獲得経験値:0
黒パン二つと干し肉とゆで卵三つを平らげてから、ガルドはぽつぽつと話しはじめた。
二十年、南の森のゴブリンの群れの長をやってきたこと。先月、群れの若いのに長の座を追われたこと。
「若いのは、人間の村を襲いたがった。畑にも、家畜にも、手を出したがった。わしは止めた。人間に手を出せば、いずれ人間が森に来る。群れが狩られる」
「だから、追い出されたのね」
「……年寄りの言うことは、聞かれんものだ」
ガルドは、自分の欠けた耳にそっと触れた。追い出されたときの傷かもしれない、と思った。
腹を空かせた群れに、我慢しろと言い続けた。冬には木の根を掘って食わせた。二十年、それで持った。
今年の夏は、持たなかった。ガルドは、そういうことを、淡々と話した。
母さんは黙って聞いていた。ときどき「大変だったわねえ」と相づちを打って、空いた椀に薬草茶を足した。
「それから、三日、何も食べていない」
そして、ガルドは言った。
「今夜……人間の村の畑を、荒らすつもりだった」
背中が冷たくなった。
人間に手を出すなと群れを止めた男が、飢えて、今夜、人間の畑に手を出す。
その先は、見なくてもわかった。
畑を荒らせば、村の男たちに石を投げられて追い払われる。飢えて、傷ついて、人間を憎む。
人間に手を出すなと言った自分が、人間に追われる。群れに戻って、若いのを叩きのめして、長の座を取り返す。
今度は、人間の村を襲う群れの長として。
そして三年後、ゴブリン王ガルドとして、棍棒を持って勇者の前に立ちはだかる。
ガルドが人間を憎む理由を、俺は書いていなかった。
書いていなかったのに、ちゃんとあった。
*
視界の枠が、ガルドの上で揺れていた。
【ガルド ゴブリン Lv.8 HP 11/96】
HP、十一。
頭の中で、勝手に計算が走りはじめた。レベルデザイナーの頭は、止めようとしても止まらない。
チュートリアルで、プレイヤーに最初に教えることのひとつが「弱った敵は逃がすな」だ。
HPの減った敵は、回復される前に倒す。そういうふうに、俺が作った。
HP十一なら、今の俺の短剣でも二回、急所に入れば一回で足りる。ガルドは座っている。両手で椀を持っている。反応は遅れる。
Lv.8のゴブリンを撃破すれば、経験値は二百四十。レベル五まで一気に届く。初週のチャートが、一突きで終わる。
それだけじゃない。三年後のチュートリアルの中ボスが、ここで消える。村の近くに、人間を憎むゴブリンの群れが生まれることもなくなる。
合理的に考えれば、答えはひとつだった。
日に焼けた指で、短剣の柄を握り直した。
ガルドは、椀の底に残った薬草茶を、名残惜しそうにのぞき込んでいた。
母さんは、その口もとについたパンくずを、手ぬぐいで拭いてやっていた。
計算は合っていた。
合っていたのに、手が動かなかった。
ゴブリンだから、で十分だと思った。十五分で、そう書いた。書いたときと同じ理屈で、俺は今、目の前のこの年寄りを刺そうとしている。
「あら、それはだめよ」
母さんの声に、心臓が跳ねた。
見られた、と思った。短剣を握った手を、とっさに背中に隠した。
だが母さんは、俺のほうを見ていなかった。ガルドに向かって、行儀の悪い子どもを叱るくらいの調子で言っていた。
「畑はね、みんなが一年かけて育ててるんだから。荒らしちゃだめ」
「……すまない」
畑の話だった。俺は、そっと息を吐いた。背中に隠した短剣を、音を立てないように鞘に戻した。
ガルドは、しばらく母さんの顔を見ていた。それから、低い声で聞いた。
「なぜ、わしに食わせる」
「なぜって」
母さんは緑の目をまるくして、質問の意味がわからないという顔をした。
「お腹がすいてる人がいたら、食べさせるものでしょう」
理由になっていなかった。少なくとも、俺の知っている理由の形をしていなかった。
だが母さんの中では、それで話が完結しているらしかった。
十五年一緒に暮らしてきて、この人が「なぜ」に別の答えを返すのを、俺は聞いたことがない。
「その代わり、うちの村の炊き出しを手伝ってくれない? もうすぐ収穫祭でね、人手が足りないのよ。手伝ってくれたら、ご飯はちゃんと出るわ」
「母さん、村の人がゴブリンを入れるわけ——」
「大丈夫よ。この人、ちゃんと手を洗えるもの」
理屈になっていない。
なっていないのに、ガルドは地面に両手をついて、深々と頭を下げた。額が、苔に触れるくらいまで。
【戦闘が回避されました】
【獲得経験値:0】
目の前に浮かんだ文字を、俺はしばらく眺めていた。
【リオ 勇者(未覚醒) Lv.1 EXP 0/30】
【ヒント:敵を倒すと、経験値を獲得できます】
知ってる。そのヒント文を書いたのは俺だ。
ガルドの名前は、いつのまにか赤から白に変わっていた。
最短攻略チャート、初日の達成率、〇パーセント。
「リオ、あなたも食べなさい。朝、ちゃんと食べてなかったでしょう」
母さんが、ふっくらした手で残った黒パンを半分に割って、差し出した。
受け取って、かじった。朝、母さんが焼いたパンだ。いつもの味だった。
裾のスライムにも、母さんはパンくずを少し分けてやっていた。スライムはそれを体の中に取り込んで、ゆっくりと溶かしていた。
村に、ゴブリンを連れて帰る。
その意味を、母さんはたぶん、まったくわかっていない。わかっているはずの俺のほうは、なぜか止めきれなかった。




