなければ分からなかった」
「おまえはいつも、それで済ませる」
「分からないまま放置する方が危険だ」
「おまえ自身が危険になるのは構わないと?」
朔は顔を上げた。
一条の声には、苛立ちが混じっていた。
「珍しいな。怒っているのか」
「怒っていない」
「嘘をつくな。おまえは怒ると語尾が古くなる」
「分析するな」
似たやりとりをしたばかりだと思い、朔は少しだけ笑いそうになった。だが、一条は笑っていなかった。
「朔」
「何だ」
「名前を剥がすものに関わりすぎるな」
「なぜ」
「名前は、呼ぶ者と呼ばれる者の間にあると言っただろう」
「ああ」
「おまえは記録者だ。つまり、名前の残骸にとっては、格好の足場になる」
朔は手の黒い染みを見た。
「私を通って、名前を取り戻そうとするということか」
「取り戻すとは限らない。剥がれたものは、別の場所に貼りつこうとすることもある」
「祟りか」
「もっと面倒なものだ」
一条はそこで言葉を切った。
朔は続きを待ったが、一条は言わなかった。
夕方、水無瀬から短いメールが届いた。
母と話せました。
友人にも連絡を送りました。まだ返事はありません。
でも、自分から切らずに済んでよかったと思います。
本当にありがとうございました。
朔は返信を書いた。
無理に戻そうとしなくて構いません。
切ることと距離を置くことは違います。
異変が続く場合は連絡してください。
送信してから、少し考え、最後の一文を消さなかった。
それは彼女に向けた言葉でもあり、自分に向けた言葉でもあるように思えた。
夜、事務所には二つの小瓶が並んだ。
ひとつは、子どもを見守っていた祠から採取した煤。
もうひとつは、願われすぎた縁切り社から採取した煤。
どちらも同じ黒をしている。光を当てても反射せず、瓶の底で静かに沈んでいる。だが、時折、互いを探すように揺れることがあった。
朔は帳簿の前に座り、二つの記録を見比べた。
忘れられた神。
願われすぎた神。
正反対のようでいて、同じものを奪われていた。
名前。
祠の神は、誰にも呼ばれなくなった。
縁切り社の神は、役割ばかりを呼ばれ続けた。
そのどちらにも、黒い煤が現れている。
一条は障子の向こうを見ていた。夜の闇に、彼の輪郭が少し溶けている。
「一条」
「何だ」
「おまえの名前は、本当に一条なのか」
部屋の空気がわずかに止まった。
一条は振り返らなかった。
「さあな」
「さあな、で済ませるな」
「済ませてきたから、今ここにいる」
「どういう意味だ」
一条はしばらく黙っていた。やがて、外の雨を聞くように顔を上げた。
「名前には、呼ばれ方というものがある。生まれたときの名、祀られた名、恐れられた名、親しみで呼ばれる名。どれが本当かなんて、神にも分からなくなることがある」
「一条は、そのどれだ」
「通り名だ」
「誰が呼んだ」
「忘れた」
その言葉が嘘なのか本当なのか、朔には分からなかった。
だが、一条の声は軽かった。軽すぎた。
朔は帳簿を閉じた。
「忘れたなら、記録する」
「余計なことをするな」
「必要ならする」
一条はようやく振り返った。
その表情は、いつもの皮肉な笑みだった。
「おまえは、救わないんじゃなかったのか」
朔は答えられなかった。
救わない。
歪ませない。
祖父に教えられ、ずっと守ってきた言葉だ。
けれど、今、目の前にいる一条の輪郭が薄れている。それを見て何もしないことが、果たして終わりを歪ませないことなのか。
それとも、見ないふりをしているだけなのか。
答えは出なかった。
そのとき、文机の上で小さな音がした。
かつん、と乾いた音。
朔と一条が同時に見る。
小瓶のひとつが、わずかに傾いていた。触れた者はいない。中の黒い煤が瓶の内側に張りつき、文字のような形を作っている。
朔は顔を近づけた。
それは、文字ではなかった。
けれど、何かを書こうとしているように見えた。
煤はゆっくりと形を変え、やがて瓶の底に崩れた。ほんの一瞬だけ、黒い粒が、細い糸のように伸びていた。
縁。
朔はそう思った。
名前を剥がされた神々の残骸は、ただそこに沈んでいるのではない。何かを探している。呼ばれる先を。貼りつく相手を。あるいは、次に剥がすべき名前を。
一条が低く言った。
「始まっているな」
「何が」
「神の終わり方が、変わり始めている」
朔は右手の黒い染みを握り込んだ。
痛みはない。
ただ、冷たい。
まるで見えない糸で、どこか遠くの何かと結ばれてしまったようだった。
外では、雨がまた強くなっていた。京都の夜を濡らし、屋根を叩き、路地の奥に溜まっていく。
朔は帳簿の表紙に手を置いた。
忘れられた神。
願われすぎた神。
名前を剥がすもの。
そして、一条。
すべてはまだ、一本の線になっていない。
けれど、縁は見えないところで結ばれる。
切れる瞬間まで、誰もそれに気づかない。




