四文字
その夜の夕食は、三人と一匹だった。
鍋いっぱいの、豆と根菜のスープ。黒パン。昼に食べきれなかったチーズの残り。
テーブルの端では、スライムが水を張った木皿の中でぷるぷるしている。
「この子、名前どうしましょうか」
母さんがスライムをつつきながら言った。
「……スライムでいいだろ」
「だめよ。それは種類でしょう。リオだって、人間って呼ばれたら嫌でしょう」
別に嫌ではない。が、黙っておいた。
「ぷるぷるしてるから、プルンちゃん」
その瞬間、視界の枠が小さく瞬いた。
【スライム(プルン) Lv.1】
表示が、変わった。
俺はしばらく、その括弧の中の三文字を見つめていた。
マスターデータに、スライムの個体名を入れる欄はない。何百匹湧いても、スライムは全部同じスライムだ。
その欄のないところに、名前が入っていた。
「はい、じゃあ食べましょう。大地の恵みに感謝を」
「大地の恵みに感謝を」
「……だいちの、めぐみに、かんしゃを」
ガルドは、昼よりも少しだけ滑らかに言えるようになっていた。
スープをひと口すすって、ガルドは動きを止めた。それから、もうひと口。もうひと口。
「ガルドさん、何が好き?」
母さんが聞いた。
「……キノコ。森の、赤い傘の」
「じゃあ、収穫祭にはキノコのスープも作りましょうね」
赤い傘のキノコは、ゲームでは毒キノコとして配置していた。食べるとHPが減る。ゴブリンにとっては好物だったらしい。
スープをすすりながら、ガルドがテーブルに肘をついた。
俺も、ついていた。昼間の疲れで、体を支えるのが面倒だったのだ。
「二人とも、肘」
ガルドと俺は、同時に肘を引っこめた。
ガルドがちらりと俺を見た。俺もガルドを見た。何とも言えない連帯感が、テーブルの上を行き来した。
「おかわりは?」
母さんが聞くと、ガルドはしばらく迷ってから、空になった椀を両手で差し出した。
ゲームのガルドは、HPが減ると棍棒を振り回して暴れる仕様だった。
この家のガルドは、おかわりのとき、椀を両手で差し出す仕様らしい。
*
ガルドが先に納屋へ引き上げたあと、俺は皿を洗う母さんの背中に声をかけた。
「母さん。あいつは……」
「あいつ、じゃなくて、ガルドさん」
「ガルドさんは、本当は」
本当は三年後、チュートリアルの中ボスになって、棍棒を振り回して勇者に襲いかかる。そう言えるはずがなかった。
「本当は、なあに?」
「……なんでもない」
母さんは皿を拭きながら、のんびりと言った。
「リオ。人は見かけによらないのよ」
「ゴブリンだよ」
「あら。ゴブリンも、見かけによらないわよ」
反論の言葉を探して、見つからなかった。俺は、見かけどおりに作ったのだ。
それから、母さんに毛布を持たされて、納屋へ行った。
ガルドは干し草の上に座って、小さな窓から月を見ていた。
「毛布。母さんから」
「……すまない」
ガルドは毛布を受け取って、膝にかけた。それから、ぽつりと言った。
「お前の母は、変わっている」
「知ってる。十五年見てきた」
「わしは二十年、群れの長をやった。人間も、何人も見てきた。あんな人間は、見たことがない」
「俺も、ないよ」
三十二年と十五年、合わせて四十七年生きてきて、見たことがない。
ガルドは、しばらく黙っていた。
「なぜ、あの石の前に出た」
答えられなかった。
合理的な理由を探した。ガルドがここで人間を憎めば、三年後の中ボスが生まれる。
村の近くに、人間を憎むゴブリンの群れができる。リスクの芽は、早めに摘むべきだ。
どれも、嘘ではなかった。どれも、あのとき考えたことではなかった。
話をそらしたくて、別のことを聞いた。
「群れの、若いのは」
「ザグ、という」
ガルドは、窓の外の月から目を離さずに言った。
「あいつは、わしより強い。腹も減っている。……人間の畑の味を、もう覚えかけている」
ザグ。その名前は、ゲームのどこにもなかった。
ガルドは、それ以上は話さなかった。俺も聞かなかった。代わりに、ガルドはもう一度、さっきの問いを繰り返した。
「なぜ、あの石の前に出た」
「……計算違いだ」
ガルドが、喉の奥で低く笑った。初めて聞く声だった。
「そうか。計算違いか」
*
自分の部屋に戻って、ベッドに寝転がった。
天井の梁のポチが、暗がりの中からこっちを見ていた。
ステータスを開く。
【リオ 勇者(未覚醒) Lv.1 EXP 0/30】
チャートを組み直さなければならない。
頭の中に、いつもの仕様書の書式で修正版を書き出してみた。
初週、レベル五到達。——延期。
二週目、北の洞窟攻略。——保留。
三日目、南の森のゴブリン討伐。——対象が納屋で就寝中のため、中止。
書き出してみると、ひどいものだった。前世なら、こんな修正案を出した時点で会議室の空気が凍っている。
考えなければいけないことは山ほどあった。
なのに、頭に浮かんだのは、封を切らなかったおにぎりのことだった。
〈ちゃんと食べてる?〉
既読のまま、止まったトーク画面。
四文字だった。「食べてる」。それだけ返せばよかった。十秒もかからなかった。
その十秒を、俺は明日の朝に回して、明日の朝は来なかった。
返信先は、もうどこにもない。
扉が、こんこんと鳴った。
「リオ、起きてる?」
母さんが、湯気の立つ木の椀を持って入ってきた。薬草茶の、温かいほうだった。
三つ編みをほどいた赤茶の髪が、寝間着の肩にかかっていた。
「今日はお疲れさま」
椀を俺の手に持たせて、母さんは、俺と同じ緑の目で、俺の顔をのぞき込んだ。
「ちゃんと食べた?」
喉の奥が、また詰まった。
今度は、詰まったまま、押し出した。
「……食べたよ」
四文字だった。
「そう。よかった」
母さんはそれだけ言って、おやすみ、と扉を閉めた。
薬草茶は、少し苦くて、温かかった。
嘘じゃなかった。今日は、ちゃんと食べた。昼に黒パンを半分。夜にスープを二杯。




