出立
朝、セヴランは村を出た。
広場で、母さんが弁当の包みを渡した。布でくるんだ、四角い包みだ。中身は昨日の煮物の残りと、黒パンと、ゆで卵が二つ。
「途中で食べてね。それから」
母さんは、セヴランの手袋の上から、包みごと両手で握った。
「当番、春の最初の満月よ。忘れないでね」
セヴランは、握られた自分の手を見下ろしていた。
「……忘れません」
そう言って、深く頭を下げた。
出張所の戸口に、ロザさんが立っていた。弓を肩にかけて、腕を組んでいる。
セヴランが通りすぎるのを、目だけで追っていた。
「あいつだよ。扉のところの」
俺の横に来て、ロザさんは小声で言った。
「何だったの、あれ」
「……転入者です」
「転入者」
ロザさんは、俺の顔をしばらく見ていた。それから、弓の握りの革を、黙って巻き直しはじめた。
それ以上は、聞かれなかった。
*
「わしが、回廊まで送る」
ガルドが言った。斧を、背中に負っている。
「見回りの当番だ。ついでだ」
「俺も行く」
俺も言った。母さんは何も聞かずに、俺の背中に弁当籠を背負わせた。
回廊までの道は、もう荷車の轍で踏み固められていた。
セヴランは、ほとんど口をきかなかった。ガルドは、それ以上に口をきかなかった。俺は、二人のあいだを歩いた。
しばらく歩いたところで、セヴランが、前を行くガルドの背中に声をかけた。
「見回りの報告は、どの書式で出せばよろしいか」
ガルドは、振り返らなかった。
「ユキに声をかけて、帰ってくる」
「報告は」
「帰ってくるのが、報告だ」
セヴランは、しばらく黙って歩いていた。それから外套の内側から手帳を出して、定規でも当てるように、何本か線を引いた。
たぶん、書式を一枚、自分で作りはじめたのだと思う。
一度だけ、セヴランが振り返った。
丘の上の見張り塔が、木立のあいだから小さく見えていた。
「あの家の屋根は、春までもつだろうか」
セヴランは、誰にともなく言った。
攻める側が建物の傷みを確かめているのか、住む側が屋根の心配をしているのか。声からは、どちらとも取れなかった。
「……ダグさんに言えば、直してくれます」
俺は、それだけ答えた。
セヴランはうなずいて、また前を向いた。
回廊の入り口に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。轍の道は遠回りでも、膝まで沈んだあの近道よりずっと早い。
松明に火を入れて、氷の通路を奥へ進む。氷の柱は、もうない。柱が立っていた丸い跡が、床に十七、残っている。
奥の扉の前に、ユキが立っていた。
氷でできた大きな体に、灰色の毛のマントを二枚重ねて着ている。襟は、母さんが直したとおりに立っていた。
「通られるか」
ユキが言った。
「お願いします」
セヴランは、帽子を取って、ユキに頭を下げた。
「二度も、お手数を」
「手数ではない。わしの役目だ」
ガルドが、ユキを見上げた。
「春の最初の満月から、この男も見回りに来る。当番だ」
「……承知した」
ユキは、セヴランを見て、それから腰の鍵を外した。
鍵穴に差しこんで、回す。蝶番には、母さんが届けた油がさしてある。扉は、前よりずっと軽い音で開いた。
*
扉の向こうは、北の斜面だった。
雪の照り返しで、目が痛い。斜面の下のほうに、森の黒い縁が見える。
その手前の雪の上に、影が並んでいた。
ゴブリンだった。
二十近くいる。どれも痩せていて、どれも、こちらを見ていた。
尾根を越えてきたのだろう。荷車には越えられない雪でも、腹を空かせたゴブリンの足なら越えられる。
その中から一匹だけ、前に出ている者がいた。
ガルドより背が高く、肩の肉が盛りあがっている。
右足を、わずかに引きずっていた。
視界に、枠が開いた。
【ザグ ゴブリン Lv.14】
名前は、深い赤だった。今まで見たどの赤よりも、濃い。
設定欄を思い出そうとして、思い出すものが何もないことに気づいた。
ザグという名前は、ゲームのどこにもない。俺が一行も書かなかった相手だ。
知っていることは、全部この村で聞いた。
ガルドが育てて、ガルドを群れから追い出したゴブリン。人間の飯を口にしたチットを、群れから追い出したゴブリン。
右足の指が二本ないことも、知っている。北の道で、右だけ浅い足跡を見て、ガルドがこの名前を言い当てたからだ。
*
セヴランが、扉を抜けて、雪の上に出た。
ザグの前まで歩いていって、立ち止まる。
ゴブリンたちの後ろの木立に、もう一つ、黒い外套の端が見えた気がした。セヴランのものではない。
ここで二人が会う手はずをつけた誰かが、そこにいるらしかった。
ザグが、セヴランを見上げた。
それから、セヴランの手元を見た。
布の包み。母さんの弁当。
ザグの鼻が、小さく動いた。煮物の匂いだ。人間の台所の、母さんの鍋の匂い。
ザグは、包みに手を伸ばした。
受け取るのかと思った。
ザグは、包みを手の甲で払った。
包みが、雪の上に落ちた。結び目がほどけて、黒パンが転がり、ゆで卵がひとつ、斜面を下っていった。
煮物の汁が雪に染みて、茶色い跡になった。
俺の隣で、ガルドは動かなかった。
息も、していないように見えた。
ザグが、顔を上げた。
扉のほうを見た。
俺ではなかった。ユキでもなかった。
ザグは、ガルドを見ていた。
長いあいだ、見ていた。
何も言わなかった。ガルドも、何も言わなかった。
雪の上を、風が一度だけ渡っていった。
母さんの飯を受け取らなかった相手は、これまで一人もいなかった。
ガルドも、洞窟の主も、ベックさんたちも、オスカーも。昨日のセヴランでさえ、正確に祈って、椀を空にした。
最初の一人が、俺が一行も書かなかった相手だった。
ザグの後ろに並んだゴブリンたちは、どれも、あばらが浮くほど痩せていた。冬は、まだ半分も過ぎていない。
*
セヴランは、雪の上の弁当を見下ろしていた。
一度だけ。
それから、帽子をかぶり直して、ザグと並んで斜面を下りはじめた。ゴブリンたちが、その後ろについていく。
黒い外套と、緑の背中の列が、森の縁に吸いこまれていった。
ユキが、扉に手をかけた。
「閉めるぞ」
誰も、何も言わなかった。
扉が、閉じた。
ガルドが、扉の前にしゃがんだ。
扉の下の隙間から吹きこんだ雪が、床の上に小さな吹きだまりを作っていた。
ガルドは、その雪の縁を、指でなぞった。
回廊へ向かう雪の道で、ザグの足跡を見つけたときと、同じ手つきだった。




