荷車の日、ふたたび
次の荷車の日の朝、台所に下りていくと、母さんが床に膝をついていた。
かまどの前で、森オオカミの婆さんが横になっている。母さんはその肩に、細く裂いた布を巻いていた。
「どうしたの」
「傷があったのよ。毛に隠れてて、今朝まで気がつかなかったの」
のぞきこむと、灰色の毛の下に、細い筋が何本か走っていた。血は、もう止まっている。
「木の枝に引っかけたのね。おばあちゃん、そそっかしいんだから」
婆さんは、母さんの膝に顎をのせて、おとなしくしていた。
毎朝、井戸の列に並んでいる年寄りだ。
ガルドが最初に「村で飯が出る」と話した相手で、その話を森じゅうに広めたのも、この婆さんだった。
布を巻き終えた母さんの手が、婆さんの首のあたりを撫でる。そこだけ、毛が薄い。
秋に、婆さんが自分でむしって持ってきた場所だ。
冬になってからも、婆さんは同じところから毛をむしっては、台所の戸口に置いていった。
おかげで、うちの毛糸の籠は、ひと冬じゅう灰色でいっぱいだった。
戸が開いて、ガルドが薪を抱えて入ってきた。
ガルドは、母さんの手元の布を見た。それから、婆さんを見た。太い眉が、少しだけ動いた。
ガルドは、婆さんの肩のあたりの匂いを、一度だけかいだ。それから薪をかまどの脇におろして、黙って納屋へ戻っていった。
夜になると、台所では今も糸車が回っている。
母さんの膝の上には、編みかけの灰色の手袋がある。指の長い、大きな手袋だ。
春の最初の満月までは、まだひと月以上ある。それでも母さんは、毎晩少しずつ編み進めていた。
*
前の荷車の日から、一週間がたった。
昼前、北の道から荷車が戻ってきた。
ベックさんが手綱を引き、ニールさんが後ろを押し、ロザさんが御者台の横を歩いている。先週と同じ並びだった。
出張所のカウンターで、ホルストさんが報酬の袋を出した。
「王都まで、一往復。護衛三人ぶん」
先週と一字一句同じ、棒読みだった。
ベックさんが、中身を三つに分ける。ロザさんの前に置かれたのは、銀貨三枚だった。
「先週の転入者、どうなった」
銀貨を革袋にしまいながら、ロザさんが聞いた。
「帰りました。春の最初の満月に、見回りの当番で来ます」
「当番」
「名簿に載ったので」
ロザさんは、俺の顔をしばらく見ていた。
「……あんたの村、変だよ」
「知ってます」
「それと、回廊の北の口。ゴブリンの足跡が増えてた。荷車のほうを、見てるみたいだった」
右だけ浅い足跡かどうかは、聞かなかった。聞かなくても、わかっていた。
ロザさんは、懐から小さな紙を出した。先週見せてもらった、ベルダの医者の書きつけだ。
カウンターのペンを借りて、紙の上の数字をひとつ、線で消す。その横に、新しい数字を書いた。
「八枚になった」
誰にともなく、ロザさんはそう言った。
弟の薬代の、残りのツケだ。先週は、十一枚だった。
そのことを、俺はまだ母さんに話していない。
弟の薬が高いことは、母さんも知っている。卵の洞窟で、ロザさんが自分で話したからだ。
知らないのは、残りの額と、春までという期限だけだ。
話せば、母さんは間違いなく出す。手袋の売り上げからでも、自分の財布からでも。それで、片づく。
片づいてしまう何かがあるような気がして、俺は黙っていた。
何が片づいてしまうのかは、自分でもまだ、よくわからなかった。
*
昼過ぎ、東の尾根の方角から、若い男が一人、雪を踏んでやってきた。
羊の毛の上着に、長い杖。羊飼いだ。
男は出張所に入ると、ホルストさんに封をした書きつけを渡して、何も言わずに帰っていった。
井戸の前で手を洗っている魔物たちの列からは、最後まで目をそらしていた。
ホルストさんは、書きつけを読んだ。二度、読んだ。
それから、引き出しから依頼票の束を出した。イレーネさんが送ってきた、新しい書式のものだ。
一枚抜いて、ペンを取る。書きつけの文面を、一行ずつ写していく。
途中で一度だけ、ペンが止まった。ホルストさんは書きつけと依頼票を見比べて、それからまた、同じ速さで書きはじめた。
書き終えると、ホルストさんは立ちあがって、掲示板の前に行った。
掲示板の上には、依頼の種類を示す札が並んでいる。討伐、採取、護衛、捜索。それから、母さんのせいで増えた、手伝い。
ホルストさんは、「討伐」の札の下に、その一枚を貼った。
そこに紙が貼られるのは、母さんの炊き出しが始まってから、初めてのことだった。
〈討伐 対象:羊を襲う魔物 一頭〉
〈場所:東の谷〉
〈見立て:森オオカミ。灰色の年寄りの個体。首のまわりの毛が、一か所薄い。足が速い。足跡は、ハルテ村の方角へ〉
〈討伐報酬:銀貨十二枚〉
〈依頼主:東の谷羊飼い組合 依頼主の種族:人間〉
種族の欄の横の「手洗い済み」の欄には、印がなかった。
「リオにいちゃん、それ、なんて書いてあるの」
いつのまにか、ピムが足もとに来ていた。鼻をすすりながら、掲示板を見上げている。毎朝ガルドの鍋からスープをもらっている子だ。
「……羊のことだよ」
それだけ答えた。ピムは「ふうん」と言って、井戸の列のほうへ駆けていった。
「ゼロと一は、帳簿の上じゃ大違いだ」
ホルストさんは、掲示板を見たまま、棒読みで言った。
「——と、前に言ったな」
言ったわりに、うれしそうな顔ではなかった。
俺は、依頼票の真ん中の一行を、もう一度読んだ。
〈首のまわりの毛が、一か所薄い〉
今朝の台所を思い出していた。
母さんが巻いていた、細く裂いた布。その少し上の、毛の薄いところ。
井戸のほうを見た。
手を洗う列の中ほどに、肩に布を巻いた灰色の背中が、おとなしく並んでいた。
さっきの羊飼いが、あの列から目をそらさずにいたら。そう思うと、背中が少し冷たくなった。




