第一章 鳴らない鈴の社
雨の降る京都には、音が少ない。
観光客の足音も、タクシーのクラクションも、寺町通の店先から漏れる呼び込みの声も、細い雨の幕に吸われて、どこか遠くへ退いていく。濡れた石畳に街灯の光が滲み、古い家屋の格子戸は、昼間よりも深い陰を抱えている。
三条朔は、そういう日の京都が嫌いではなかった。
人の気配が薄くなると、人ではないものの気配が濃くなる。
祇園の路地裏、鴨川に近い細道、あるいは町家と町家の隙間にひっそり残った小さな祠。そういう場所では、雨の日の方が声を拾いやすい。
もっとも、声といっても、人間の耳に届くものではない。
湿った木札が軋む音。
錆びた鈴の中に残った震え。
古い絵馬の裏側に染みついた、誰かの祈りの残り香。
朔の仕事は、それらを聞くことだった。
表向きの看板には、墨でこう書かれている。
三条遺品整理。
場所は、三条通から少し入った路地の奥。観光客が偶然迷い込んでも、まず見つけられない。古い町家の一階を改装した、小さな事務所である。玄関先には、竹製の傘立てと、乾ききらない白い布巾が掛けられていた。引き戸のガラスは少し歪んでいて、外の景色を水底のように揺らしている。
遺品整理といっても、普通の遺品整理ではない。
家具や家電を運び出すこともある。古い写真を箱に詰めることもある。だが、朔のもとへ持ち込まれる依頼の多くは、人間の死後の片づけではなかった。
忘れられた社。
壊された祠。
役目を終えたお守り。
名前を呼ぶ者のいなくなった神や妖。
朔は、それらの最後を整える。
救うわけではない。
祓うわけでもない。
ましてや、奇跡を起こすわけでもない。
終わるものを、歪ませずに終わらせる。
それだけだった。
その日の午後、事務所の畳には湿気が降りていた。朔は文机の前に座り、帳簿の紙を一枚ずつめくっていた。表紙は黒く、角は丸く擦れている。祖父の代から受け継いだもので、綴じ紐は何度も替えられていた。中には、これまでに片づけてきたものの記録がある。
名称。
所在地。
依頼者。
残された物品。
最後の記憶。
処置。
文字だけを見れば、役所の書類に似ている。しかし、そこに並ぶ名は人ではない。
橋の下に棲んでいた影。
井戸の底に残った水神。
祭りの終わりに忘れられた面。
狐火を抱えたまま消えた小さな祠。
朔は筆を置き、湯呑みに手を伸ばした。茶はすっかり冷めていた。
「また渋い茶を飲んでいるのか」
背後から声がした。
朔は振り返らなかった。
「渋い茶を淹れたのはおまえだろ」
「それは違う。俺は急須に湯を注いだだけだ。茶葉の選定責任はおまえにある」
「責任の所在を細かく分けるな」
軽い足音とともに、一条が畳の上を歩いてきた。
見た目だけなら、二十代半ばの男に見える。白に近い薄茶の着流しをまとい、羽織を肩にかけている。髪は黒く、目元は涼しい。どこか世間を斜めに見ているような顔つきだが、笑うと妙に人懐こい。
ただし、人間ではない。
一条は、自分のことを詳しく語らない。古い神に近いもの、としか言わない。朔もそれ以上は訊かないことにしていた。訊いたところで、正確な答えが返ってくるとは限らないからだ。
一条は文机の横に腰を下ろし、帳簿を覗き込んだ。
「今日の仕事は?」
「まだない」
「ないなら店を閉めて甘味を食いに行こう。雨の日の客入りの悪い茶屋は、たいてい団子を柔らかくして待っている」
「それはおまえの願望だ」
「願望は大事だ。願われない神がどうなるか、おまえが一番よく知っている」
朔は筆先を布で拭いた。
一条は軽口を叩くが、時々、妙に鋭いことを言う。それが冗談なのか、本気なのか、朔には分からない。たぶん一条自身も分かっていないのだろう。
そのとき、玄関の引き戸が控えめに叩かれた。
一条の視線が、すっと細くなった。
朔は立ち上がり、戸を開けた。
そこに立っていたのは、灰色のレインコートを着た老人だった。七十を過ぎているだろう。背は低いが、目だけはよく動く。濡れた帽子を両手で持ち、恐縮したように頭を下げた。
「こちらが、三条さんのお宅でよろしいですか」
「はい。三条です」
「突然すみません。町内会の、加納と申します」
老人は名刺を差し出した。町内会長、加納義晴。紙は湿気を吸って、端がわずかに反っていた。
「電話で済ませてもよかったんですが、こういう話は、直接お願いした方がええと思いまして」
朔は老人を中へ招いた。
加納は畳に上がる前に、何度も靴下の水気を気にした。朔が手拭いを出すと、彼は申し訳なさそうにそれを受け取った。
一条は、いつの間にか客から見えにくい場所へ移動していた。人間に見えるかどうかは、相手と状況による。見えていない相手に向かって話しかけると面倒なので、一条は依頼人が来ると大抵黙る。
「ご相談というのは」
朔が切り出すと、加納は膝の上で指を組んだ。
「祠を、片づけていただきたいんです」
「祠」
「ええ。古いもんです。うちの町内の外れに、小さな祠がありましてな。今度、その一帯が更地になります。マンションが建つそうです」
加納は淡々と話していたが、声の奥に迷いがあった。
「工事業者は、祠も撤去する言うてます。まあ、土地の持ち主も了承してますし、法的には何の問題もないんでしょう。けど、長いことそこにあったもんを、重機で潰すだけというのは、どうにも気持ちが悪い」
「神職には相談されましたか」
「しました。けど、どこの神さんか分からんのです。うちの町内でも、誰が祀ったか知っとる者がもうおらん。神主さんも、正式に管理されている社ではないから、できることには限りがあると」
「祠に名前は?」
「木札はあります。ただ、読めません。雨風で薄れてしもうて」
加納はそこで口を閉じた。視線が畳の目に落ちる。
「三条さんは、こういうもんを丁寧に扱ってくださると聞きました」
「誰からですか」
「以前、井戸を片づけてもろた家がありましてな。そこの奥さんから」
井戸。
朔は帳簿の一ページを思い出した。水を失った井戸に残っていた、小さな水神の記録だ。もう二年ほど前になる。
「分かりました。現地を見ます」
朔が言うと、加納は深く頭を下げた。
「助かります」
「ただし、ひとつ確認しておきたいことがあります」
「何でしょう」
「私は、神様を元に戻すことはできません」
加納が顔を上げる。
「祠を移せば済む場合もあります。新しい場所で祀り直せる場合もある。けれど、すでに終わっているものを、生き返らせることはできません」
「……はい」
「私がするのは、残されたものを調べ、記録し、できるだけ歪まない形で片づけることです」
加納はしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐いた。
「それで結構です。うちの町は、あの祠を長いこと忘れておりました。今さら救ってくださいとは、よう言えません。ただ、なかったことにするのだけは、違う気がするんです」
その言葉を聞いて、一条がわずかに目を伏せた。
朔は加納の名刺を帳簿に挟んだ。
「明日の朝、伺います」
「ありがとうございます」
加納が帰ると、事務所にまた雨音だけが戻った。
一条は文机の端に肘をつき、薄く笑った。
「まともな依頼人だったな」
「そうだな」
「忘れていたことを認められる人間は、案外少ない」
朔は返事をしなかった。
一条の声には、いつもの軽さが戻っていた。だが、目は玄関の方を向いたままだった。
「気になるのか」
「祠が?」
「ああ」
一条は肩をすくめた。
「読めない木札、忘れられた祠、再開発前の撤去。よくある話だ」
「なら、どうしてそんな顔をしている」
「俺はいつも美しい顔をしている」
「そういう話じゃない」
一条は笑った。けれど、すぐにその笑みは消えた。
「鳴らない鈴の音がした」
朔は帳簿を閉じた。
「ここにいてか」
「ああ。玄関を叩かれたとき、一瞬だけな」
「どんな音だ」
「音になりそこねた音だ。揺れたのに、鳴らなかった」
朔は窓の外を見た。雨粒が格子に当たり、細い線をつくって落ちていく。
鳴らない鈴。
それは、珍しいことではない。忘れられた祠には、よくある。祈る者がいなくなれば、鈴は鳴る理由を失う。金属としては残っていても、祈りの道具としては死んでいる。
だが、一条がそれを口にする時は、別の意味を持つ。
「自然に終わったものならいいが」
一条はぽつりと言った。
翌朝、雨は上がっていた。
空はまだ低く、雲の底が東山の稜線に引っかかっている。路面には昨夜の水が残り、車が通るたびに薄く跳ねた。
朔は黒い作務衣の上に濃紺の羽織を着た。鞄には、白布、手袋、小さな刷毛、木箱、記録用の帳面、筆記具、塩、そして祖父から受け継いだ帳簿の写しを入れる。帳簿本体は事務所から持ち出さない。持ち出すのは、必要な部分を書き写した薄い冊子だけだ。
一条は当然のようについてきた。
「甘味は帰りだな」
「仕事が終わればな」
「仕事は終わらせるためにある。甘味はその後にある。人間の文明は、よくできている」
「おまえは神に近い存在じゃなかったのか」
「近いだけだ。団子にはもっと近い」
加納が待っていたのは、町内の外れにある細い坂道の入口だった。昔ながらの木造家屋が数軒残っているが、その向こうには白い仮囲いが立ち、重機のアームが覗いていた。再開発予定地はすでに大部分が更地になっている。
「こちらです」
加納は坂道を上った。
道幅は狭く、両側には湿った苔が貼りついていた。途中に古い石段があり、その脇を抜けると、小さな空き地に出た。
祠は、そこにあった。
思っていたよりも小さい。大人の腰ほどの高さの石の台座に、木製の社が載っている。屋根の一部は朽ち、扉は片方だけ傾いていた。前には錆びた鈴が吊るされている。鈴緒は切れかけ、触れれば崩れそうだった。
祠の周囲には、誰かが昔植えたらしい南天が伸びていた。赤い実はもう落ち、枝だけが雨上がりの空気に濡れている。
朔は一歩近づいた。
空気が冷えた。
気温が下がったわけではない。場所そのものが、外の世界から少し切り離されている。長く人に見られなかったものが抱える、独特の静けさだった。
一条は祠の前で立ち止まった。表情は読めない。
「これです」
加納が言った。
「昔は、子どもらがここでよう遊んどったそうです。私が小さい頃には、もうだいぶ廃れてましたけど、それでも近所の者が正月には手を合わせてました。いつから誰も来んようになったのか……気づいたら、こうなっておりました」
朔は手袋をはめた。
「中を見ます」
「お願いします」
祠の扉に触れた瞬間、木がかすかに鳴った。拒む音ではない。むしろ、誰かがようやく来たことに驚いているような音だった。
扉を開けると、埃と湿った木の匂いがした。
中には、いくつかの物が残されていた。
小さな盃。
色の褪せた赤い紐。
折れた竹の笛。
古い絵馬が三枚。
そして、奥に立てかけられた木札。
木札には文字があった。だが、ほとんど読めない。墨は雨と年月に流され、黒い影になっている。かろうじて一文字目らしきものが見えるが、それが「守」なのか「森」なのか、「杜」なのか判然としなかった。
朔は写真を撮り、配置を記録した。ものを動かす前に、必ずそのままの状態を残す。何がどこにあったかは、その存在の最期を知る手がかりになる。
一条は祠の横にしゃがみ込み、鈴を見上げていた。
「鳴らしてみるか」
「やめておけ」
「冗談だ」
一条はそう言ったが、声に冗談の色はなかった。
朔はまず、盃を取り出した。白布の上に置く。次に赤い紐、竹の笛、絵馬。最後に木札へ手を伸ばした。
その瞬間、指先に冷たいものが走った。
朔は息を止めた。
記憶が来る。
いつも前触れは短い。皮膚の下に細い針を刺されるような感覚があり、その後、意識の一部が自分のものではなくなる。
目の前の祠が消えた。
代わりに、夏の光があった。
今よりもずっと広い空き地。地面は土で、端には背の高い木が立っている。子どもたちの声がする。鬼ごっこ、縄跳び、竹馬。誰かが転んで泣き出すと、別の子が笑いながら手を引いた。
祠は新しかった。木はまだ白く、鈴は明るく光っている。
小さな手が鈴緒を引いた。
りん、と鳴る。
その音に、社の中の何かが目を覚ます。
姿は見えない。ただ、柔らかい気配がある。子どもたちの靴音を聞き、笑い声を聞き、転ばぬように、迷わぬように、帰り道を間違えぬように、そっと見守る気配。
祈願というほど大げさなものではなかった。
明日も遊べますように。
お母さんに怒られませんように。
犬に追いかけられませんように。
あの子と仲直りできますように。
神は、それらを真面目に聞いていた。
大きな願いは叶えられない。病を治すことも、金を授けることも、失った命を戻すこともできない。ただ、転びそうな足元の小石を少しだけ横へずらす。迷いそうな子の目に、家の灯りを早く見つけさせる。その程度の力しかない。
それでも、神は満ちていた。
呼ばれること。
鈴を鳴らされること。
小さな願いを預けられること。
それだけで、そこにいる意味はあった。
季節が飛んだ。
空き地の端に、新しい道路ができた。子どもたちの通学路が変わった。遊び場は別の場所へ移り、祠の前を通る足音は減っていく。
また季節が飛んだ。
鈴緒に雨が染み、絵馬の文字が薄れた。大人たちは忙しくなり、子どもたちは塾へ通い、空き地には車が停められるようになった。
それでも、ひとりの少女だけが時々やって来た。
赤いランドセルを背負っていた。髪を二つに結び、いつも膝に小さな傷を作っている。少女は祠の前で手を合わせ、鈴を鳴らした。
「今日も転びませんように」
それは、彼女が何度も転ぶ子どもだったからだ。
神は毎日、少女の帰り道を見守った。彼女が走れば小石をよけ、雨が降れば水たまりの深い方へ行かないように風を吹かせた。少女はそれに気づかない。ただ、祠の前を通るたび、鈴を鳴らした。
りん。
その音が、神には嬉しかった。
ある日、少女は祠に向かって言った。
「また来るね」
その声は、よく晴れた午後の光の中にあった。
だが、少女は二度と来なかった。
引っ越したのかもしれない。
通学路が変わったのかもしれない。
大人になったのかもしれない。
あるいは、単に忘れたのかもしれない。
神には分からなかった。
ただ、鈴は鳴らなくなった。
年月は、音もなく積もる。
待つことに慣れた神は、それでも待った。
今日こそ誰かが来るかもしれない。
明日こそ鈴が鳴るかもしれない。
あの子が大人になって、子どもを連れて戻ってくるかもしれない。
しかし、誰も来なかった。
社の木が黒ずみ、鈴が錆び、鈴緒が痩せていく。神の輪郭もまた、薄れていった。願いを聞く力は小さくなり、子どもの足元の小石を動かすこともできなくなった。
それでも、神は怒らなかった。
忘れられることは、責めることではない。
人間は生きている。
生きていれば、忘れる。
そのはずだった。
記憶の中に、別の色が混じった。
黒い煤のようなものが、祠の奥から滲んだ。
それは、神自身から出たものではなかった。外から入り込み、木札に触れ、薄れかけた文字の上を這った。
名前が剥がれていく。
神は初めて恐怖した。
忘れられて終わることは、まだよかった。
けれど、名前だけを奪われることは違う。
自分が何を守っていたのか。
誰に呼ばれていたのか。
どの場所に立っていたのか。
それらが、ばらばらになっていく。
最後に、神は鈴を鳴らそうとした。
誰かに来てほしかったのではない。
自分がここにいたことを、自分自身に確かめたかった。
鈴は揺れた。
だが、鳴らなかった。
そこで記憶は途切れた。
朔は祠の前で膝をついていた。
呼吸が浅い。額に冷たい汗が滲んでいる。手袋をした右手は、木札を握っていた。
「朔」
一条の声がした。
朔はゆっくり目を開けた。雨上がりの空気が戻ってくる。仮囲いの白、苔の匂い、加納の不安げな顔。
「大丈夫ですか」
加納が身を乗り出していた。
「大丈夫です」
朔は答えたが、声は少しかすれていた。
一条が木札を見ている。
「見たか」
「ああ」
「自然な終わりじゃないな」
朔はうなずいた。
加納には一条の声が聞こえていないらしい。ただ、朔の様子だけを見ている。
「何か、分かりましたか」
「この祠は、子どもを見守る神様だったようです」
「子どもを……」
「この辺りがまだ遊び場だった頃、子どもたちがよく鈴を鳴らしていた。大きな願いを叶える神ではありません。帰り道を見守ったり、転ばないようにしたり、そういう小さな神です」
加納の顔に、かすかな記憶の影が差した。
「そういえば」
「何か」
「私が子どもの頃、この坂を上るとき、祖母が言うてました。走ったらあかん、守りさんが見てはるで、と」
「守りさん」
「ええ。正式な名前やったかは分かりません。ただ、うちの祖母はそう呼んでました」
朔は木札に視線を落とした。
守。
森。
杜。
読めなかった一文字が、少しだけ意味を持った。
「他に覚えている方は?」
「もう、ほとんどおりません。古い人らは亡くなりましたし、若い者はこの祠のこと自体知らんでしょう」
加納は祠を見つめた。
「守りさん、ですか。そうやった。確かに、そんなふうに呼んでいた気がします」
朔は頷き、記録用の帳面に書き留めた。
通称、守りさん。
子どもの通行、遊び場の安全を見守る小神。
正式名称、判読不能。
そして、欄外に一行を加える。
木札の神名、外的要因により剥離した可能性あり。
加納が不思議そうに尋ねた。
「外的要因、ですか」
「単なる風雨だけではないかもしれません」
「それは、どういう」
朔は言葉を選んだ。
「忘れられたから消えたのではなく、消されかけた、ということです」
加納は理解したような、しないような顔をした。
一条が祠の奥を覗き込んだ。
「まだ残っている」
朔は視線だけで応じた。
祠の奥、木札が立っていた場所。その下に、黒い粉のようなものが溜まっていた。煤に似ているが、燃えた跡ではない。雨に濡れているはずなのに、乾いているように見える。
朔は白い紙を取り出し、刷毛で慎重にそれを集めた。
指先に触れた瞬間、皮膚が粟立った。
冷たい。
ただの冷たさではない。名前を呼ばれないまま暗い場所に置かれていたものの冷たさだ。
一条の表情が険しくなる。
「触りすぎるな」
「分かっている」
「分かっている顔じゃない」
朔は煤を小瓶に収めた。瓶の中で、黒い粒は一瞬だけ蠢いたように見えた。
作業は昼前までかかった。
祠そのものは、すぐには壊さないことにした。まずは残された物品を引き取り、木札の文字を調べる。加納には、工事業者に数日だけ猶予をもらうよう頼んだ。
「お願いしてみます」
加納は何度も頭を下げた。
「三条さん、あの」
「はい」
「守りさんは、怒っておられましたか」
朔は祠を見た。
朽ちた木。
錆びた鈴。
鳴らなかった音。
「怒ってはいませんでした」
加納は少しだけ息を吐いた。
「そうですか」
「ただ、最後に鈴を鳴らそうとしていました」
「鈴を」
「自分がここにいたことを、確かめるために」
加納の目が濡れた。
「……そうですか」
彼は祠の前に立ち、深く頭を下げた。長い沈黙だった。祈りの言葉はなかった。けれど、その沈黙は言葉よりもましだった。
朔は何も言わずに待った。
事務所へ戻ったのは、午後になってからだった。
陽は差していたが、畳にはまだ朝の湿り気が残っている。朔は祠から持ち帰った品を白布の上に並べた。
盃。
赤い紐。
竹の笛。
三枚の絵馬。
木札。
そして、錆びた鈴。
鈴は、取り外すときにも鳴らなかった。
一条はそれを見つめたまま、しばらく黙っていた。
「鳴らしてやればよかったか」
朔は尋ねた。
「無理に鳴らした音は、祈りじゃない」
「そうだな」
「けど、鳴らなかった音を聞く者がいるなら、少しはましだ」
朔は帳簿を開いた。
新しいページに、日付を書く。所在地、依頼者、通称、残置物。ひとつずつ丁寧に記していく。
最後の記憶を書く段になると、手が止まった。
いつもなら、簡潔に書く。余計な感情を混ぜない。記録は記録でなければならない。朔は祖父にそう教わった。
けれど、今回はどうにも筆が進まなかった。
神は怒っていなかった。恨んでもいなかった。ただ、忘れられていくことを受け入れようとしていた。その最後に、名前だけを剥がされた。
それは死ではない。
盗難に近い。
あるいは、冒涜だった。
朔は筆を取った。
かつて町内の子どもたちの往来と遊び場を見守った小神。通称、守りさん。正式名称は判読不能。最後の参拝者は赤いランドセルの少女。約束の言葉を残すも再訪せず。神格は自然衰弱ののち、外的な黒い残滓により神名を剥離された形跡あり。最期に鈴を鳴らそうとしたが、音は生じず。
そこまで書いて、朔は筆を置いた。
一条が横から覗き込む。
「淡々としているな」
「記録だからな」
「そのわりに、怒っている」
「怒っていない」
「嘘をつくな。おまえは怒ると句読点が減る」
「分析するな」
一条は少し笑った。
朔は木札を手に取った。薄れた文字を光に透かす。角度を変えると、墨の跡がわずかに浮く。しかし、やはり読めない。
神の名前は、そこにあったはずだった。
誰かが祀り、誰かが呼び、誰かが忘れた。忘れられることは、自然な終わりの一部だ。だが、消されることは違う。
「一条」
「何だ」
「名前を剥がすものに心当たりはあるか」
一条の顔から笑みが消えた。
「ない、と言いたいところだが」
「あるのか」
「昔話ならある」
「聞かせろ」
「忘れられた神の名前を食うものがいる、という話だ。名を食われた神は、自分が何だったのかを忘れる。役割だけが残れば、願いを壊れた形で叶える祟りになる。役割すら残らなければ、ただ消える」
「実在するのか」
「昔話は、実在しなかったものだけでできているわけじゃない」
朔は小瓶を見た。黒い煤は底に溜まり、動かない。
「なぜ今になって」
「さあな。京都は古いものが多い。古いものが多い場所では、忘れられたものも多い」
一条は鈴を指先で軽くつついた。
音はしなかった。
「それに、忘れられたものは、時々、自分だけが忘れられたと思い込む」
「どういう意味だ」
「誰にも呼ばれなかったものは、呼ばれているものを憎むことがある」
朔は一条を見た。
その横顔は、どこか遠かった。
夕方、加納から電話があった。工事は三日だけ延期できることになったという。業者は渋ったが、町内会長として最後のお願いをしたらしい。
「三日で十分です」
朔は答えた。
「本当に、ありがとうございます」
電話の向こうで、加納は何度も礼を言った。
通話を切ったあと、朔は祠から外した鈴を布で拭いた。錆は落ちない。だが、雨と埃は少しずつ取れていく。表面に薄い模様があった。子どもの手が何度も触れた跡なのかもしれない。
一条は湯を沸かしていた。珍しく、茶葉を選んでいる。
「今日は渋くない茶にしてくれ」
「注文が多い遺品整理屋だ」
「おまえが渋い茶を淹れるからだ」
「神に茶を淹れさせるな」
「近いだけだろ」
一条は鼻で笑った。
そのとき、鈴がかすかに揺れた。
朔は手を止めた。
窓は閉まっている。風はない。一条も何もしていない。
鈴は、もう一度だけ揺れた。
音は、やはりしなかった。
だが、朔には分かった。
そこに何かが残っている。
神そのものではない。祈りでもない。もっと細く、頼りないもの。最後に鳴らそうとした音の、輪郭だけが残っている。
朔は鈴を両手で包んだ。
目を閉じる。
赤いランドセルの少女が、「また来るね」と言った声。
子どもたちが走る足音。
転んだ膝の痛み。
小石をそっと避ける、小さな神の手。
そして、鳴らなかった鈴。
朔は帳簿を引き寄せた。
最後の行に、もう一文だけ書き加える。
鳴らなかった鈴の音は、記録者が聞いた。
一条がそれを見て、何も言わずに茶を置いた。
湯呑みから、湯気が立つ。
今度の茶は、渋くなかった。
夜になり、事務所の外に再び雨が降り始めた。細い雨だった。朔は小瓶に入れた黒い煤を机の上に置いたまま、じっと眺めていた。
煤は、瓶の底で静かに沈んでいる。
しかし時折、ほんのわずかに形を変える。まるで、暗い水の中で何かが寝返りを打っているようだった。
一条は障子のそばに座り、外の雨を見ていた。
「朔」
「何だ」
「この件、これで終わりだと思うな」
「思っていない」
「ならいい」
朔は瓶から視線を外さなかった。
「神の名前を食うものがいるとして、それは祠ひとつで満足すると思うか」
「思わない」
「京都には、名前を忘れられた神が多すぎる」
雨音が少し強くなった。
朔は自分の右手を見た。木札に触れた指先。手袋は外している。皮膚に、黒いものが付着していた。
煤だと思った。
だが、違った。
黒い染みは、爪の脇から指の腹へ、細い線を描いて残っている。布で拭っても落ちない。水で洗っても薄くならない。
一条が近づいてきた。
朔の手を見て、表情を変える。
「いつからだ」
「祠で木札に触れたあとだ」
「痛むか」
「いや」
「冷えるか」
「少し」
一条は舌打ちをした。
その音は、人間じみていた。だからこそ、朔は余計に不安になった。
「何だ」
「名前を剥がされた跡に触れすぎた」
「それだけか」
「それだけならいいがな」
一条は朔の手首を掴み、黒い線を見た。触れられた場所が、ひどく冷たい。
朔は一条の手を見た。
一瞬、向こう側の畳が透けた気がした。
「一条」
「何だ」
「おまえの手」
一条はすぐに手を離した。
「気のせいだ」
「嘘をつくな」
「おまえに言われたくない」
一条は背を向けた。いつものように軽口で逃げようとしている。だが、その肩は少しだけ強張っていた。
朔は何も言わなかった。
雨の音が続いている。
机の上には、鳴らない鈴。
読めない木札。
黒い煤の入った小瓶。
そして、名前を失った神の記録。
朔は帳簿を閉じた。
表紙の黒が、夜の底のように見えた。
忘れられた神は、怒っていなかった。
ただ、自分がいたことを確かめたかった。
それだけの願いすら、何者かに奪われた。
朔は右手の黒い染みを見つめる。
水で洗っても落ちないその痕は、まるで、まだ名前を呼ばれていない何かが、皮膚の下で目を覚ましたようだった。




