東の谷
翌朝、荷車は北へ出ていった。手綱を引くのはベックさん、後ろを押すのはニールさん。
御者台の横は、空いていた。
俺たちは、東へ向かった。
尾根づたいの道を、四人で歩く。母さんと、俺と、ロザさん。それから、ギン。
ギンには、縄をつけていない。母さんの横を、母さんの歩幅に合わせて歩いている。
母さんは大鍋を背負子にくくりつけて担ぎ、俺は弁当籠を背負っていた。
村を出るとき、ロザさんは、母さんの横を歩くギンを見て、眉を寄せた。
「……連れてくるんだ」
「止められませんでした」
「だろうね」
尾根に出たところで、ガルドが傷を見て言ったことを、ロザさんに話した。オオカミの歯ではない。細い爪が四本。
「山猫ね」
ロザさんは、それだけ言った。疑う顔はしなかった。
しばらく行くと、ロザさんが歩みをゆるめた。俺も合わせた。母さんとギンの背中が、少し先になる。
「あんたの母さんに言った?」
「薬代のことは、言ってません」
「そう」
ロザさんは、懐から紙を二枚出した。一枚は、医者の書きつけ。もう一枚は、子どもの字で書かれた手紙だった。
「弟から。字、覚えたばっかりなんだ」
渡されて、読んだ。大きくて、少し傾いた字だった。
〈ロザねえさん。げんきです。にいさんが、またくすりをおくってくれました。ありがとうって、いってください〉
誰に、とは書いていなかった。書く必要がないのだろう。
ありがとうを言う相手が、一人ずれている。
既読のまま返さなかった、前世の最後のメッセージのことを、少しだけ思い出した。
「あたしのぶんも、兄さんの名前で届くから」
ロザさんは、軽く言った。手紙を受け取って、きちんと折りたたんだ。
「熱は、下がったんですよね。母さんの薬草で」
「下がったよ。三日で」
ロザさんは、前を歩く母さんの背中を見た。
「でも、また出る体なんだ。小さいころから。出たときに診てくれる医者がいないと、困る」
「薬代は」
「その医者に、秋まで出してもらってた薬のツケ。払えなかったら、医者を替えることになる。替えたら、また一から診てもらって、また一から払う」
卵の洞窟で聞いた「薬が高い」の続きは、そういうことだった。
*
昼過ぎ、尾根の肩を回りこむと、谷が開けた。
雪の斜面に、石を積んだ囲いがいくつも並んでいる。羊の声がした。谷の底に、家が五軒ほど。煙が上がっている。
谷の入り口に、人が集まっていた。
牧杖を持った男たち。熊手を握った女たち。
その真ん中から、一人の女が前に出てきた。
五十がらみだろう。日に焼けた顔に、太い腕。牧杖を、杖ではなく棒として握っている。
女の目が、ギンを見た。それから、ギンの首の、毛の薄いところを見た。
顔色が、変わった。
「そいつだ」
視界に、枠が開いた。
【ハンナ 羊飼い Lv.6】
名前が、赤くなっていた。
「組合の世話役の、ハンナだ。依頼を出したのは、うちだよ」
ハンナさんは、牧杖の先をギンに向けたまま、俺たちを順に見た。
「受けたのは、どっちだい」
「あたしです」
ロザさんが、一歩出た。
「で、その射るはずのやつを、連れてきたってのかい」
ハンナさんは、俺の背中の弁当籠と、母さんの大鍋を見た。
「あんたら、ハルテ村だろう。あんたらの手袋のせいで、羊の毛は買い叩かれた。ベルダの問屋は、もう前の値じゃ取らない」
牧杖の先が、少しだけ下がった。
「今度は、羊そのものだ」
言い返そうとして、言葉が出なかった。
秋に、出張所のカウンターでオスカーに値付け表を広げたのは、俺だった。羊の毛の手袋より暖かいと売りこんだのも、俺の口だった。
「……羊を襲ったのは、オオカミじゃありません」
やっと出てきたのは、それだった。
「肩の傷は、爪の跡です。山猫の」
「山猫?」
ハンナさんは、鼻で笑った。
「山猫は、山の上のもんだ。毎年、冬の入りに、ベルダの冒険者が片づけてる。里まで下りてきたなんて話、聞いたこともないね」
毎年、冬の入りに。
今年は、その冒険者が来ていない。そのことと、山猫が里まで下りてきたことを、ハンナさんはまだ結びつけていなかった。
「まずは、お昼にしましょう」
母さんが、背負子をおろした。
それから、牧杖を握ったままのハンナさんの前まで歩いていった。
「羊さん、何頭いなくなったの?」
ハンナさんは、虚を突かれた顔をした。
「……三頭だよ。この六日で」
ハンナさんは、囲いのほうを見た。
「夜のうちに、雪が足跡を埋めちまう。残ってたのは、最初の朝、明け方に囲いの外を走っていったオオカミの跡だけさ」
「まあ」
母さんの顔から、笑みが消えた。ハンナさんの手を、牧杖の上から両手で包んだ。
「それは、つらかったわね」
ハンナさんは、手を引っこめなかった。引っこめ方が、わからなかったのかもしれない。
六日で、三頭。ギンが納屋を空けたのは、最初の一晩だけだ。
それを、ここで言っても、魔物の村の身内の言い分にしかならない。俺は黙っていた。
谷の入り口の、少し開けた雪の上に、石を三つ並べる。鍋をのせる。背負ってきた薪に、火をつける。
誰も、手伝わなかった。誰も、近寄らなかった。熊手の先が、ずっとこちらを向いていた。
ギンは、雪に前足を突っこんで、片方ずつこすった。それから、鍋の横にきちんと座った。
熊手を持った女の一人が、それを見て、少しだけ熊手をおろした。
俺はロザさんに目配せをして、谷の奥へ向かった。
計画の続きだ。二本杉の岩場。
*
岩場は、谷のいちばん奥にあった。
杉が二本、並んで立っている。ゲームの画面で見たのと、同じ形だった。
ロザさんが、弓に矢をつがえたまま、先に立った。
杉の根もとに、雪を踏み荒らした跡がある。見上げると、太い枝の上に、白いものが引っかかっていた。
羊だった。半分だけ。
「木の上に、上げてる」
ロザさんが、低い声で言った。
湧き地点には、たしかに何かがいた。でも、今はいない。
ロザさんが、雪の上にしゃがんだ。足跡を、指でなぞる。丸くて、大きい。爪の跡は、ついていない。
新しい足跡は、岩場から谷を下っていた。
来た道のほう。囲いのほうへ。
ロザさんが、立ちあがった。矢をつがえたまま、谷の下のほうを見ている。
「今夜、来るね」
疑う声ではなかった。
湧き地点の読みは、外れていた。当たっていたのは、俺が設定欄に書いた一行のほうだった。
〈冬になると里に下り〉




