それ、中ボスです
『アストラル・クロニクル』のチュートリアル、最初の中ボス。【ゴブリン王ガルド Lv.15】。
身の丈ほどもある棍棒を振り回し、「ニンゲン、コロス」と叫ぶ。
棍棒の三連撃のあとに二秒の硬直があって、そこを突くのが攻略法だ。
その二秒を一・五秒にするか二・五秒にするかで、俺は後輩と半日もめた。
設定欄は一行。〈人間を憎むゴブリンの王〉。
憎む理由は書いていない。ゴブリンだから、で十分だと思った。
そのガルドが、Lv.8で、痩せこけて、倒れている。
それでも、Lv.1の俺が勝てる相手じゃない。
ゲームの数値どおりなら、Lv.8のゴブリンの一撃は、今の俺の体力の半分を持っていく。二発で終わりだ。
母さんの前に出るべきだ。わかっている。わかっているのに、足が地面に貼りついたように動かない。
逃げ道を探した。窪地の左手の斜面なら、ゴブリンの足では登りにくい。母さんの手を引いて、斜面を上がって、村まで走る。籠は捨てる。
「母さん、下がって」
遅かった。母さんはもう、スライムを裾につけたまま、ガルドのそばにしゃがみ込んでいた。三つ編みの先が、苔の上に垂れている。
「あら。顔色悪いわね」
今朝、俺に言ったのとまったく同じ声だった。
「母さん」
自分でも驚くほど、平坦な声が出た。
「それ、中ボスです」
「ちゅうぼす?」
説明しようとして、言葉に詰まった。
中ボス。ステージの途中で道をふさぐ、プレイヤーの腕試し用の敵。三年後、この森の奥で勇者を待ち構える、最初の関門。
——どれも、この世界の言葉ではなかった。
十五年この村で暮らしたリオの語彙の中に、「中ボス」を言い換えられる単語はひとつもない。
母さんは緑の目をしばたたかせて首をかしげ、それから、ガルドの額に手を当てた。
「熱はないわね。お腹すいてるの?」
ガルドが、濁った黄色い目をゆっくりと開けた。
「……人間」
しゃがれた声だった。俺は短剣を構え直した。握った手のひらが、じっとりと濡れていた。
ガルドの目が、一瞬だけ俺の短剣に向いた。それから、興味を失ったように、俺の背中の籠のほうへ移った。
刃物を向けられることより、腹が減っていることのほうが、よほど重大らしかった。
「食い物を……持って、いるか」
ゲームのガルドはカタコトだった。カタコトにしたのは俺だ。そのほうがゴブリンらしいと思ったから。
目の前のガルドは、ゆっくりだが、ちゃんとした言葉を話していた。
「持ってるわよ。たくさん」
母さんはそう言ってから、ふと思いついたように首をかしげた。
「そうだ、お名前は?」
「……ガルド」
「ガルドさん。わたしはマルタ。この子はリオ。よろしくね」
ガルドは、何を言われたのかわからないという顔で、母さんを見上げていた。たぶん俺も、同じ顔をしていた。
「……名を、聞かれたのは、久しぶりだ」
ガルドが、かすれた声で言った。群れを追われてから、誰にも名前を呼ばれていなかったのかもしれない。
「リオ、籠おろして」
母さんに言われて、俺は籠をおろした。勇者が背負ってきた弁当が、中ボスの前に広げられていく。
ガルドが黒パンに手を伸ばした。泥と苔のこびりついた指で。
「待ちなさい」
ぴしゃりと、母さんが言った。
丸い顔から、いつもの笑みが消えていた。緑の目が、まっすぐにガルドの泥だらけの指を見ている。
ガルドの手が、空中で止まった。俺の体も止まった。
十五年間、食卓で何百回と聞いてきた声だった。
五歳の俺が泥だらけの手でパンをつかんだときも、十歳の俺が立ったままスープをすすったときも、この声だった。
体が勝手に背筋を伸ばす。
「食べる前は、手を洗うの」
母さんは水筒の水をガルドの両手にかけ、前掛けのポケットから出した手ぬぐいで、指の一本一本まで丁寧に拭いた。
爪の間の泥まで、手ぬぐいの角でかき出していく。ガルドは、されるがままになっていた。
その手ぬぐいの端には、へたくそな字で「リオ」と刺繍がしてある。
俺が七つのとき、なくさないようにと母さんが縫ったものだ。
俺の名前の入った手ぬぐいが今、中ボスの爪の泥をかき出している。
「それから、お祈り。大地の恵みに感謝を」
「……だいちの、めぐみに、かんしゃを」
「はい、どうぞ。座って食べなさい」
ガルドは座った。座って、黒パンにかぶりついた。
ものすごい勢いだった。噛むというより、飲み込んでいる。喉が詰まったのか、背中を丸めて咳き込んだ。母さんがその背中をさすった。
「ゆっくりでいいのよ。誰も取らないから」
ガルドは口いっぱいにパンを詰めたまま、何か言おうとした。
「口に物を入れたまま、しゃべらないの」
ガルドは口を閉じて、黙ってうなずいた。
チュートリアルで何かを教わっているのは、ボスのほうだった。
蓋つきの壺の中身は、水出しの薬草茶だった。母さんが朝から仕込んでいたらしい。
木の椀に注がれたそれを、ガルドは両手で包むようにして飲んだ。
飲み終えてから、しばらく椀の底を見つめていた。欠けた耳が、小さく震えていた。
「……うまい」
「でしょう。お母さんの自慢なの」
「ほら」母さんは三つ編みを揺らして俺を振り返り、目尻の笑いじわを深くした。「お友達、できたじゃない」
友達じゃない。中ボスだ。
視界の枠の中で、ガルドの名前はまだ赤く表示されていた。敵対を示す色だ。システムの上では、ガルドはまだ敵だった。
口の端に黒パンのくずをつけた、敵だった。




