一頭
台所の戸を開けると、母さんはもう知っていた。
「おばあちゃんが、羊を?」
井戸端で聞いたらしい。噂は、俺より先に台所に着いていた。
俺は、出張所で写してきた依頼票の文面を読みあげた。対象。場所。見立て。報酬。
母さんは、最後まで黙って聞いていた。それから、笑った。
「おばあちゃんが、羊なんて取れるわけないじゃない。歯が何本残ってると思ってるのかしら」
かまどの前で、当の婆さんが片目を開けた。それから、また閉じた。
戸口に、ガルドが立っていた。俺の読みあげを、そこで聞いていたらしい。
「五日前の晩だそうだな」
「ホルストさんが、書きつけにそうあったって」
ガルドは、しばらく黙っていた。
「あの晩、婆さんは納屋に戻らなかった」
低い声だった。嘘をつけない男の声だ。
「戻ったのは、次の日の昼だ」
俺の中に、疑いがひとつ、落ちた。
母さんの中には、落ちなかったらしい。
「お散歩くらい、するわよ。おばあちゃんだって」
母さんは婆さんの顔をのぞきこんだ。
「ねえ。あの晩、どこに行ってたの」
婆さんは答えなかった。答える代わりに、首を少しだけ回して、台所の東の窓のほうを見た。
窓の外には、雪をかぶった尾根が見えるだけだった。
俺は、自分で反証を探した。
この村の羊は、一頭も減っていない。丘の上で羊飼いの少年が飼っている羊も、無事だ。
羊を襲うオオカミなら、まず目の前の村から狙うはずだ。
ただ、それはハルテの中でしか通じない理屈だった。
東の谷の羊飼いから見れば、魔物が手を洗って並ぶ村の、身内びいきの言い分でしかない。
「母さん、それ、討伐対象です」
言ってから、ひどい言い方だと思った。
母さんは、俺の手から写しを取った。指で文面をたどっていって、「魔物 一頭」のところで止まった。
「一頭、だなんて」
母さんは、かまどの前にしゃがみこんだ。
「……そういえば、まだお名前もなかったのね」
婆さんが、首をもたげた。
「灰色の年寄り、って書いてあるけど」
「灰色じゃないわよ。銀色よ」
母さんは、婆さんの背中の毛を撫でた。かまどの火を映して、毛の先が光っていた。
「ギンさん。ね、ギンさん」
視界に、枠が開いた。
【森オオカミ(ギン) Lv.4】
括弧の中に、名前が入った。
依頼票の見立ての欄には、入らない名前だった。
*
ガルドが、ギンの横にかがんだ。母さんが巻いた布を、太い指で器用にほどいていく。
「オオカミの歯ではない」
傷を、じっと見ていた。
「爪だ。細いのが、四本」
それからガルドは、ゆっくりと首を振った。
「ゴブリンでもない」
ガルドの肩から、ほんの少しだけ、力が抜けたように見えた。
何を考えていたのかは、聞かなくてもわかった。北の斜面の、あばらの浮いた群れのことだ。
ガルドは、それ以上何も言わずに、布を元どおりに巻き直した。
四本の、細い爪。
頭の中で、表が開いた。前世の仕事で、毎日のように眺めていた表だ。マップごとの、魔物の湧き設定。
東の谷。冬季のみ。一体。
〈冬になると里に下り、家畜をさらう雪の山猫〉
書いたのも、俺だ。
ゲームでは、冬の森は魔物の湧きが半分になる。その代わりに、冬の東の谷にだけ、一体置いた。冬のマップが寂しくならないように。
ベルダのギルドに冬だけ出る、序盤の小さな討伐依頼だった。
報酬も経験値も、たいしたことはない。プレイヤーが通りすがりに片づけていく、季節の飾りのような依頼だ。
この世界でも、毎年、誰かが片づけていたのだろう。仕事を探している冒険者が、この辺りにいくらでもいたころは。
今年は、いない。
仕事がなくて、みんな南へ下りた。ホルストさんの棒読みが、頭の中でもう一度聞こえた。
俺の計画は、すぐに決まった。
湧き地点は、谷の奥の、二本杉の岩場だ。それを知っているのは、この世界で俺だけのはずだった。
ロザさんと二人で、岩場に行く。山猫を見つけて、ロザさんが射る。
依頼の対象は、「羊を襲う魔物」だ。山猫を射れば、依頼は果たせる。
ギンは、村に置いていく。訴えた側の目には、さらさない。
静かに、片づける。
ごとん、と重い音がした。
顔を上げると、母さんが棚から大鍋をおろしていた。
「明日、お鍋を持っていかなくちゃ」
「……どこに」
「東の谷よ。羊さんがいなくなって、困ってるでしょう」
母さんは、鍋の底を布で拭きながら、ギンのほうを振り返った。
「ギンさんも一緒に、お見舞いよ」
「一緒に?」
「ギンさんだって、羊さんのこと、心配でしょう?」
理屈は、たぶん、どこかでつながっていた。どこでつながっているのかは、俺にはわからなかった。
静かに片づける計画の、いちばん大事な一行が、鍋と一緒に棚からおろされていた。
*
村長の家に、明日留守にすると知らせに行った。
話したのは母さんで、俺は後ろに立っていた。
「東の谷に、オオカミを連れて……」
村長は、何か言いかけて、やめた。
「……気をつけて」
代わりに出てきたのは、それだけだった。
その夜、寝る前に、納屋をのぞいた。
干し草の上で、ギンが丸くなっていた。肩の布は、ガルドが巻き直したままだ。
ギンは、首の薄いところを、後ろ足で一度だけ掻いた。
それから、目を閉じた。
明日、谷の人間が最初に見るのは、たぶん、そこだ。




