お玉
翌朝、目を覚ますと、母さんはもう家にいなかった。台所の水瓶の横で、プルンが木皿の水に浸かって、ぷるぷると揺れていた。
広場に行くと、収穫祭の準備のための大鍋に火が入っていた。
鍋をかき回しているのは、母さんの予備の前掛けをつけたゴブリンだった。
村の人たちは、遠巻きに見ていた。昨日の今日だ。無理もない。
女たちは井戸端で野菜を刻みながら、ちらちらと鍋のほうをうかがっている。
男たちは薪を運びながら、ガルドの背中から目を離さない。
それでも、井戸端から聞こえてくるひそひそ声は、昨日の悲鳴とは少し種類が違っていた。
「……案外、手際がいいわね」
「灰汁の取り方、マルタさんに習ったんですって」
「マルタさん。……本当に、鍋を任せるのかね」
村長が、声をひそめて言った。
「ガルドさんよ。手はちゃんと洗ってるわ」
村長は何か言いかけて、やめた。昨日に続いて、二回目だった。
実際、ガルドの手はきれいだった。朝いちばんに母さんに井戸へ連れていかれて、爪の間まで洗わされていたのを、俺は見ている。
鍋のそばでは、ピムがつまみ食いをしようと、そろそろと手を伸ばしていた。
昨日、悲鳴をあげて逃げていったのと同じ子どもとは思えない。子どもの順応は早い。
「……鍋に、指を入れるな」
ガルドが低い声で言うと、ピムはびくりと手を引っこめた。
それから、ガルドはお玉で少しだけスープをすくって、小さな木の椀に入れて、ピムに渡した。
「熱い。吹いて、飲め。座って」
ピムは地面に座って、ふうふうと吹いてから飲んだ。
ガルドの言い方は、母さんにそっくりだった。
昨日、この子に「まものをやっつける」と約束したのは俺だ。その魔物が、この子にスープを飲ませている。
*
昼前に、トマスじいさんがやってきた。
荷車を引いていた。荷台には、土のついたカブが山のように積まれていた。
「……どうせ入れるなら、うちのカブを使え」
じいさんは、ガルドの顔を見ないまま言った。
「去年やられた分は、今年ちゃんと育てたんだ。うまいぞ」
ガルドはお玉を置いて、じいさんに向き直った。それから、昨日、母さんにしたのと同じように、深く頭を下げた。
じいさんは「ふん」と鼻を鳴らして、カブを下ろしはじめた。ガルドがそれを手伝った。二人とも、ひと言もしゃべらなかった。
ダグさんが薪を置きに来て、その光景を見て、また笑っていた。
「おいリオ。お前の獲物、炊き出しやってるぞ」
「見ればわかるよ」
スープができあがると、母さんが声を張った。
「はーい、食べる前は手を洗ってねー」
井戸の前に、列ができた。村長。ダグさん。トマスじいさん。ピム。畑の男たち。
その列の最後尾に、前掛けをつけたままのガルドが、神妙な顔で並んでいた。
手を洗い終えた人から、鍋の前に並び直す。母さんは俺を手招きした。
「リオ、お椀配るの手伝って」
断る理由は見つからなかった。俺は鍋の横に立って、ガルドがよそったスープを、並んだ村の人たちに順番に手渡した。
勇者と中ボスが、並んでスープを配っていた。オープニングムービーのどのカットにも、こんな絵はない。
昼すぎに、ギルドの受付の男が、椀を持って炊き出しに来た。
男は鍋の前で立ち止まった。ガルドを見た。それから、手に持っていた紙を見た。出張所の掲示板から剥がしてきたらしい、一枚の依頼書。
〈南の森 痩せたゴブリン一体の目撃情報あり 討伐報酬 銅貨二十枚〉
男は、もう一度ガルドを見た。ガルドは、男の椀にスープをよそった。カブが多めだった。
男は何か言いかけて、やめた。
それから、依頼書の隅に小さく「解決済み」と書いて、懐にしまった。
「……討伐依頼、月に三枚しか来ないんだけどな」
男は誰に言うでもなくつぶやいて、スープをすすった。うまかったらしく、黙っておかわりの列に並び直した。
*
配り終えて一息ついたころ、ガルドが黙って椀にスープをよそって、俺に差し出した。
「食え。座って」
受け取って、広場の端に座った。ゴブリンに、座って食えと言われた。
スープには、トマスじいさんのカブがたっぷり入っていた。うまかった。
食べ終えてから、ステータスを開いた。
【リオ 勇者(未覚醒) Lv.1 EXP 0/30】
一日たっても、数字はひとつも動いていない。当たり前だ。何も倒していないのだから。
【ヒント:レベルが上がらないときは、弱い敵から倒してみましょう】
その弱い敵なら、今朝も台所の水瓶の横で、プルンという名前で寝ている。
隣の枠には、鍋をかき回すガルドのステータスが出ていた。
【ガルド ゴブリン Lv.8 HP 58/96】
HPが、五十八まで戻っていた。昨日の昼は十一だった。スープと、一晩の毛布で。
鍋の向こうで、赤茶の三つ編みが揺れていた。母さんが、ピムの口のまわりを手ぬぐいで拭いている。
【マルタ 村人 Lv.1 スキル:なし】
表示は、昨日から一文字も変わっていない。変わったのは、まわりのほうだけだった。
本来ならこの男は、三年後、棍棒を持って俺の前に立ちはだかるはずだった。
今は、お玉を持って鍋の前に立っている。
◆
【人材開発課 週次報告】
報告者:魔王軍人事局 人材開発課 係長 モルグ
案件:幹部候補ガルド(元ゴブリン族長)の勧誘について
経過:
対象は先月、族長の座を追われ、南の森で単独で潜伏していた。
飢餓状態にあり、近隣の人間の村落を襲撃する見込みが高かった。襲撃が撃退されれば、人間への敵意は十分に熟す。その時点で接触し、勧誘する計画であった。
現状:
予定日に現地を確認したところ、襲撃の形跡はなかった。
対象は、当該村落の広場で鍋をかき回していた。
手は清潔であった。
補足:
対象のそばに、人間の女が一名いた。村人。戦闘能力は認められない。関与の度合いは不明。
また、近隣の魔物のあいだで、当該村落の「炊き出し」なるものの噂が広まりつつある。
所見:
原因を調査中。
追記:
鍋の中身は、なかなか良い匂いがした。




