第十九条
カウンターの前に、ベックさんたちが残っていた。
三人とも、掲示板の一枚を見ていた。
「受けねえ」
最初に口を開いたのは、ベックさんだった。誰にも聞かれていないのに、そう言った。
「あの人の鍋に並んでるやつは、射れねえ」
あの人、というのが誰のことかは、聞かなくてもわかった。
卵の洞窟で、腹を空かせた三人に弁当と薬草を持たせて帰らせた人。霜の回廊で、凍ったニールさんの手を、オオカミの毛でくるんだ人。
ニールさんが、黙って右手を握ったり開いたりした。一度は手首まで凍った手だ。
回廊の扉の前で、弟の薬代と冬の仕事を理由に、俺に詰め寄ったのはベックさんだった。
そのベックさんが、十二枚を断っている。
ロザさんは、兄の横顔を見ていた。何も言わなかった。
「ベルダのギルドにも、貼ってあるそうだ」
ホルストさんが、羊飼いの置いていった書きつけを指で叩いた。
「最初に羊がやられたのは、五日前の晩だそうだ。受け手がいねえから、こっちに回ってきた。この冬、この辺りに残ってる冒険者は、お前さんたちだけだ。仕事がなくて、みんな南へ下りた」
そこでホルストさんは、俺のほうを一度だけ見た。Fランク、Lv.1。何も言わずに、目を戻した。
「氷から出た連中は、再登録の判が本部から戻ってねえ。木札が下りるまでは、一枚も受けられん」
仕事がなくて、みんな南へ下りた。
その仕事を消したのが何だったのかを、俺は知っている。毎朝、井戸の前で手を洗っている列だ。
「ここで受け手がつかなきゃ、組合は回廊の向こうに出し直すそうだ。王都のギルドにな」
「王都」
ロザさんが、短く繰り返した。
「十二枚なら、すぐ誰か来る。王都の連中は、ここの鍋のことなんか知らん」
知らない者が来て、見立ての欄のとおりの森オオカミを探す。首の毛が一か所薄い、灰色の年寄りを。
探すまでもない。毎朝、井戸の前に並んでいる。
「あたしが受ける」
ロザさんが言った。
ベックさんが、ロザさんを見た。
「隊の名で受けるなら、受注者は俺だ」
「あたしの名前で」
出張所の中が、静かになった。
ホルストさんは、掲示板からさっきの一枚をはがして、カウンターの上に置いた。
「討伐なら、Eランクでも一人で受けられる。お前さんの名前でな」
「これを三つやったら」
ロザさんは、依頼票から目を離さずに言った。
「護衛を、あたしの名前で受けられるんだよね」
ホルストさんが、少しだけ目を上げた。
「第十九条。『護衛依頼の受注者は、Dランク以上、または、自己の名における討伐依頼の達成三件を有する者に限る』」
いつもの、条文を読むときの棒読みだった。
「……知ってたのか」
「ずっと数えてた。ゼロから」
依頼票と金の勘定は、秋からずっとロザさんの役目だった。数えていないはずがなかった。
「秋は、手伝いの札で出してたがな」
ホルストさんは、掲示板のほうへ顎をしゃくった。荷車の護衛の依頼票は、今は「護衛」の札の下に貼ってある。
「回廊を越えて、王都の街道に出るようになってから、本部の決まりで護衛の札に移した。そっちは、受注者を選ぶ」
「Dに上がるのは」
「審査は、討伐の実績で見る。どっちの道も、討伐だ」
俺は、先週のカウンターを思い出していた。
〈受注者 ベック〉
ベックさんが報酬の袋を三つに分けたあと、ロザさんは、一度だけあの欄を見た。すぐに目をそらして、弓の握りの革を巻き直していた。
あれは、名前を見ていたのだ。自分の名前が書かれていない欄を。
ホルストさんが、ペンを取った。受注者の欄に、ゆっくりと書く。
〈受注者 ロザ〉
書き終えて、ホルストさんはロザさんの顔を見た。何か言いかけて、やめた。
ロザさんは、その欄を見ていた。先週よりも、ずっと長く。
それから依頼票を受け取って、きちんと四つに折った。懐の、医者の書きつけの隣にしまった。
「……好きにしろ」
ベックさんが言った。それだけ言って、出張所を出ていった。
ニールさんが、ロザさんと戸口を何度か見比べてから、ベックさんのあとを追った。
次の荷車は、明日の朝に出る。ロザさん抜きで。
一回休めば、その一往復ぶんの取り分は入らない。俺は気づいたが、口には出さなかった。
ロザさんが、気づいていないはずがなかった。
*
出張所を出たところで、ロザさんに追いついた。
「射るんですか。婆さんを」
ロザさんは、足を止めなかった。
「あたしが受けなきゃ、王都から誰か来る。そいつは、確かめないで射る」
「……確かめるんですね」
「確かめて、違ったら、違うやつを射る」
当たり前のことを言う声だった。
氷漬けの旅人たちを見たとき、最初に「氷から出したら、どうなるんだろう」と言ったのも、ロザさんだった。
それでいて、あのときも矢の向きは最後まで変えなかった。
「もし、婆さんだったら」
聞かずにいられなかった。
ロザさんは、しばらく黙って歩いた。
「そのときは、あたしの名前で射る」
雪を踏む音だけが、何歩か続いた。
「王都の、知らない誰かの名前じゃなくて」
「それと」
ロザさんは、広場の真ん中で振り返った。
「あんたの母さんには、あんたから言って」
俺は、家のほうを見た。
台所の煙突から、煙が上がっている。
言わなくても、たぶん、もう知っている。この村では、噂は井戸の水より早く回る。




