北口
荷車の日の朝、ガルドと一緒に村を出た。
ガルドは、霜の回廊の見回り当番だ。俺は、母さんに弁当籠を背負わされていた。中身は、護衛の三人のぶんの「お疲れさま」だ。
「途中で荷車に会ったら、渡してあげて。帰りの道で、お腹がすくでしょう」
回廊までの道は、もう荷車の轍で踏み固められている。それでも、着いたのは昼過ぎだった。
いつもなら途中ですれ違うはずの荷車には、とうとう会わなかった。
松明に火を入れて、氷の通路を奥へ進む。奥の扉の前に、ユキが立っていた。
母さんが直した灰色のマントの襟が、今日もきちんと立っている。
「荷車は、まだだ」
ユキが言った。
「……いつもより、遅い」
ガルドが答えた。
ユキに北口の扉を開けてもらって、北の斜面を見下ろした。
雪の照り返しで、目が痛い。斜面の下に、森の黒い縁が見える。その手前の雪の中を、轍が一本、細く上ってきていた。
ガルドは扉の外に立って、尾根のほうを見ていた。先週から、北ばかり見ている。
風の中に、焚き火の匂いがかすかに混じっていた。斜面のどこかで、誰かが火を焚いている。
「あの煙は」
聞くと、ガルドは尾根から目を離さずに答えた。
「……あれらの火だ。湿った枝しか、拾えておらん」
煙が細いのは、そういうわけらしかった。
*
午後になって、轍の先に荷車が見えた。
荷車の並びは、いつもどおりだった。
ただ、御者台に、見慣れない人影が一つ乗っていた。
黒い外套に、うなじの上できっちりまとめた黒髪。背筋は、定規を当てたようにまっすぐだった。
揺れる荷車の上で、膝に手帳を広げている。
イレーネさんだった。
ギルド本部の、監査室の人だ。収穫祭の前に出張所を査察して、三か月の試行を決めていった。
三か月後に、また来ます。そう言って、乗合馬車で帰っていった。
その三か月は、とっくに過ぎていた。
荷台には、麦の袋が積んであった。王都で買いつけた、冬の食い扶持だ。
氷から出た十六人が村に住みついてから、村長はずっと帳面とにらめっこをしている。
荷車が、斜面の半ばまで上ってきたときだった。
雪の向こうから、影が湧いた。
一つや二つではなかった。岩の陰から、雪をかぶった灌木の下から、痩せた緑の背中が、斜面のあちこちで起きあがる。
ゴブリンだった。十いくつ。どれも、あばらが浮いている。
視界に、枠が並んだ。
【ゴブリン Lv.5】【ゴブリン Lv.4】……
名前は、どれも赤かった。
頭の中で、もう一枚、別の枠が開いた。前世で作った、ゲームの魔物図鑑の一ページだ。
〈ゴブリン:群れで街道に出て、荷車を襲う〉
ゴブリンという種族に、俺が一行だけ書いた説明だった。
一匹一匹のあばらが浮いていることを書いたのは、俺じゃない。
ゴブリンたちは、ベックさんたちには目もくれなかった。荷台の麦の袋に、まっすぐ群がっていく。
ベックさんが剣を抜いた。刃ではなく腹のほうで、袋に伸びた手を払う。
ロザさんは、ゴブリンの足もとの雪に、矢を立て続けに射こんでいた。一本も、体には当てていない。
荷台の後ろで、ニールさんが杖を掲げた。白い光が弾けて、何匹かが目を押さえてうずくまった。
俺は、扉の外に飛び出していた。何かできると思ったわけではない。体が先に動いた。
背中が、急に軽くなった。
振り返ると、若いゴブリンが二匹、俺の弁当籠を抱えて走っていくところだった。
もう一匹は、荷台から麦の袋を一つ、引きずりおろしている。
「待て——」
待つはずがなかった。三匹は、籠と袋を抱えたまま、斜面を転がるように駆け下りていった。
それを合図に、ほかのゴブリンたちも、いっせいに雪の陰へ引いていく。
気がつくと、ガルドが斜面の上を見上げていた。
尾根の上に、ゴブリンが一匹、立っていた。ほかの連中より、ひと回り大きい。右足を、わずかに引きずっている。
【ザグ ゴブリン Lv.14】
ザグは、下りてこなかった。荷車も、麦の袋も見ていなかった。ただ、扉の前のガルドを見下ろしていた。
やがて、尾根の向こうに消えた。
「……奪うのは、構わんのだ」
ガルドが、低く言った。
「あれの決まりではな。人間の飯を、もらうのが、いかん。誰の手を通ってきても、だ」
秋にチットは、「人間の飯を食った奴は、群れにいらない」と言っていた。
けれど、チットが追われたのは、炊き出し帰りのオオカミに、スープの残りを分けてもらったからだ。
食ったから、ではない。もらったからだ。奪っていたら、追われなかったのかもしれない。
「麦を、ひと袋……」
ベックさんが、荷台を見て舌打ちした。ニールさんは、杖を握ったまま、まだ肩で息をしている。
ロザさんだけが、ゴブリンたちの消えた斜面を、黙って見ていた。
荷車の上で、イレーネさんは、一度も御者台を降りていなかった。
膝の上の手帳に、ペンが走っていた。襲われているあいだも、たぶん、ずっと。
手帳を閉じると、イレーネさんは御者台から降りた。扉の前の俺に気づいて、小さく会釈する。
「ハルテ出張所の、Fランクの方ですね。ご無沙汰しています」
覚えられていた。たぶん、帳簿の数字と同じように。
イレーネさんは、鞄から分厚い本を取り出した。秋に出張所で見た、ギルドの規程集だ。
ページをめくる指は、少しも震えていなかった。
「規程第四十条」
雪の斜面に、事務的な声が通った。
「『護衛依頼の経路上で、護衛依頼の遂行が妨げられているときは、本部は、討伐依頼を発することができる』」
イレーネさんは、眼鏡を指で押しあげた。
「本部は、討伐依頼を発します」




