囲いの夜
谷の入り口に駆け戻ったときには、日が傾きかけていた。
鍋のまわりに、人がいた。
最初は子どもだったらしい。鍋の前に、小さいのが五、六人しゃがんでいる。
その後ろに、袖を引かれてきたらしい大人たちが、気まずそうに立っていた。何人かは、もう椀を持っている。
母さんは、一人ずつ手を洗わせていた。雪を溶かした湯の桶で。
「はい。大地の恵みに感謝を」
「……大地の、恵みに、感謝を」
ギンは鍋の横で、子どもたちに背中を撫でられていた。肩の布には、誰も触らなかった。
子どもたちの中に、ハンナさんの孫だという男の子がいた。
いちばん小さい子に椀を持たせてやりながら、自分のぶんはあとまわしにしている。
母さんは、鍋の番をしながら、家から持ってきた編みかけの灰色の手袋を膝にのせていた。
ハンナさんだけが、いなかった。
見回すと、いちばん大きな囲いの前に、ランタンを持って座りこんでいた。熊手を、膝の上に横たえている。
「ハンナさん」
声をかけたが、振り向かなかった。
「足跡が、こっちに向かってます。今夜、来るかもしれません」
「来たら、見てやるさ」
ハンナさんは、囲いの中の羊を見たまま言った。
「何が来るのかをね」
日が尾根に沈むと、ギンが、ふいに鍋のそばを離れた。
囲いの石垣の陰まで歩いていって、腹を雪につけて伏せる。耳を立てて、谷の奥のほうを見ていた。
子どもたちが呼んでも、戻ってこなかった。
*
暗くなると、ロザさんは囲いのまわりを一周した。
風の向きを確かめて、雪の上に指で線を引き、いちばん大きな囲いの風下に陣取った。石垣から、十歩ほど離れたところだ。
「ここなら、匂いが向こうに行かない」
俺は、ロザさんの隣にしゃがんだ。
「あんた、なんで岩場のこと知ってたの」
暗がりの中で、ロザさんが聞いた。
「……昔、聞いたことがあって」
「誰に」
答えられなかった。三十二年ぶんの前世と、一行の設定欄の話を、どこから始めればいいのかわからなかった。
「あんた、そういうの多いよね」
ロザさんは、それ以上は聞かなかった。矢筒から一本抜いて、指で羽根を整えた。
夜。
鍋の火が小さくなったころ、羊が騒ぎだした。
囲いの中で、いっせいに鳴く。石垣の向こうで、白い背中が押しあっている。
ハンナさんが立ちあがった。ランタンが揺れた。
「ばあちゃん!」
囲いの中から、子どもの声がした。ハンナさんの孫だ。日が暮れてから、羊を落ち着かせると言って、中に入っていった子だった。
石垣の上に、白いものが乗った。
雪の色をした、大きな猫だった。体の長さは、ギンと変わらない。尾が太く、耳の先に黒い房がある。
【雪山猫 Lv.9】
名前は、赤かった。
山猫は、石垣の上で一度だけ身を低くした。後ろ足の片方を、かばうように浮かせている。
その目は、羊を見ていなかった。羊のあいだに立ちすくんでいる、小さな影を見ていた。
考えるより先に、体が動いていた。
石垣を乗り越えて、子どもの前に飛びこむ。右手が、腰の短剣の柄に行った。
抜く間は、なかった。
山猫が、跳んだ。
胸に、重いものがぶつかった。爪が、胸当ての上を擦る。岩トカゲの鱗が、硬い音を立てた。
爪は、滑った。
Lv.1には釣り合わない、防御力四十八。それはこういうときのためにあったのかもしれない、と、雪の上に倒れながら思った。
山猫が、もう一度、前足を振りあげた。
そこへ、灰色の塊が横からぶつかった。
ギンだった。
収穫祭の麦束運びの競争で、若い男たちに半周の差をつけた足だ。年寄りとは思えない速さで、山猫の脇腹に食らいついている。
山猫が、身をよじってギンを振り払った。
その首の付け根に、矢が立った。
ロザさんだった。石垣の外、ランタンの明かりが届くぎりぎりのところで、もう二本目をつがえている。
山猫が、ロザさんのほうを向いた。
二本目が、その胸に吸いこまれた。
山猫は、雪の上に倒れた。それきり、動かなかった。
背中のほうで、小さな手が、俺の上着の裾をつかんでいた。震えていたが、どこにも傷はなさそうだった。
視界に、枠が開いた。
【ロザ 弓兵 Lv.11】
卵の洞窟で初めて見たときは、Lv.10だった。経験値は、ロザさんに入った。
秋から、討伐の仕事は一件もなかったはずだ。上がる手前で、ずっと止まっていたのだろう。
【ヒント:とどめを刺した者が、経験値を獲得します】
知ってる。
*
母さんが、駆けてきた。
ギンの肩から、また血がにじんでいた。母さんは前掛けの端を裂いて、ギンの肩に巻きつけた。
霜の回廊で、凍ったニールさんの手をくるんだときと、同じ手つきだった。
それから母さんは、俺の胸当てを見た。鱗の上に、白い筋が四本、走っていた。
母さんは何も言わずに、俺の頭を一度だけ撫でた。
そのあとで、母さんは、雪の上の山猫を見た。
しばらく、見ていた。
「……お腹、すいてたのね」
責める声ではなかった。
ロザさんが、それを聞いていた。弓をおろして、握りの革をほどいて、黙って巻き直しはじめた。
ハンナさんは、孫を抱きかかえたまま、ギンを見ていた。
ランタンの明かりの中で、ギンは肩に布を巻かれて、雪の上に座っていた。口のまわりが、少し赤かった。
ハンナさんが、立ちあがった。孫の手を引いて、鍋のほうへ歩いていく。
鍋の前に、どさりと座った。
「……一杯、もらえるかい」
「はい。その前に、手を洗ってね」
ハンナさんは、母さんの差し出した桶を、しばらく見ていた。
それから、両手を湯に沈めた。
視界の枠の中で、ハンナさんの名前が、白に変わった。




