第八章 京都から神の名前が消える夜
町が壊れる音は、必ずしも大きいとは限らない。
建物が崩れる。火の手が上がる。人々が叫ぶ。そういう破壊なら、誰の目にも分かる。だが、もっと静かな壊れ方もある。
道を曲がった瞬間、自分がどこへ向かっていたのか分からなくなる。
いつも汲んでいた井戸の水を、なぜか飲む気になれなくなる。
毎朝手を合わせていた小さな祠の前を、誰もが素通りする。
母親が子どもの名を呼ぼうとして、ほんの一瞬だけ言葉に詰まる。
それは災害ではない。
事件とも呼びにくい。
だから人は、自分の疲れのせいにする。
年齢のせいにする。
忙しさのせいにする。
スマートフォンの見すぎだと笑う。
町そのものの記憶が少しずつ剥がれているなど、誰も思わない。
三条朔が最初の異変を知ったのは、保管庫から戻った翌朝だった。
事務所の玄関先に、三通の封書が届いていた。郵便ではない。いずれも手渡しのように、引き戸の隙間に差し込まれていた。
一通目は、近所の和菓子屋の女将からだった。
店先の小さな地蔵に毎朝水を供えているのに、その地蔵が何のためにそこにあるのか急に思い出せなくなった、という相談だった。子どもの夜泣き封じだったような気もするし、火除けだったような気もする。夫に聞いても分からない。先代の頃からあったはずなのに、誰一人、名を覚えていない。
二通目は、藤代からの緊急連絡だった。
市内各所で神名剥離反応が急増。
特に道祖神、水神、学問神、縁結び系小祠に集中。
保管庫の名喰い核と同期反応あり。
協力を求む。
三通目には、差出人がなかった。
古い半紙に、子どものような字で一行だけ書かれていた。
だれかが、うちの神さんの名前を忘れた。
朔は三通を文机に並べ、しばらく見つめていた。
障子のそばで、一条が茶を飲むふりをしている。昨日よりは姿が濃い。けれど、完全に戻ったわけではない。指先や髪の端が、ときおり空気にほどける。
呼べば戻る。
呼べば見つかる。
その危うい均衡の上で、一条はまだそこにいた。
「忙しくなるな」
一条が言った。
「軽く言うな」
「重く言えば減るのか」
「減らない」
「なら軽く言った方がいい」
朔は三通目の半紙を手に取った。紙は古い。だが、文字は新しい。墨ではなく、鉛筆のようなもので書かれている。
「子どもの字だと思うか」
「子どもが書いたとは限らない」
「神か」
「あるいは、神を覚えている最後の誰かだ」
朔は右腕を押さえた。
黒い線は肘の手前で止まっている。だが、昨日からずっと冷たい。血管の代わりに、夜の川が流れているようだった。
保管庫で名喰いの核が反応したあと、京都全域で神名剥離が加速している。
それは偶然ではない。
名喰いは、一条の名を聞いた。朔の記録を足場にした。そして、保管庫に封じられた残滓たちと、町中の名を失いかけた神々を繋げ始めている。
境界が揺らいでいるのだ。
朔は地図を広げた。藤代が送ってきた反応地点の一覧を、赤鉛筆で印をつけていく。点は、京都の町の上にじわじわと増えた。
上京の細い路地。
東山の坂の途中。
壬生の市場跡。
堀川沿いの小さな橋。
北野の外れ。
伏見の古井戸。
寺町の裏路地。
鴨川へ続く小道。
一条が地図を覗き込んだ。
「これは、道を作っているな」
「道?」
「点ではない。線だ」
朔は赤い印を目で追った。
確かに、ばらばらではない。京都の町を縫うように、何かが通っている。神社仏閣の主要な線ではない。観光地図に載るような道でもない。
もっと古い。
人が生活の中で使ってきた、名もない道。井戸と市場、地蔵と橋、路地の祠、公園、町内の境。それらを結ぶ見えない線。
「境界か」
朔が呟くと、一条は目を細めた。
「人が町を区切る時、必ず何かを置く。道祖神、地蔵、祠、石、木、井戸。そこに名前があれば境界になる。名前が剥がれれば、境界はただの隙間になる」
「名喰いは、その隙間を通っている」
「そういうことだろうな」
朔は地図の中心を見た。
赤い線は、ひとつの場所へ向かっているように見えた。
御所の南西。古い町家が密集する一角。大きな神社があるわけではない。だが、いくつかの古い通りが交差している場所だ。
「ここは?」
一条は黙った。
その沈黙で、朔は気づいた。
「知っているのか」
「昔、宗一郎と行った」
「名喰いの処置で?」
「ああ」
「そこに、何がある」
一条は地図を見たまま、低く言った。
「何もない」
「何もない場所に向かっているのか」
「今は何もない。昔は、名前のない祠があった」
名前のない祠。
その言葉だけで、空気が冷えた。
「詳しく話せ」
「宗一郎が片づけ損ねた場所だ」
「祖父が?」
「完全には片づけられなかった。名喰いの一部は保管庫に封じた。だが、最初にそれが生まれた場所の記憶は、町の中に残った」
「だから今、そこへ戻ろうとしている」
「あるいは、そこから呼んでいる」
朔は地図をたたんだ。
「行く」
一条はため息をついた。
「言うと思った」
「止めるか」
「止めても行くだろう」
「分かっているなら話が早い」
「ただし、藤代も呼べ」
朔は一条を見た。
「珍しいな」
「保管庫の核が動いている以上、あの男の情報は必要だ。それに、制度の犬にも役に立つ時はある」
「本人の前で言うなよ」
「言う」
朔は藤代へ電話をかけた。
数回の呼び出し音の後、すぐに繋がった。藤代の声には、明らかな疲労があった。
「三条さん。こちらから連絡しようとしていました」
「地図を見ました。剥離地点が一点に向かっている」
「こちらでも同様の分析です」
「中心は、御所南西の古い町内」
「はい。現在、当室の資料で照合中です」
「一条によると、そこは祖父が名喰いを処置し損ねた場所だそうです」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
「一条氏は、その記憶を保持しているのですか」
「一部は」
「分かりました。合流しましょう。現地近くに調査員を出していますが、既に複数の認識障害が発生しています」
「認識障害?」
「道に迷う、目的地を忘れる、同行者の名を一時的に思い出せなくなる。軽度ですが、広がっています」
朔は一条を見た。
彼は表情を消していた。
「時間がありませんね」
「はい。二十分後、烏丸二条の交差点付近で」
「分かりました」
通話を切ると、一条が言った。
「朔」
「何だ」
「今日は、俺の名を必要以上に呼ぶな」
「努力する」
「努力では足りない」
「昨日、藤代に同じことを言われた」
「なら、二人分聞け」
朔は鞄を肩にかけた。
帳簿本体は持っていかない。代わりに、祖父の手紙の写しと、記録帳を入れる。黒色残滓の小瓶も置いていく。名喰いの反応を強める可能性があるからだ。
出かける前、朔は文机の上に置かれた帳簿を見た。
黒い表紙は、いつもより沈んで見える。
中には、名喰いのページと、一条のページがある。
持っていかないことで安全なのか。
それとも、置いていくことで目を離すことになるのか。
答えはない。
朔は表紙に手を置いた。
「留守を頼む」
一条が横から言った。
「帳簿に話しかけるな。返事されたら困る」
「返事するなら、それも記録する」
「だから危ないんだ」
二人は事務所を出た。
昼前の京都は、曇っていた。
観光客はいつも通り歩いている。修学旅行生の集団が地図を見ながら笑い、外国人観光客がバス停の表示を確認し、会社員が急ぎ足で通り過ぎる。
その中で、小さな異変が起きていた。
寺町通へ向かうはずの女性が、交差点で立ち止まり、スマートフォンを見ながら首を傾げている。老夫婦が、さっきまで話していた店の名前を思い出せず、二人で困ったように笑っている。ランドセルを背負った子どもが、母親に向かって「いつもの道、どっちだっけ」と尋ねている。
派手ではない。
だが、確実に町の輪郭が緩んでいた。
烏丸二条の交差点付近で、藤代が待っていた。
今日はスーツの上に薄いコートを羽織っている。右腕には包帯のような白い布が巻かれていた。昨日、黒い煤に触れた痕だろう。隣には女性職員が一人、地図と端末を持っている。
藤代は朔を見るなり、右腕に視線を落とした。
「進行は?」
「肘の手前で止まっています」
「痛みは」
「冷えだけです」
「十分問題です」
「あなたの腕は」
「こちらも問題です」
一条が横から言った。
「問題だらけの集まりだな」
藤代は一条を見た。
「あなたの輪郭も不安定です」
「見れば分かる」
「自己認識に異常は」
「ある。こんな奴らと一緒にいる自分が信じられない」
「冗談が言えるなら、まだ保っていますね」
「おまえも少し慣れてきたな」
藤代は反応せず、地図を広げた。
「剥離反応は、この一帯に集中しています。ただし、中心地点に近づこうとした調査員が、三度同じ路地へ戻されました」
「迷わされている?」
「道祖神系の境界異常です。道を失うというより、道の意味が剥がれている。右に曲がる、左に曲がる、帰る、進む。そういう判断が曖昧になります」
一条が言った。
「名が消えた道は、ただの線になる」
「対応策は」
朔が訊くと、藤代は小さな紙を取り出した。そこには、現在地と目的地を書いた簡単な地図がある。
「地名ではなく、物理的な目印で辿ります。郵便ポスト、石垣、銅板の看板、格子戸、井戸跡。名称ではなく、形で認識する」
「名前を使わない」
「はい。名称に頼ると剥がされます」
朔は頷いた。
それは、名喰いに対する皮肉な対処だった。
名前を守るために、今は名前を避ける。
四人は歩き出した。
烏丸通から一本入ると、空気が変わった。車の音が遠ざかり、古い町家が並ぶ路地に入る。格子戸、犬矢来、細い石畳、低い軒。観光地化された美しさではなく、生活に使われてきた古さが残っている。
最初の異変は、角を曲がったところで起きた。
女性職員が立ち止まった。
「すみません。今、どちらへ向かっていましたか」
藤代がすぐに答える。
「正面の銅板看板、その先の赤い郵便ポスト」
「……はい」
彼女はメモを確認し、頷いた。
一条が低く言った。
「始まっている」
次の角では、道端の地蔵の前に水がこぼれていた。
誰かが供えようとしたのだろう。柄杓が倒れ、花立てには枯れかけた菊が刺さっている。地蔵の首元には、赤い前掛けがかけられていた。だが、そこに書かれていたはずの文字が黒く滲んでいる。
朔は近づこうとした。
一条が腕を掴む。
「今は触るな」
「分かっている」
「分かっていない顔だ」
「分析するな」
「分析しなくても分かる」
朔は地蔵の前で手を合わせるだけにした。
触れなくても、声は聞こえた。
子どもの熱を冷ます。
夜泣きを預かる。
母親の不安を、少しだけ肩代わりする。
そんな小さな役割が、黒く滲んでいる。
藤代が記録用の端末を向けた。
「ここも剥離」
「記録してください」
朔が言うと、藤代は頷いた。
「夜泣き封じ、子どもの熱除け系地蔵。名称不明。後で町内に聞き取りを」
その言い方は、以前より少し変わっていた。
危険度や管理番号より先に、役割を言った。
朔は何も言わなかったが、藤代は気づいたように目を逸らした。
先へ進む。
路地は、同じ場所を繰り返しているように見えた。
格子戸。
石畳。
植木鉢。
古い看板。
低い塀。
小さな祠。
京都には似た路地が多い。だが、それだけではない。目印にしていた赤い郵便ポストが、二度現れた。いや、同じ場所へ戻されたのかもしれない。
藤代が地図に印をつける。
「やはり循環しています」
「道の名前を使うな」
一条が言った。
「曲がり角にも名前がある。町内名も、通り名も使うな」
「では、どう進む」
「匂いだ」
藤代が一条を見た。
「匂い?」
「古い祠の匂い。名前をなくした木札の匂い。おまえらには分からないだろうが」
藤代は黙った。
朔は一条を見た。
「案内できるか」
「できる。たぶん」
「たぶん?」
「俺も薄いからな」
その言い方は軽かったが、内容は重かった。
一条は路地の奥へ歩き出した。
その背中は、陽の当たる場所に出ると透ける。影に入ると濃くなる。まるで、こちらの世界と向こう側を行き来しているようだった。
朔はその後ろ姿を見失わないように歩いた。
呼びたい。
名を呼んで確かめたい。
だが、今は呼ばない。
呼ばずに見る。
呼ばずに信じる。
それが、朔にできる唯一のことだった。
路地を三つ曲がり、古い石垣の横を抜けると、小さな空き地に出た。
周囲を町家に囲まれた、取り残されたような土地だった。雑草が伸び、古い井戸跡がある。井戸は蓋をされ、その上に割れた瓦が置かれている。空き地の奥には、何かがあった痕跡が残っていた。
石の台座だけがある。
祠はない。
台座の上には、黒い染みが広がっていた。
一条が足を止めた。
「ここだ」
声が低かった。
藤代が端末を見た。
「剥離反応、最大値。保管庫の核と同期しています」
女性職員が周囲に札を立て始める。藤代は黒い染みへ近づこうとしたが、朔が止めた。
「先に見ます」
「危険です」
「分かっています」
「分かっている人間は、そういう顔をしません」
一条と同じことを言われ、朔は少しだけ苦い気分になった。
「ここは、祖父が片づけ損ねた場所です。私が見ます」
藤代は反論しかけ、やめた。
「三十秒です。異常があれば引き戻します」
「構いません」
一条が朔の横に立った。
「俺も見る」
「危険だ」
「おまえに言われたくない」
「その言葉、便利だな」
「便利だから生き残る」
二人は石の台座の前に立った。
朔は手袋をはめる。右手ではなく左手を使う。右手で触れれば、黒い線が一気に伸びる予感があった。
台座に触れた。
冷たかった。
瞬間、空き地が消えた。
そこには、古い祠があった。
今よりずっと町家が少なく、空が広い時代。祠は小さいが、手入れされていた。前には木札があり、花も供えられている。誰の神かは分からない。だが、人々は通りすがりに頭を下げていた。
その神は、特定の役割を持たなかった。
道祖神でも、水神でも、商売の神でも、子どもの守り神でもない。
その場所に置かれたもの。
忘れられた小さな神々を受け止めるための祠。
朔は、理解した。
ここは、終わりそこねた神を一時的に預ける場所だったのだ。
役目を終えた祠から移された木札。
誰も呼ばなくなった小神の名前。
廃された井戸の水神の残り香。
取り壊された家の家守神の札。
市場の端から持ち込まれた商いの神の欠片。
それらが、ここに集められていた。
供養というより、避難所に近い。
だが、避難所は、長く続けば別のものになる。
名前を失いかけた神々が、ここに集まった。
呼ばれなくなったものたちが、ここで互いの声を聞いた。
誰かに呼ばれたい。
終わりたくない。
忘れられたくない。
声は、少しずつ重なった。
個々の神ではなくなっていく。
名前を失ったものたちの、集合した渇きになる。
名をくれ。
呼んでくれ。
返してくれ。
終わらせるな。
それが、名喰いの始まりだった。
記憶が進む。
若い頃の祖父がいた。
今の朔が知る老人ではない。背筋が伸び、目が鋭い。隣には一条がいる。今とほとんど変わらない姿だが、表情は硬い。
その前に、黒い影があった。
人の形ではない。
無数の木札が溶け合い、祈りの紙が腐り、鈴の音が絡まり、声だけが渦を巻いている。
名喰い。
祖父は帳簿を開いている。
だが、書けない。
名前がないからだ。
役割も一つではない。水を守るもの、家を守るもの、道を守るもの、子どもを守るもの、商いを守るもの。多すぎて、ひとつの記録にできない。
一条が白い紐を張る。
境界を作っている。
名喰いを町から切り離すために。
だが、名喰いは一条に呼びかける。
おまえもこちら側だ。
名を置いたもの。
呼ばれなくなったもの。
境界に立つだけのもの。
こちらへ来い。
一条の顔が歪む。
祖父が叫ぶ。
「聞くな!」
一条は紐を引いた。
名喰いの一部が裂け、黒い核となって祖父の帳簿へ吸い込まれる。残りは、空き地の台座に染み込み、町の中へ散った。
完全には封じられなかった。
祖父は膝をつき、帳簿を閉じた。
一条が言う。
「宗一郎、残ったぞ」
「分かってる」
「どうする」
「今はこれ以上無理や」
「また戻る」
「その時は、次の記録者が見る」
一条が怒ったように祖父を見る。
「朔に背負わせるつもりか」
祖父は答えなかった。
ただ、帳簿の表紙に手を置いた。
「背負わせたくない。けど、あの子は見るやろうな」
記憶が途切れた。
朔は空き地に戻った。
膝をついていた。左手が台座に触れている。一条が隣にいる。藤代の手が、朔の肩を掴んでいた。
「三条さん。三十秒を過ぎています」
朔は息を吸った。
胸が苦しい。
左手は冷えているが、右腕の黒い線は伸びていない。だが、頭の奥に名喰いの声が残っている。
「ここは、神の避難所だった」
朔は言った。
藤代が眉を寄せる。
「避難所?」
「終わりそこねた神、名を失いかけた神を、一時的に預ける場所。だが、集まりすぎた。名前を呼ばれたいものたちの声が重なって、名喰いになった」
一条は黙っていた。
記憶を一緒に見たのだろう。彼の顔色は悪い。
「祖父は、名喰いの一部を封じた。残りはここに残った」
「保管庫の核と、この場所が繋がっている」
藤代が言った。
「はい。そして今、その両方が京都中の名を失いかけた神と繋がろうとしている」
その時、空き地の空気が震えた。
台座の黒い染みが広がる。
そこから、声が溢れた。
名前を返せ。
呼べ。
呼べ。
呼べ。
藤代の職員が張った札が、一枚ずつ黒く染まる。
遠くで、鐘のような音が鳴った。
いや、鐘ではない。町のあちこちにある小さな鈴、風鈴、寺の鐘、自転車のベル、店の呼び鈴。それらが同時に鳴っているようだった。
女性職員が端末を見て叫んだ。
「市内全域で剥離反応増大。道祖神系、水神系、縁結び系、学問神系、同時発生」
京都全体が、応え始めている。
名喰いの呼び声に。
朔は台座から手を離した。
「まずい」
一条が呟いた。
「何が起きる」
藤代が訊く。
「境界がほどける」
一条は空を見上げた。
「道が道でなくなる。水が水の役割を忘れる。縁が繋がり方を間違える。生きているものと、記憶の中のものが混ざる」
「止めるには」
「名喰いをここで切る」
藤代が即座に言った。
「保管庫の核を封止強化します」
「それだけでは足りない」
朔は台座を見た。
「ここに残った記憶を記録し直す必要があります」
「名前がない」
「だから、名前ではなく、存在したことを書く」
一条が朔を見た。
「無茶だ」
「祖父ができなかったことだ」
「だから無茶だと言っている」
「でも、祖父の時とは違う」
「何が違う」
朔は一条を見た。
「おまえがいる」
一条は言葉を失った。
「祖父の時、おまえは名喰いに呼ばれた。名を置いたものとして。だが、今のおまえには、一条という呼び名がある」
「それは本名じゃない」
「本名じゃなくても、呼ぶための名だ」
「それで縛るつもりか」
「違う。境界にする」
朔は記録帳を取り出した。
「名喰いを倒すことはできない。忘却そのものだからだ。なら、町へ溢れ出す前に、境界を作る。名を失ったものたちが、こちらへ来るための道ではなく、記録へ向かうための道を」
藤代が厳しい顔で言った。
「理屈としては危険です。あなたが全ての声の受け皿になる」
「受け皿にはなりません」
朔は祖父の手紙の言葉を思い出す。
「聞く。だが、住まわせない」
一条が小さく息を吐いた。
「宗一郎の言葉か」
「ああ」
「嫌なところで効いてくるな、あの爺さんは」
「同感だ」
名喰いの声が強くなる。
朔は記録帳を開いた。
書くべき名前はない。
だから、最初にこう書いた。
名不詳。
忘れられた神々の集合。
神名を失い、役割を失い、あるいは役割だけを残されたものたちの声。
黒い染みが、台座から伸びる。
一条が前に出た。
両手を広げる。空気に線が走る。見えない境界が、台座と町の間に立ち上がる。
彼の身体がさらに薄くなる。
朔は呼びかけそうになり、こらえた。
今、名を呼べば、名喰いがその道を使う。
呼ぶのは、最後の時だ。
朔は書き続けた。
水を守ろうとしたもの。
家を守ろうとしたもの。
道を示そうとしたもの。
子どもを見送ろうとしたもの。
商いの終わりに寄り添おうとしたもの。
縁を断ち、逃げる者を助けようとしたもの。
名前を忘れられたが、役割のすべてが悪意だったわけではない。
書くたびに、声が変わった。
怒りだけだったものの中から、別の音が聞こえ始める。
寒かった。
寂しかった。
呼ばれたかった。
終わり方が分からなかった。
自分が何だったのかを、誰かに覚えていてほしかった。
朔の右腕が冷える。
黒い線が少し伸びた。
藤代が札を配置し、女性職員が記録装置を起動する。制度は制度で、境界を補強している。祓うのではなく、広がりを止めるために。
朔は書いた。
これは祟りではなく、終われなかった記憶である。
ただし、記憶は人を壊すことがある。
ゆえに、町へ溢れさせず、記録へ移す。
台座の黒い染みが激しく揺れた。
名喰いの声が、一つにまとまる。
では、誰が呼ぶ。
朔の手が止まった。
誰が呼ぶ。
その問いは、朔に向けられていた。
名前のないものを、どう呼ぶのか。
祠の守りさん。
縁切りの神。
市場守市神。
このは。
朔は、これまでの神々を思い出した。
名前は、分類ではない。呼ぶためにある。
なら、名喰いを名喰いと呼ぶだけでは足りない。それは現象の名であって、彼らを呼ぶ名ではない。
一条が苦しげに言った。
「朔、早くしろ」
境界が崩れかけている。
藤代が叫ぶ。
「三条さん!」
朔は筆を握り直した。
そして、書いた。
忘れ名の神々。
それは正式な名ではない。
由緒ある神名でもない。
ただ、呼ぶための仮の名だった。
だが、黒い染みの動きが止まった。
名喰いの声が、わずかに揺らぐ。
忘れ名。
忘れ名。
忘れ名。
それは、神々が自分たちを確かめるような響きだった。
朔は声に出した。
「忘れ名の神々。あなたたちは、ここにいた。忘れられたまま終われず、名前を求めて町へ広がろうとした。だが、町を壊すことは、あなたたちが守ってきたものを壊すことだ」
黒い影が、台座の上で膨らむ。
そこには、無数の手のようなものがあった。木札の角、紙片、鈴の舌、祈りの紐。それらが絡まり、ひとつの黒い塊になっている。
「すべての名前は返せない」
朔は続けた。
「けれど、存在したことは記録する」
影が震えた。
その瞬間、一条の境界が破れた。
黒い影が、一条へ向かって流れ込む。
藤代が札を投げるが間に合わない。
朔は、今度はためらわなかった。
「一条!」
名を呼んだ。
声が空き地に響いた。
一条の身体が濃くなる。
同時に、黒い影がその名へ食いつく。
朔の右腕に激痛が走った。黒い線が肘を越え、上腕へ伸びる。
だが、朔は目を逸らさなかった。
一条が振り返る。
その目には、怒りと、諦めと、少しの安堵があった。
「呼ぶなと」
「必要だった」
「本当に、面倒だな」
「後で聞く」
「後があればな」
一条は両手を広げた。
彼の周囲に、境界が再び立ち上がる。
だが今度は、ただ遮る壁ではない。
朔が書いた「忘れ名の神々」という記録へ向かって、黒い影を流す道だった。
名喰いは一条を通ろうとする。
一条は、それを朔の記録へ逸らす。
朔は聞く。
だが、住まわせない。
藤代がすぐに理解した。
「記録媒体を補助します!」
彼は女性職員に指示を出し、空き地の周囲に白い紙を配置させる。そこに朔の記録を写し取る。制度の複製。管理ではなく、支えとしての記録。
黒い影は、少しずつ台座へ戻っていった。
完全には消えない。
それでいい。
忘却は消せない。
忘れられたものの声を、なかったことにはできない。
ただ、町を壊す道ではなく、記録へ向かう道を作る。
やがて、黒い染みは台座の上で小さくなった。
空き地の空気が、ゆっくりと軽くなる。
遠くで鳴っていた無数の鈴の音も、ひとつずつ止んでいく。
女性職員が端末を見た。
「市内剥離反応、低下。道祖神系、安定傾向。水神系も、数値が落ちています」
藤代は深く息を吐いた。
「一時的に、抑え込めた」
「一時的に、ですね」
朔は記録帳を閉じた。
右腕はひどく冷たい。黒い線は上腕の半ばまで伸びていた。隠しようがない。
一条は、台座の横に膝をついていた。
朔は駆け寄った。
名を呼びかけて、止める。
一条が薄く笑った。
「呼んでもいいぞ。今さらだ」
「……一条」
「はいはい」
応じる声は弱かったが、確かにあった。
朔は彼の腕を掴んだ。感触はある。だが、軽い。紙を掴んでいるようだった。
「戻るぞ」
「どこへ」
「事務所に決まっている」
「茶が渋い」
「淹れる前から文句を言うな」
一条は笑った。
しかし、その笑みは長く続かなかった。
彼の胸元に、黒い筋が一本走っていた。
名喰いが触れた痕だ。
藤代もそれに気づいた。
「一条氏の剥離が進んでいます」
「言われなくても分かる」
一条が答える。
だが、その声はかすれていた。
藤代は朔を見た。
「今日の処置で、市内全体の反応は下がりました。しかし、その分、名喰いの注意は一条氏に集中した可能性があります」
「つまり」
「次に狙われるのは、彼です」
朔は何も言わなかった。
分かっていた。
名喰いは、一条の名を聞いた。
境界としての一条を通ろうとした。
そして、朔がその名を呼ぶことも知った。
空き地の台座には、黒い染みがまだ残っている。完全には消えていない。
藤代が言った。
「保管庫の核も、完全には沈静化していません。今日の記録で一時的に道を変えただけです」
「最終的には、名喰いそのものと向き合う必要がある」
「はい」
一条が小さく言った。
「そして、俺を使う気だな」
藤代は即答しなかった。
その沈黙が、答えだった。
朔が藤代を睨む。
「違います」
藤代は静かに言った。
「使うのではなく、協力を求めるしかない。一条氏は、名喰いと町の間に境界を作れる唯一の存在です」
「つまり同じことです」
「そうかもしれません」
藤代は疲れた顔をしていた。
「それでも、他に方法がない」
朔は一条を支えたまま立ち上がった。
「方法は探します」
「時間はありません」
「それでも探します」
藤代は何か言いかけ、やめた。
空き地を出る頃、町は少しだけ元に戻っていた。
角で迷っていた女性は、スマートフォンを見直し、歩き出した。子どもが母親の手を引き、いつもの道はこちらだと言った。和菓子屋の女将からは、地蔵の呼び名を一つ思い出したというメールが届いた。
完全ではない。
だが、京都の輪郭は、かろうじて保たれている。
その代わり、一条の輪郭は薄くなった。
帰り道、朔は一条を呼ばなかった。
呼べば戻るかもしれない。
だが、呼ぶたびに名喰いは近づく。
隣を歩く一条は、何も言わなかった。
事務所に着くと、朔は帳簿を開いた。
ページは、すでに開いていた。
名喰いのページ。
そこに、新しい文字が浮かんでいた。
忘れ名の神々。
朔が今日書いた呼び名だった。
そして、その次のページ。
一条の名があるページ。
黒い塗り潰しが、さらに広がっていた。
名称欄だけではない。
余白にまで黒が滲んでいる。
朔は唇を噛んだ。
一条は文机の向かいに座り、薄く笑った。
「ずいぶん派手な染みだな」
「笑い事じゃない」
「笑わないと、怖くなる」
その言葉は、冗談ではなかった。
朔は筆を取った。
「何を書く」
一条が訊いた。
「今日の記録」
「俺のことも?」
「書く」
「まだ遺品じゃないぞ」
「知っている」
朔は帳簿に書いた。
忘れ名の神々。
御所南西、旧祠跡。
名を失った神々の集合記憶。
京都市内の神名剥離と呼応。
一条、境界を形成。記録者三条朔、仮称を与え、町への流出を一時的に抑制。
黒色残滓、完全消滅せず。
名喰いの注意、一条へ集中した可能性あり。
最後の一文を書く時、手が止まった。
一条が静かに見ている。
朔は、さらに書いた。
呼ぶための名は、縛るための名ではない。
この記録は、一条を固定するためではなく、彼がここにいたことを確認するためのものである。
一条が息を吐いた。
「恥ずかしいことを書くな」
「記録だ」
「なら、もっと事務的にしろ」
「無理だ」
「おまえ、開き直ったな」
朔は筆を置いた。
「ああ」
その返事に、一条は少し驚いたようだった。
夜が来た。
京都の町は、表向きにはいつも通りだった。店は灯りをつけ、人は食事をし、バスは遅れ、観光客はホテルへ戻る。だが、その下で、まだ名のないものたちが蠢いている。
名前を求めて。
終わり方を求めて。
忘れられないために。
朔は障子の外を見た。
雨は降っていない。けれど、空気は湿っている。
一条は畳の上で横になっていた。眠っているように見える。だが、時折、胸元の黒い筋がかすかに動く。
次に何が起きるか、朔には分かっていた。
名喰いは、京都全体を一度に呑むことを止められた。
ならば、次はもっと細い場所を狙う。
境界そのもの。
一条を。
朔は帳簿を閉じた。
その音は、夜の中でやけに大きく聞こえた。




