転入届
村長の家の土間で、男は帽子を取った。
家の中では帽子を取る。そういう躾を受けた人の手つきだった。
帽子の下の黒い髪のあいだから、短い角が二本、のぞいていた。山羊の角を小さくしたような、灰色の角だ。
村長は、卓に積んだ紙の束から顔を上げなかった。
「ああ、十七枚目ですな。そこに座って」
年越しから十六人ぶんの転入届と格闘してきた結果、村長はもう、来る人の顔を見ていなかった。
母さんは、角を見て、ちょっとだけ首をかしげた。
それから何も言わずに、煮物の鍋を、土間の隅のかまどにかけた。
ゴブリンを炊き出し当番にした人が、角の二本くらいで何か言うはずはなかった。
*
村長が、紙を一枚、卓の向こうへ押しやった。
〈転入届 ハルテ村〉
欄が並んでいる。氏名。前住所。新住所。職業。家族。転入の理由。
男は、その紙を見た。
見た瞬間に、男の背筋が伸びた。肩の力が抜けて、代わりに、指先に力が入った。
俺は、その変わり方を知っていた。
前世で、締め切り前の仕様書を前にしたときの、自分の体だ。
「……インクを、お借りしても」
「どうぞどうぞ」
男は、手袋を外した。指が長く、爪が黒い。ペン先をインク壺に浸して、余分を壺のふちで二度落とす。
そして、書きはじめた。
一字ずつ、正確に。欄からはみ出さず、行の頭を揃えて。
〈氏名 セヴラン〉
〈前住所 魔王城 西棟三階〉
俺は、息を止めた。
〈新住所〉
男のペンが、そこで止まった。
「見張り塔の下の家よ」
母さんが、横から言った。
男は、少し間を置いて、そのとおりに書いた。
〈新住所 見張り塔の下の家〉
〈職業 地方調査〉
〈家族 なし〉
〈転入の理由 下見〉
書き終えると、男は紙全体を一度見直した。それから、顔を上げた。
「転入の日付の欄が、ありませんが」
「……そういえば、ありませんな」
「欄外に書いても、よろしいですか」
「どうぞどうぞ」
男は、右下の余白に、小さく今日の日付を書き足した。
それから、ペンを置いた。
嘘は、一字も書かれていなかった。
*
村長が紙を受け取って、読みあげはじめた。
「氏名、セヴラン。前住所……」
村長の目が、紙の上で止まった。
「魔王城……西棟……三階」
土間が、静かになった。かまどの煮物が、ことことと鳴っている。
村長は、紙から目を上げて、男の顔を見た。男の頭の角を見た。それから、また紙を見た。
何か言いかけて、やめた。
「……遠いところから、ようこそ」
村長さん、それは——と言うことは、できた。
言ったあとで何が起きるのかが、わからなかった。
Lv.52の男が、角を隠しもせずに座っている土間で、Lv.1の俺が「魔王軍です」と言ったら。
かまどの前で、母さんが鍋をかき回していた。
俺は、黙っていた。
村長は、次の欄へ進んだ。
「職業、地方調査。家族、なし。転入の理由……下見」
村長は、大きくうなずいた。
「ああ、なるほど。まずは住んでみて、ですな。それがいい。いきなり越してきて、合わなかったら困りますからな」
男は、何も訂正しなかった。
訂正するところが、どこにもなかったからだ。
母さんは、村長の肩越しに紙をのぞきこんでいた。
家族の欄で、緑の目が止まった。
〈なし〉
母さんの丸い顔から、ほんの少しだけ、笑みが引いた。叱るときの引き方とは、違っていた。
すぐに元に戻ったので、気づいたのは、たぶん俺一人だった。
*
村長は、名簿を開いた。
分厚い革表紙の帳面で、この村に住む者の名前が、家ごとに書いてある。
いちばん新しいページに、十六人の名前が並んでいた。二百年前の人も、四十年前のヨナスさんも、同じ大きさの字で書いてある。
そのすぐ上の行に、ガルド。その隣に、チット。秋の寄り合いのあとで、村長が書き足した名前だ。
何ページか前には、うちの家の欄がある。母さんの名前と、俺の名前が書いてある。
炎の手前の、女の輪郭と、少年の輪郭。その二人の名前が、同じ帳面に書いてある。
今夜、そのいちばん新しい行に、炎を背にしていたほうの名前が書きこまれるかもしれない。
村長は、セヴランの転入届を、名簿のいちばん新しいページに挟んだ。
「今夜の寄り合いで決まれば、ここに書き足しますでな」
十六人の名前の下に、一行ぶんの余白があった。村長は、そのまま名簿を閉じた。
男は——セヴランは、閉じられた名簿の革表紙を、しばらく見ていた。
何を考えているのかは、顔からはわからなかった。視界の枠の中で、名前はまだ赤かった。
「そうだ、セヴランさん」
母さんが、かまどから鍋をおろしながら言った。
「今夜、寄り合いがあるのよ。新しい人たちの当番を決めるの。セヴランさんも来てね」
「……当番」
「井戸の氷割りとか、薪とか、見回りとか。みんなで順番にやるのよ」
セヴランは、わずかに目を見開いた。
村の仕組みを、向こうから全部説明してもらえる。下見に来た者にとって、これ以上の話はないはずだった。




