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京都あやかし遺品整理屋――忘れられた神様の死に方を片づけていたら、相棒の古い神まで遺品になりかけています  作者: 二条理|アコンプリス


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第八章 京都から神の名前が消える夜

 町が壊れる音は、必ずしも大きいとは限らない。

 建物が崩れる。火の手が上がる。人々が叫ぶ。そういう破壊なら、誰の目にも分かる。だが、もっと静かな壊れ方もある。

 道を曲がった瞬間、自分がどこへ向かっていたのか分からなくなる。

 いつも汲んでいた井戸の水を、なぜか飲む気になれなくなる。

 毎朝手を合わせていた小さな祠の前を、誰もが素通りする。

 母親が子どもの名を呼ぼうとして、ほんの一瞬だけ言葉に詰まる。

 それは災害ではない。

 事件とも呼びにくい。

 だから人は、自分の疲れのせいにする。

 年齢のせいにする。

 忙しさのせいにする。

 スマートフォンの見すぎだと笑う。

 町そのものの記憶が少しずつ剥がれているなど、誰も思わない。

 三条朔が最初の異変を知ったのは、保管庫から戻った翌朝だった。

 事務所の玄関先に、三通の封書が届いていた。郵便ではない。いずれも手渡しのように、引き戸の隙間に差し込まれていた。

 一通目は、近所の和菓子屋の女将からだった。

 店先の小さな地蔵に毎朝水を供えているのに、その地蔵が何のためにそこにあるのか急に思い出せなくなった、という相談だった。子どもの夜泣き封じだったような気もするし、火除けだったような気もする。夫に聞いても分からない。先代の頃からあったはずなのに、誰一人、名を覚えていない。

 二通目は、藤代からの緊急連絡だった。

 市内各所で神名剥離反応が急増。

 特に道祖神、水神、学問神、縁結び系小祠に集中。

 保管庫の名喰い核と同期反応あり。

 協力を求む。

 三通目には、差出人がなかった。

 古い半紙に、子どものような字で一行だけ書かれていた。

 だれかが、うちの神さんの名前を忘れた。

 朔は三通を文机に並べ、しばらく見つめていた。

 障子のそばで、一条が茶を飲むふりをしている。昨日よりは姿が濃い。けれど、完全に戻ったわけではない。指先や髪の端が、ときおり空気にほどける。

 呼べば戻る。

 呼べば見つかる。

 その危うい均衡の上で、一条はまだそこにいた。

「忙しくなるな」

 一条が言った。

「軽く言うな」

「重く言えば減るのか」

「減らない」

「なら軽く言った方がいい」

 朔は三通目の半紙を手に取った。紙は古い。だが、文字は新しい。墨ではなく、鉛筆のようなもので書かれている。

「子どもの字だと思うか」

「子どもが書いたとは限らない」

「神か」

「あるいは、神を覚えている最後の誰かだ」

 朔は右腕を押さえた。

 黒い線は肘の手前で止まっている。だが、昨日からずっと冷たい。血管の代わりに、夜の川が流れているようだった。

 保管庫で名喰いの核が反応したあと、京都全域で神名剥離が加速している。

 それは偶然ではない。

 名喰いは、一条の名を聞いた。朔の記録を足場にした。そして、保管庫に封じられた残滓たちと、町中の名を失いかけた神々を繋げ始めている。

 境界が揺らいでいるのだ。

 朔は地図を広げた。藤代が送ってきた反応地点の一覧を、赤鉛筆で印をつけていく。点は、京都の町の上にじわじわと増えた。

 上京の細い路地。

 東山の坂の途中。

 壬生の市場跡。

 堀川沿いの小さな橋。

 北野の外れ。

 伏見の古井戸。

 寺町の裏路地。

 鴨川へ続く小道。

 一条が地図を覗き込んだ。

「これは、道を作っているな」

「道?」

「点ではない。線だ」

 朔は赤い印を目で追った。

 確かに、ばらばらではない。京都の町を縫うように、何かが通っている。神社仏閣の主要な線ではない。観光地図に載るような道でもない。

 もっと古い。

 人が生活の中で使ってきた、名もない道。井戸と市場、地蔵と橋、路地の祠、公園、町内の境。それらを結ぶ見えない線。

「境界か」

 朔が呟くと、一条は目を細めた。

「人が町を区切る時、必ず何かを置く。道祖神、地蔵、祠、石、木、井戸。そこに名前があれば境界になる。名前が剥がれれば、境界はただの隙間になる」

「名喰いは、その隙間を通っている」

「そういうことだろうな」

 朔は地図の中心を見た。

 赤い線は、ひとつの場所へ向かっているように見えた。

 御所の南西。古い町家が密集する一角。大きな神社があるわけではない。だが、いくつかの古い通りが交差している場所だ。

「ここは?」

 一条は黙った。

 その沈黙で、朔は気づいた。

「知っているのか」

「昔、宗一郎と行った」

「名喰いの処置で?」

「ああ」

「そこに、何がある」

 一条は地図を見たまま、低く言った。

「何もない」

「何もない場所に向かっているのか」

「今は何もない。昔は、名前のない祠があった」

 名前のない祠。

 その言葉だけで、空気が冷えた。

「詳しく話せ」

「宗一郎が片づけ損ねた場所だ」

「祖父が?」

「完全には片づけられなかった。名喰いの一部は保管庫に封じた。だが、最初にそれが生まれた場所の記憶は、町の中に残った」

「だから今、そこへ戻ろうとしている」

「あるいは、そこから呼んでいる」

 朔は地図をたたんだ。

「行く」

 一条はため息をついた。

「言うと思った」

「止めるか」

「止めても行くだろう」

「分かっているなら話が早い」

「ただし、藤代も呼べ」

 朔は一条を見た。

「珍しいな」

「保管庫の核が動いている以上、あの男の情報は必要だ。それに、制度の犬にも役に立つ時はある」

「本人の前で言うなよ」

「言う」

 朔は藤代へ電話をかけた。

 数回の呼び出し音の後、すぐに繋がった。藤代の声には、明らかな疲労があった。

「三条さん。こちらから連絡しようとしていました」

「地図を見ました。剥離地点が一点に向かっている」

「こちらでも同様の分析です」

「中心は、御所南西の古い町内」

「はい。現在、当室の資料で照合中です」

「一条によると、そこは祖父が名喰いを処置し損ねた場所だそうです」

 電話の向こうで、短い沈黙があった。

「一条氏は、その記憶を保持しているのですか」

「一部は」

「分かりました。合流しましょう。現地近くに調査員を出していますが、既に複数の認識障害が発生しています」

「認識障害?」

「道に迷う、目的地を忘れる、同行者の名を一時的に思い出せなくなる。軽度ですが、広がっています」

 朔は一条を見た。

 彼は表情を消していた。

「時間がありませんね」

「はい。二十分後、烏丸二条の交差点付近で」

「分かりました」

 通話を切ると、一条が言った。

「朔」

「何だ」

「今日は、俺の名を必要以上に呼ぶな」

「努力する」

「努力では足りない」

「昨日、藤代に同じことを言われた」

「なら、二人分聞け」

 朔は鞄を肩にかけた。

 帳簿本体は持っていかない。代わりに、祖父の手紙の写しと、記録帳を入れる。黒色残滓の小瓶も置いていく。名喰いの反応を強める可能性があるからだ。

 出かける前、朔は文机の上に置かれた帳簿を見た。

 黒い表紙は、いつもより沈んで見える。

 中には、名喰いのページと、一条のページがある。

 持っていかないことで安全なのか。

 それとも、置いていくことで目を離すことになるのか。

 答えはない。

 朔は表紙に手を置いた。

「留守を頼む」

 一条が横から言った。

「帳簿に話しかけるな。返事されたら困る」

「返事するなら、それも記録する」

「だから危ないんだ」

 二人は事務所を出た。

 昼前の京都は、曇っていた。

 観光客はいつも通り歩いている。修学旅行生の集団が地図を見ながら笑い、外国人観光客がバス停の表示を確認し、会社員が急ぎ足で通り過ぎる。

 その中で、小さな異変が起きていた。

 寺町通へ向かうはずの女性が、交差点で立ち止まり、スマートフォンを見ながら首を傾げている。老夫婦が、さっきまで話していた店の名前を思い出せず、二人で困ったように笑っている。ランドセルを背負った子どもが、母親に向かって「いつもの道、どっちだっけ」と尋ねている。

 派手ではない。

 だが、確実に町の輪郭が緩んでいた。

 烏丸二条の交差点付近で、藤代が待っていた。

 今日はスーツの上に薄いコートを羽織っている。右腕には包帯のような白い布が巻かれていた。昨日、黒い煤に触れた痕だろう。隣には女性職員が一人、地図と端末を持っている。

 藤代は朔を見るなり、右腕に視線を落とした。

「進行は?」

「肘の手前で止まっています」

「痛みは」

「冷えだけです」

「十分問題です」

「あなたの腕は」

「こちらも問題です」

 一条が横から言った。

「問題だらけの集まりだな」

 藤代は一条を見た。

「あなたの輪郭も不安定です」

「見れば分かる」

「自己認識に異常は」

「ある。こんな奴らと一緒にいる自分が信じられない」

「冗談が言えるなら、まだ保っていますね」

「おまえも少し慣れてきたな」

 藤代は反応せず、地図を広げた。

「剥離反応は、この一帯に集中しています。ただし、中心地点に近づこうとした調査員が、三度同じ路地へ戻されました」

「迷わされている?」

「道祖神系の境界異常です。道を失うというより、道の意味が剥がれている。右に曲がる、左に曲がる、帰る、進む。そういう判断が曖昧になります」

 一条が言った。

「名が消えた道は、ただの線になる」

「対応策は」

 朔が訊くと、藤代は小さな紙を取り出した。そこには、現在地と目的地を書いた簡単な地図がある。

「地名ではなく、物理的な目印で辿ります。郵便ポスト、石垣、銅板の看板、格子戸、井戸跡。名称ではなく、形で認識する」

「名前を使わない」

「はい。名称に頼ると剥がされます」

 朔は頷いた。

 それは、名喰いに対する皮肉な対処だった。

 名前を守るために、今は名前を避ける。

 四人は歩き出した。

 烏丸通から一本入ると、空気が変わった。車の音が遠ざかり、古い町家が並ぶ路地に入る。格子戸、犬矢来、細い石畳、低い軒。観光地化された美しさではなく、生活に使われてきた古さが残っている。

 最初の異変は、角を曲がったところで起きた。

 女性職員が立ち止まった。

「すみません。今、どちらへ向かっていましたか」

 藤代がすぐに答える。

「正面の銅板看板、その先の赤い郵便ポスト」

「……はい」

 彼女はメモを確認し、頷いた。

 一条が低く言った。

「始まっている」

 次の角では、道端の地蔵の前に水がこぼれていた。

 誰かが供えようとしたのだろう。柄杓が倒れ、花立てには枯れかけた菊が刺さっている。地蔵の首元には、赤い前掛けがかけられていた。だが、そこに書かれていたはずの文字が黒く滲んでいる。

 朔は近づこうとした。

 一条が腕を掴む。

「今は触るな」

「分かっている」

「分かっていない顔だ」

「分析するな」

「分析しなくても分かる」

 朔は地蔵の前で手を合わせるだけにした。

 触れなくても、声は聞こえた。

 子どもの熱を冷ます。

 夜泣きを預かる。

 母親の不安を、少しだけ肩代わりする。

 そんな小さな役割が、黒く滲んでいる。

 藤代が記録用の端末を向けた。

「ここも剥離」

「記録してください」

 朔が言うと、藤代は頷いた。

「夜泣き封じ、子どもの熱除け系地蔵。名称不明。後で町内に聞き取りを」

 その言い方は、以前より少し変わっていた。

 危険度や管理番号より先に、役割を言った。

 朔は何も言わなかったが、藤代は気づいたように目を逸らした。

 先へ進む。

 路地は、同じ場所を繰り返しているように見えた。

 格子戸。

 石畳。

 植木鉢。

 古い看板。

 低い塀。

 小さな祠。

 京都には似た路地が多い。だが、それだけではない。目印にしていた赤い郵便ポストが、二度現れた。いや、同じ場所へ戻されたのかもしれない。

 藤代が地図に印をつける。

「やはり循環しています」

「道の名前を使うな」

 一条が言った。

「曲がり角にも名前がある。町内名も、通り名も使うな」

「では、どう進む」

「匂いだ」

 藤代が一条を見た。

「匂い?」

「古い祠の匂い。名前をなくした木札の匂い。おまえらには分からないだろうが」

 藤代は黙った。

 朔は一条を見た。

「案内できるか」

「できる。たぶん」

「たぶん?」

「俺も薄いからな」

 その言い方は軽かったが、内容は重かった。

 一条は路地の奥へ歩き出した。

 その背中は、陽の当たる場所に出ると透ける。影に入ると濃くなる。まるで、こちらの世界と向こう側を行き来しているようだった。

 朔はその後ろ姿を見失わないように歩いた。

 呼びたい。

 名を呼んで確かめたい。

 だが、今は呼ばない。

 呼ばずに見る。

 呼ばずに信じる。

 それが、朔にできる唯一のことだった。

 路地を三つ曲がり、古い石垣の横を抜けると、小さな空き地に出た。

 周囲を町家に囲まれた、取り残されたような土地だった。雑草が伸び、古い井戸跡がある。井戸は蓋をされ、その上に割れた瓦が置かれている。空き地の奥には、何かがあった痕跡が残っていた。

 石の台座だけがある。

 祠はない。

 台座の上には、黒い染みが広がっていた。

 一条が足を止めた。

「ここだ」

 声が低かった。

 藤代が端末を見た。

「剥離反応、最大値。保管庫の核と同期しています」

 女性職員が周囲に札を立て始める。藤代は黒い染みへ近づこうとしたが、朔が止めた。

「先に見ます」

「危険です」

「分かっています」

「分かっている人間は、そういう顔をしません」

 一条と同じことを言われ、朔は少しだけ苦い気分になった。

「ここは、祖父が片づけ損ねた場所です。私が見ます」

 藤代は反論しかけ、やめた。

「三十秒です。異常があれば引き戻します」

「構いません」

 一条が朔の横に立った。

「俺も見る」

「危険だ」

「おまえに言われたくない」

「その言葉、便利だな」

「便利だから生き残る」

 二人は石の台座の前に立った。

 朔は手袋をはめる。右手ではなく左手を使う。右手で触れれば、黒い線が一気に伸びる予感があった。

 台座に触れた。

 冷たかった。

 瞬間、空き地が消えた。

 そこには、古い祠があった。

 今よりずっと町家が少なく、空が広い時代。祠は小さいが、手入れされていた。前には木札があり、花も供えられている。誰の神かは分からない。だが、人々は通りすがりに頭を下げていた。

 その神は、特定の役割を持たなかった。

 道祖神でも、水神でも、商売の神でも、子どもの守り神でもない。

 その場所に置かれたもの。

 忘れられた小さな神々を受け止めるための祠。

 朔は、理解した。

 ここは、終わりそこねた神を一時的に預ける場所だったのだ。

 役目を終えた祠から移された木札。

 誰も呼ばなくなった小神の名前。

 廃された井戸の水神の残り香。

 取り壊された家の家守神の札。

 市場の端から持ち込まれた商いの神の欠片。

 それらが、ここに集められていた。

 供養というより、避難所に近い。

 だが、避難所は、長く続けば別のものになる。

 名前を失いかけた神々が、ここに集まった。

 呼ばれなくなったものたちが、ここで互いの声を聞いた。

 誰かに呼ばれたい。

 終わりたくない。

 忘れられたくない。

 声は、少しずつ重なった。

 個々の神ではなくなっていく。

 名前を失ったものたちの、集合した渇きになる。

 名をくれ。

 呼んでくれ。

 返してくれ。

 終わらせるな。

 それが、名喰いの始まりだった。

 記憶が進む。

 若い頃の祖父がいた。

 今の朔が知る老人ではない。背筋が伸び、目が鋭い。隣には一条がいる。今とほとんど変わらない姿だが、表情は硬い。

 その前に、黒い影があった。

 人の形ではない。

 無数の木札が溶け合い、祈りの紙が腐り、鈴の音が絡まり、声だけが渦を巻いている。

 名喰い。

 祖父は帳簿を開いている。

 だが、書けない。

 名前がないからだ。

 役割も一つではない。水を守るもの、家を守るもの、道を守るもの、子どもを守るもの、商いを守るもの。多すぎて、ひとつの記録にできない。

 一条が白い紐を張る。

 境界を作っている。

 名喰いを町から切り離すために。

 だが、名喰いは一条に呼びかける。

 おまえもこちら側だ。

 名を置いたもの。

 呼ばれなくなったもの。

 境界に立つだけのもの。

 こちらへ来い。

 一条の顔が歪む。

 祖父が叫ぶ。

「聞くな!」

 一条は紐を引いた。

 名喰いの一部が裂け、黒い核となって祖父の帳簿へ吸い込まれる。残りは、空き地の台座に染み込み、町の中へ散った。

 完全には封じられなかった。

 祖父は膝をつき、帳簿を閉じた。

 一条が言う。

「宗一郎、残ったぞ」

「分かってる」

「どうする」

「今はこれ以上無理や」

「また戻る」

「その時は、次の記録者が見る」

 一条が怒ったように祖父を見る。

「朔に背負わせるつもりか」

 祖父は答えなかった。

 ただ、帳簿の表紙に手を置いた。

「背負わせたくない。けど、あの子は見るやろうな」

 記憶が途切れた。

 朔は空き地に戻った。

 膝をついていた。左手が台座に触れている。一条が隣にいる。藤代の手が、朔の肩を掴んでいた。

「三条さん。三十秒を過ぎています」

 朔は息を吸った。

 胸が苦しい。

 左手は冷えているが、右腕の黒い線は伸びていない。だが、頭の奥に名喰いの声が残っている。

「ここは、神の避難所だった」

 朔は言った。

 藤代が眉を寄せる。

「避難所?」

「終わりそこねた神、名を失いかけた神を、一時的に預ける場所。だが、集まりすぎた。名前を呼ばれたいものたちの声が重なって、名喰いになった」

 一条は黙っていた。

 記憶を一緒に見たのだろう。彼の顔色は悪い。

「祖父は、名喰いの一部を封じた。残りはここに残った」

「保管庫の核と、この場所が繋がっている」

 藤代が言った。

「はい。そして今、その両方が京都中の名を失いかけた神と繋がろうとしている」

 その時、空き地の空気が震えた。

 台座の黒い染みが広がる。

 そこから、声が溢れた。

 名前を返せ。

 呼べ。

 呼べ。

 呼べ。

 藤代の職員が張った札が、一枚ずつ黒く染まる。

 遠くで、鐘のような音が鳴った。

 いや、鐘ではない。町のあちこちにある小さな鈴、風鈴、寺の鐘、自転車のベル、店の呼び鈴。それらが同時に鳴っているようだった。

 女性職員が端末を見て叫んだ。

「市内全域で剥離反応増大。道祖神系、水神系、縁結び系、学問神系、同時発生」

 京都全体が、応え始めている。

 名喰いの呼び声に。

 朔は台座から手を離した。

「まずい」

 一条が呟いた。

「何が起きる」

 藤代が訊く。

「境界がほどける」

 一条は空を見上げた。

「道が道でなくなる。水が水の役割を忘れる。縁が繋がり方を間違える。生きているものと、記憶の中のものが混ざる」

「止めるには」

「名喰いをここで切る」

 藤代が即座に言った。

「保管庫の核を封止強化します」

「それだけでは足りない」

 朔は台座を見た。

「ここに残った記憶を記録し直す必要があります」

「名前がない」

「だから、名前ではなく、存在したことを書く」

 一条が朔を見た。

「無茶だ」

「祖父ができなかったことだ」

「だから無茶だと言っている」

「でも、祖父の時とは違う」

「何が違う」

 朔は一条を見た。

「おまえがいる」

 一条は言葉を失った。

「祖父の時、おまえは名喰いに呼ばれた。名を置いたものとして。だが、今のおまえには、一条という呼び名がある」

「それは本名じゃない」

「本名じゃなくても、呼ぶための名だ」

「それで縛るつもりか」

「違う。境界にする」

 朔は記録帳を取り出した。

「名喰いを倒すことはできない。忘却そのものだからだ。なら、町へ溢れ出す前に、境界を作る。名を失ったものたちが、こちらへ来るための道ではなく、記録へ向かうための道を」

 藤代が厳しい顔で言った。

「理屈としては危険です。あなたが全ての声の受け皿になる」

「受け皿にはなりません」

 朔は祖父の手紙の言葉を思い出す。

「聞く。だが、住まわせない」

 一条が小さく息を吐いた。

「宗一郎の言葉か」

「ああ」

「嫌なところで効いてくるな、あの爺さんは」

「同感だ」

 名喰いの声が強くなる。

 朔は記録帳を開いた。

 書くべき名前はない。

 だから、最初にこう書いた。

 名不詳。

 忘れられた神々の集合。

 神名を失い、役割を失い、あるいは役割だけを残されたものたちの声。

 黒い染みが、台座から伸びる。

 一条が前に出た。

 両手を広げる。空気に線が走る。見えない境界が、台座と町の間に立ち上がる。

 彼の身体がさらに薄くなる。

 朔は呼びかけそうになり、こらえた。

 今、名を呼べば、名喰いがその道を使う。

 呼ぶのは、最後の時だ。

 朔は書き続けた。

 水を守ろうとしたもの。

 家を守ろうとしたもの。

 道を示そうとしたもの。

 子どもを見送ろうとしたもの。

 商いの終わりに寄り添おうとしたもの。

 縁を断ち、逃げる者を助けようとしたもの。

 名前を忘れられたが、役割のすべてが悪意だったわけではない。

 書くたびに、声が変わった。

 怒りだけだったものの中から、別の音が聞こえ始める。

 寒かった。

 寂しかった。

 呼ばれたかった。

 終わり方が分からなかった。

 自分が何だったのかを、誰かに覚えていてほしかった。

 朔の右腕が冷える。

 黒い線が少し伸びた。

 藤代が札を配置し、女性職員が記録装置を起動する。制度は制度で、境界を補強している。祓うのではなく、広がりを止めるために。

 朔は書いた。

 これは祟りではなく、終われなかった記憶である。

 ただし、記憶は人を壊すことがある。

 ゆえに、町へ溢れさせず、記録へ移す。

 台座の黒い染みが激しく揺れた。

 名喰いの声が、一つにまとまる。

 では、誰が呼ぶ。

 朔の手が止まった。

 誰が呼ぶ。

 その問いは、朔に向けられていた。

 名前のないものを、どう呼ぶのか。

 祠の守りさん。

 縁切りの神。

 市場守市神。

 このは。

 朔は、これまでの神々を思い出した。

 名前は、分類ではない。呼ぶためにある。

 なら、名喰いを名喰いと呼ぶだけでは足りない。それは現象の名であって、彼らを呼ぶ名ではない。

 一条が苦しげに言った。

「朔、早くしろ」

 境界が崩れかけている。

 藤代が叫ぶ。

「三条さん!」

 朔は筆を握り直した。

 そして、書いた。

 忘れ名の神々。

 それは正式な名ではない。

 由緒ある神名でもない。

 ただ、呼ぶための仮の名だった。

 だが、黒い染みの動きが止まった。

 名喰いの声が、わずかに揺らぐ。

 忘れ名。

 忘れ名。

 忘れ名。

 それは、神々が自分たちを確かめるような響きだった。

 朔は声に出した。

「忘れ名の神々。あなたたちは、ここにいた。忘れられたまま終われず、名前を求めて町へ広がろうとした。だが、町を壊すことは、あなたたちが守ってきたものを壊すことだ」

 黒い影が、台座の上で膨らむ。

 そこには、無数の手のようなものがあった。木札の角、紙片、鈴の舌、祈りの紐。それらが絡まり、ひとつの黒い塊になっている。

「すべての名前は返せない」

 朔は続けた。

「けれど、存在したことは記録する」

 影が震えた。

 その瞬間、一条の境界が破れた。

 黒い影が、一条へ向かって流れ込む。

 藤代が札を投げるが間に合わない。

 朔は、今度はためらわなかった。

「一条!」

 名を呼んだ。

 声が空き地に響いた。

 一条の身体が濃くなる。

 同時に、黒い影がその名へ食いつく。

 朔の右腕に激痛が走った。黒い線が肘を越え、上腕へ伸びる。

 だが、朔は目を逸らさなかった。

 一条が振り返る。

 その目には、怒りと、諦めと、少しの安堵があった。

「呼ぶなと」

「必要だった」

「本当に、面倒だな」

「後で聞く」

「後があればな」

 一条は両手を広げた。

 彼の周囲に、境界が再び立ち上がる。

 だが今度は、ただ遮る壁ではない。

 朔が書いた「忘れ名の神々」という記録へ向かって、黒い影を流す道だった。

 名喰いは一条を通ろうとする。

 一条は、それを朔の記録へ逸らす。

 朔は聞く。

 だが、住まわせない。

 藤代がすぐに理解した。

「記録媒体を補助します!」

 彼は女性職員に指示を出し、空き地の周囲に白い紙を配置させる。そこに朔の記録を写し取る。制度の複製。管理ではなく、支えとしての記録。

 黒い影は、少しずつ台座へ戻っていった。

 完全には消えない。

 それでいい。

 忘却は消せない。

 忘れられたものの声を、なかったことにはできない。

 ただ、町を壊す道ではなく、記録へ向かう道を作る。

 やがて、黒い染みは台座の上で小さくなった。

 空き地の空気が、ゆっくりと軽くなる。

 遠くで鳴っていた無数の鈴の音も、ひとつずつ止んでいく。

 女性職員が端末を見た。

「市内剥離反応、低下。道祖神系、安定傾向。水神系も、数値が落ちています」

 藤代は深く息を吐いた。

「一時的に、抑え込めた」

「一時的に、ですね」

 朔は記録帳を閉じた。

 右腕はひどく冷たい。黒い線は上腕の半ばまで伸びていた。隠しようがない。

 一条は、台座の横に膝をついていた。

 朔は駆け寄った。

 名を呼びかけて、止める。

 一条が薄く笑った。

「呼んでもいいぞ。今さらだ」

「……一条」

「はいはい」

 応じる声は弱かったが、確かにあった。

 朔は彼の腕を掴んだ。感触はある。だが、軽い。紙を掴んでいるようだった。

「戻るぞ」

「どこへ」

「事務所に決まっている」

「茶が渋い」

「淹れる前から文句を言うな」

 一条は笑った。

 しかし、その笑みは長く続かなかった。

 彼の胸元に、黒い筋が一本走っていた。

 名喰いが触れた痕だ。

 藤代もそれに気づいた。

「一条氏の剥離が進んでいます」

「言われなくても分かる」

 一条が答える。

 だが、その声はかすれていた。

 藤代は朔を見た。

「今日の処置で、市内全体の反応は下がりました。しかし、その分、名喰いの注意は一条氏に集中した可能性があります」

「つまり」

「次に狙われるのは、彼です」

 朔は何も言わなかった。

 分かっていた。

 名喰いは、一条の名を聞いた。

 境界としての一条を通ろうとした。

 そして、朔がその名を呼ぶことも知った。

 空き地の台座には、黒い染みがまだ残っている。完全には消えていない。

 藤代が言った。

「保管庫の核も、完全には沈静化していません。今日の記録で一時的に道を変えただけです」

「最終的には、名喰いそのものと向き合う必要がある」

「はい」

 一条が小さく言った。

「そして、俺を使う気だな」

 藤代は即答しなかった。

 その沈黙が、答えだった。

 朔が藤代を睨む。

「違います」

 藤代は静かに言った。

「使うのではなく、協力を求めるしかない。一条氏は、名喰いと町の間に境界を作れる唯一の存在です」

「つまり同じことです」

「そうかもしれません」

 藤代は疲れた顔をしていた。

「それでも、他に方法がない」

 朔は一条を支えたまま立ち上がった。

「方法は探します」

「時間はありません」

「それでも探します」

 藤代は何か言いかけ、やめた。

 空き地を出る頃、町は少しだけ元に戻っていた。

 角で迷っていた女性は、スマートフォンを見直し、歩き出した。子どもが母親の手を引き、いつもの道はこちらだと言った。和菓子屋の女将からは、地蔵の呼び名を一つ思い出したというメールが届いた。

 完全ではない。

 だが、京都の輪郭は、かろうじて保たれている。

 その代わり、一条の輪郭は薄くなった。

 帰り道、朔は一条を呼ばなかった。

 呼べば戻るかもしれない。

 だが、呼ぶたびに名喰いは近づく。

 隣を歩く一条は、何も言わなかった。

 事務所に着くと、朔は帳簿を開いた。

 ページは、すでに開いていた。

 名喰いのページ。

 そこに、新しい文字が浮かんでいた。

 忘れ名の神々。

 朔が今日書いた呼び名だった。

 そして、その次のページ。

 一条の名があるページ。

 黒い塗り潰しが、さらに広がっていた。

 名称欄だけではない。

 余白にまで黒が滲んでいる。

 朔は唇を噛んだ。

 一条は文机の向かいに座り、薄く笑った。

「ずいぶん派手な染みだな」

「笑い事じゃない」

「笑わないと、怖くなる」

 その言葉は、冗談ではなかった。

 朔は筆を取った。

「何を書く」

 一条が訊いた。

「今日の記録」

「俺のことも?」

「書く」

「まだ遺品じゃないぞ」

「知っている」

 朔は帳簿に書いた。

 忘れ名の神々。

 御所南西、旧祠跡。

 名を失った神々の集合記憶。

 京都市内の神名剥離と呼応。

 一条、境界を形成。記録者三条朔、仮称を与え、町への流出を一時的に抑制。

 黒色残滓、完全消滅せず。

 名喰いの注意、一条へ集中した可能性あり。

 最後の一文を書く時、手が止まった。

 一条が静かに見ている。

 朔は、さらに書いた。

 呼ぶための名は、縛るための名ではない。

 この記録は、一条を固定するためではなく、彼がここにいたことを確認するためのものである。

 一条が息を吐いた。

「恥ずかしいことを書くな」

「記録だ」

「なら、もっと事務的にしろ」

「無理だ」

「おまえ、開き直ったな」

 朔は筆を置いた。

「ああ」

 その返事に、一条は少し驚いたようだった。

 夜が来た。

 京都の町は、表向きにはいつも通りだった。店は灯りをつけ、人は食事をし、バスは遅れ、観光客はホテルへ戻る。だが、その下で、まだ名のないものたちが蠢いている。

 名前を求めて。

 終わり方を求めて。

 忘れられないために。

 朔は障子の外を見た。

 雨は降っていない。けれど、空気は湿っている。

 一条は畳の上で横になっていた。眠っているように見える。だが、時折、胸元の黒い筋がかすかに動く。

 次に何が起きるか、朔には分かっていた。

 名喰いは、京都全体を一度に呑むことを止められた。

 ならば、次はもっと細い場所を狙う。

 境界そのもの。

 一条を。

 朔は帳簿を閉じた。

 その音は、夜の中でやけに大きく聞こえた。



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