達成欄
その夜は、谷に泊めてもらうことになった。
焚き火の前に、俺とロザさんが残っていた。母さんは鍋の向こう側で、子どもたちの椀を洗っている。
ロザさんが、指を折っていた。
「十二枚。八枚払って、四枚残る」
俺が言った。
「これで、春を待たずに片づく」
ロザさんは、焚き火を見たまま言った。
俺は、口に出さなかった。護衛の取り分だけでも、あと三往復で片づく額だった。春までには、十分に間に合うはずだった。
「お薬代?」
鍋の向こうで、母さんが顔を上げていた。
椀を持ったまま、こちらを見ている。緑の目が、まるくなっていた。
俺が母さんに言わずにいたことは、それで終わりだった。
「ねえ、ロザちゃん。手袋のお金、村で少しなら」
「それは」
ロザさんが、母さんの言葉をさえぎった。さえぎってから、背筋を伸ばした。
「それは、あたしが払いたいんです」
母さんに話すときの、丁寧な声だった。
母さんは、緑の目をしばたたかせた。しばらく、ロザさんの顔を見ていた。
「……そう」
それだけ言って、母さんは腰の袋を探った。小さな布の包みを出して、ロザさんの手に握らせる。
「これは、お金じゃないから、いいわよね。熱が出たら、朝と晩に一杯ずつ」
ロザさんは、包みを見下ろした。
それから、受け取った。
ロザさんが払いたいのは、八枚の銀貨ではなくて、それを払った名前のほうなのだと思った。
母さんが鍋のほうへ戻っていくと、ロザさんは、包みを懐にしまいながら小さく息を吐いた。
「ずるいよ、あんたの母さん」
「……すみません」
「お金じゃないから、いいわよね、って。断れないじゃん」
怒っている声ではなかった。
しばらくして、ロザさんは立ちあがった。雪の上の山猫のところへ行って、しゃがみこむ。
刺さったままの矢を、一本ずつ、丁寧に抜いた。
それから、開いたままだった山猫の目を、指でそっと閉じた。
*
ハンナさんが、焚き火のそばに来た。手には、二杯目の椀を持っている。
「十二枚は、谷の五軒で出しあったんだ。毎年なら、冬の入りにベルダの冒険者が山の上で片づけて、それで済んでた。今年は、誰も来なかった」
ハンナさんは、雪の上に寝かせた山猫のほうを見た。
山猫の後ろ足に、古い噛み傷があった。もうふさがりかけている、何日か前の傷だ。
それから、母さんの横で丸くなっているギンを見た。
「最初の晩の、夜明け前だ」
ハンナさんは、椀を持ったまま言った。
「囲いの外で、そいつを見た。口のまわりが、赤かった。だから、そいつだと思った」
焚き火が、ぱちりと鳴った。
「……あれは、追ってたのかい」
ギンは、答えなかった。片方の耳を、少し動かしただけだった。
「ギンさん、えらいわねえ」
母さんが、ギンの頭を撫でた。何がえらいのかは、たぶん、わかっていなかった。
*
朝。
ハンナさんが、依頼票を広げた。出張所でホルストさんが書いたものを、ロザさんが懐に入れて持ってきていた。
いちばん下に、依頼主が署名する達成の欄がある。
ハンナさんは、ペンを持ったまま、手を止めていた。
見立ての欄に、「森オオカミ」と書いてある。組合で、ハンナさん自身が言ったとおりの言葉だ。
「依頼の対象は」
俺は、依頼票の一行目を指した。
「『羊を襲う魔物 一頭』です。森オオカミは、見立ての欄です」
前世で、仕様書を読むときの読み方だった。要件と想定は、別の欄に書く。想定が外れても、要件が満たされていれば、仕事は終わる。
ハンナさんは、俺を見た。
「……屁理屈だね」
そう言いながら、ペンを動かした。
「羊を襲ったやつは、あの子が射た。それで足りる」
達成の欄に、太い字で名前が入った。
ハンナさんは、三杯目の椀を受け取って、膝の上に肘をついた。
「肘」
母さんが言った。
ハンナさんは、一瞬、何を言われたのかわからない顔をした。それから、黙って肘をおろした。
母さんは、ギンの首を撫でていた。毛の薄い、ひとところを。
「ねえ、ハンナさん。羊の毛と、ギンさんたちの毛。まぜて編んだら、もっとあったかいんじゃないかしら」
ハンナさんの手が、止まった。
ギンの首を見た。毛の薄いところを。それから、母さんの膝の上で編みかけになっている、灰色の手袋を見た。
「……首の毛が薄いのは、そういうわけかい」
ハンナさんは、ギンを見て、それから母さんを見た。
「それは、売れるのかい」
頭の中で、オスカーの注文書がめくれた。手袋の注文は、また百組だった。
羊の毛の手袋より暖かくて、オオカミの毛だけの手袋より安い糸。
たぶん、売れる。
俺は、口には出さなかった。勘定は、ハンナさんのほうが速そうだった。
昼前に、谷を出た。
出がけに、ハンナさんが、白い羊毛をひと束、母さんの背負子に押しこんだ。
「試しにだよ。売れなかったら、返しな」
谷の入り口まで、子どもたちがついてきた。ハンナさんの孫が、俺の手に何かを押しつけて、走って戻っていった。
羊の乳で作ったチーズが、ひとかけ。ハルテの丘の羊飼いの少年にもらったのと、同じものだった。
帰り道、ギンは母さんの横を歩いていた。
来たときより、少しだけ首を高くして。




