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母さん、それ中ボスです。 〜天然の母が敵と全員仲良くなるので、勇者の俺に経験値が入りません〜  作者: 佐和井 泥
第5話 転入届

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出立

 朝、セヴランは村を出た。

 広場で、母さんが弁当の包みを渡した。布でくるんだ、四角い包みだ。中身は昨日の煮物の残りと、黒パンと、ゆで卵が二つ。

「途中で食べてね。それから」

 母さんは、セヴランの手袋の上から、包みごと両手で握った。

「当番、春の最初の満月よ。忘れないでね」

 セヴランは、握られた自分の手を見下ろしていた。

「……忘れません」

 そう言って、深く頭を下げた。

 出張所の戸口に、ロザさんが立っていた。弓を肩にかけて、腕を組んでいる。

 セヴランが通りすぎるのを、目だけで追っていた。

「あいつだよ。扉のところの」

 俺の横に来て、ロザさんは小声で言った。

「何だったの、あれ」

「……転入者です」

「転入者」

 ロザさんは、俺の顔をしばらく見ていた。それから、弓の握りの革を、黙って巻き直しはじめた。

 それ以上は、聞かれなかった。


   *


「わしが、回廊まで送る」

 ガルドが言った。斧(おの)を、背中に負っている。

「見回りの当番だ。ついでだ」

「俺も行く」

 俺も言った。母さんは何も聞かずに、俺の背中に弁当籠(べんとうかご)を背負わせた。

 回廊までの道は、もう荷車の轍(わだち)で踏み固められていた。

 セヴランは、ほとんど口をきかなかった。ガルドは、それ以上に口をきかなかった。俺は、二人のあいだを歩いた。

 しばらく歩いたところで、セヴランが、前を行くガルドの背中に声をかけた。

「見回りの報告は、どの書式で出せばよろしいか」

 ガルドは、振り返らなかった。

「ユキに声をかけて、帰ってくる」

「報告は」

「帰ってくるのが、報告だ」

 セヴランは、しばらく黙って歩いていた。それから外套(がいとう)の内側から手帳を出して、定規でも当てるように、何本か線を引いた。

 たぶん、書式を一枚、自分で作りはじめたのだと思う。

 一度だけ、セヴランが振り返った。

 丘の上の見張り塔が、木立のあいだから小さく見えていた。

「あの家の屋根は、春までもつだろうか」

 セヴランは、誰にともなく言った。

 攻める側が建物の傷みを確かめているのか、住む側が屋根の心配をしているのか。声からは、どちらとも取れなかった。

「……ダグさんに言えば、直してくれます」

 俺は、それだけ答えた。

 セヴランはうなずいて、また前を向いた。

 回廊の入り口に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。轍の道は遠回りでも、膝まで沈んだあの近道よりずっと早い。

 松明(たいまつ)に火を入れて、氷の通路を奥へ進む。氷の柱は、もうない。柱が立っていた丸い跡が、床に十七、残っている。

 奥の扉の前に、ユキが立っていた。

 氷でできた大きな体に、灰色の毛のマントを二枚重ねて着ている。襟は、母さんが直したとおりに立っていた。

「通られるか」

 ユキが言った。

「お願いします」

 セヴランは、帽子を取って、ユキに頭を下げた。

「二度も、お手数を」

「手数ではない。わしの役目だ」

 ガルドが、ユキを見上げた。

「春の最初の満月から、この男も見回りに来る。当番だ」

「……承知した」

 ユキは、セヴランを見て、それから腰の鍵を外した。

 鍵穴に差しこんで、回す。蝶番(ちょうつがい)には、母さんが届けた油がさしてある。扉は、前よりずっと軽い音で開いた。


   *


 扉の向こうは、北の斜面だった。

 雪の照り返しで、目が痛い。斜面の下のほうに、森の黒い縁が見える。

 その手前の雪の上に、影が並んでいた。

 ゴブリンだった。

 二十近くいる。どれも痩せていて、どれも、こちらを見ていた。

 尾根を越えてきたのだろう。荷車には越えられない雪でも、腹を空かせたゴブリンの足なら越えられる。

 その中から一匹だけ、前に出ている者がいた。

 ガルドより背が高く、肩の肉が盛りあがっている。

 右足を、わずかに引きずっていた。

 視界に、枠が開いた。

【ザグ ゴブリン Lv.14】

 名前は、深い赤だった。今まで見たどの赤よりも、濃い。

 設定欄を思い出そうとして、思い出すものが何もないことに気づいた。

 ザグという名前は、ゲームのどこにもない。俺が一行も書かなかった相手だ。

 知っていることは、全部この村で聞いた。

 ガルドが育てて、ガルドを群れから追い出したゴブリン。人間の飯を口にしたチットを、群れから追い出したゴブリン。

 右足の指が二本ないことも、知っている。北の道で、右だけ浅い足跡を見て、ガルドがこの名前を言い当てたからだ。


   *


 セヴランが、扉を抜けて、雪の上に出た。

 ザグの前まで歩いていって、立ち止まる。

 ゴブリンたちの後ろの木立に、もう一つ、黒い外套の端が見えた気がした。セヴランのものではない。

 ここで二人が会う手はずをつけた誰かが、そこにいるらしかった。

 ザグが、セヴランを見上げた。

 それから、セヴランの手元を見た。

 布の包み。母さんの弁当。

 ザグの鼻が、小さく動いた。煮物の匂いだ。人間の台所の、母さんの鍋の匂い。

 ザグは、包みに手を伸ばした。

 受け取るのかと思った。

 ザグは、包みを手の甲で払った。

 包みが、雪の上に落ちた。結び目がほどけて、黒パンが転がり、ゆで卵がひとつ、斜面を下っていった。

 煮物の汁が雪に染みて、茶色い跡になった。

 俺の隣で、ガルドは動かなかった。

 息も、していないように見えた。

 ザグが、顔を上げた。

 扉のほうを見た。

 俺ではなかった。ユキでもなかった。

 ザグは、ガルドを見ていた。

 長いあいだ、見ていた。

 何も言わなかった。ガルドも、何も言わなかった。

 雪の上を、風が一度だけ渡っていった。

 母さんの飯を受け取らなかった相手は、これまで一人もいなかった。

 ガルドも、洞窟の主も、ベックさんたちも、オスカーも。昨日のセヴランでさえ、正確に祈って、椀(わん)を空にした。

 最初の一人が、俺が一行も書かなかった相手だった。

 ザグの後ろに並んだゴブリンたちは、どれも、あばらが浮くほど痩せていた。冬は、まだ半分も過ぎていない。


   *


 セヴランは、雪の上の弁当を見下ろしていた。

 一度だけ。

 それから、帽子をかぶり直して、ザグと並んで斜面を下りはじめた。ゴブリンたちが、その後ろについていく。

 黒い外套と、緑の背中の列が、森の縁に吸いこまれていった。

 ユキが、扉に手をかけた。

「閉めるぞ」

 誰も、何も言わなかった。

 扉が、閉じた。

 ガルドが、扉の前にしゃがんだ。

 扉の下の隙間から吹きこんだ雪が、床の上に小さな吹きだまりを作っていた。

 ガルドは、その雪の縁を、指でなぞった。

 回廊へ向かう雪の道で、ザグの足跡を見つけたときと、同じ手つきだった。

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