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母さん、それ中ボスです。 〜天然の母が敵と全員仲良くなるので、勇者の俺に経験値が入りません〜  作者: 佐和井 泥
第5話 転入届

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転入者

 男は、丘を下りてきた。

 歩幅が、ずっと同じだった。一歩ごとに、頭の中で何かを足していくような歩き方だ。

 井戸の前で立ち止まって、ふちの石を手袋の指でなぞる。それから、広場の反対側にあるもう一つの井戸を見る。

 道の幅を、歩いて測る。端から端まで、七歩。

 空き家の戸口から中をのぞき、屋根を見上げ、また丘の上の見張り塔を見上げる。

 塔の扉を押して、開かないとわかると、塔のまわりを一周した。それから塔の根もとに立って、村の端から端までを、ゆっくりと見渡した。

 あの場所からなら、村の道が全部見える。

 炊き出しの列の前では、少し長く立ち止まった。

 列には、森オオカミが二頭と、村の年寄りが三人と、冬ごもりから寝ぼけて出てきた大ネズミが一匹並んでいる。

 みんな、井戸で手を洗ってから並んでいる。

 男は、列を見ていた。

 それから、自分のほうを見ている者が一人もいないことに、気づいたようだった。

 黒ずくめのよそ者が一人歩いているくらいで、この村ではもう、誰も振り返らない。鍋の前に立っているのが、ゴブリンなのだから。

 男は、少し戸惑ったように、帽子のつばに手をやった。


   *


「あら」

 母さんが、俺の後ろで声をあげた。

 洗濯物を取りこみに出てきたところだった。籠(かご)を抱えたまま、男のほうを見ている。

「お引っ越しの方かしら」

「……え」

「だって、ほら。井戸を見て、道を見て、空き家をのぞいてるでしょう。住むところを探してる人は、ああいう歩き方をするのよ」

 母さんは、目尻の笑いじわを深くして、籠を俺に押しつけた。

「煮物、多めに作ってあるの。持っていってあげましょう」

 そう言って、台所へ戻っていった。

 俺は、籠を抱えたまま、男を見ていた。

 視界に、枠が開いた。

【セヴラン 魔王軍先遣局長 Lv.52】

 名前は、赤かった。

 セヴラン。その名前を、俺は知っていた。本編の中盤で、勇者が故郷の仇として戦う相手の名前だ。

 設定欄も、覚えている。

〈村を焼く冷酷な先遣隊長〉

 書いたのも、俺だ。

 ただ、俺が書いたのは「隊長」だった。枠には「局長」とある。現場で剣を振る隊長ではなく、机の向こうにいる管理職だったらしい。

 絵コンテの、炎を背にした輪郭。

 あの輪郭に、今、顔がついている。

 灰色に近いほど青白い頬。目の下の、ホルストさんよりも濃い隈(くま)。細い顎(あご)。

 思っていたより、ずっと疲れた顔だった。

 炎の前の、もう一つの輪郭のことを考えた。

 少年に覆いかぶさっていた、女の輪郭。あれにも、顔はなかった。

 今は、ある。丸い頬にそばかすがあって、緑の目で、笑うと目尻にしわが寄る。

 その顔が、今、台所で鍋に煮物を詰めている。


   *


 Lv.52。

 俺は、Lv.1だ。

 ゲームの中で、この男と戦う推奨レベルは、四十八にしてあった。

 洞窟の主の脱皮殻(だっぴがら)から作ってもらった、防御力四十八の胸当ても、筋力一の腕も、何の足しにもならない。

【ヒント:レベルの離れた敵からは、逃げるのも作戦のひとつです】

 わかってる。

 逃げる先が、この村だ。

 それにしても、なぜ今なのか。

 ゲームには、本編の三年前にこの男が村を下見に来る場面など、どこにもない。

 ……北の道が開いたからだ。

 三百年閉じていた回廊が開いて、荷車が毎週、王都へ抜けるようになった。山の向こうから、この村が見えるようになったのだ。

 あの扉を開けてもらったのは、母さんだった。

 気がつくと、母さんはもう、湯気の立つ鍋を両手に抱えて、丘の坂を上っていた。

 小柄な体で、雪の坂を一歩ずつ踏みしめていく。太い三つ編みが、背中で揺れている。

 俺は籠を放り出して、走った。

 坂の途中で追いついて、母さんの前掛けの端をつかんだ。

「母さん」

「なあに」

「母さん、それ」

 喉が、ひりついた。

「三年後に、この村を焼く人です」

 小声で言ったつもりだった。

 雪の斜面は、思ったより声を運んだ。

 丘の上で、男が振り返った。

 母さんは立ち止まって、緑の目をしばたたかせた。

「三年後?」

「三年後」

 母さんは、少しだけ首をかしげた。それから、言った。

「……じゃあ、まだ焼いてないんでしょう」

 そう言って、また坂を上りはじめた。

 俺は、その場から動けなかった。

 丘の上の男は、俺を見ていた。何も言わなかった。帽子のつばの下で、目がほんの少し細くなった。


   *


「こんにちは」

 母さんは、男の前で鍋を抱えたまま、にこにこと頭を下げた。

「お引っ越しですか?」

 男は、母さんを見下ろした。背が高い。母さんの頭は、男の胸にも届いていない。

「……いえ」

 低くて、丁寧な声だった。疲れているのに、言葉の端までがきちんと揃っている。

「下見に、来ました」

「まあ。やっぱり」

 母さんは、うれしそうに後ろの空き家を振り返った。

「この家ね、空いてるのよ。見張り塔のおじいさんが亡くなってから、ずっと。日当たりがいいの。冬は少し、風が強いけど」

 男は、空き家を見た。見張り塔を見た。それから、母さんの抱えている鍋を見た。

「これ、煮物。お昼、まだでしょう」

「……」

「それから、村長さんのところに行きましょう。この村に住むなら、転入届を出さないと。ちょうどね、たくさんあるのよ、転入届」

 男は、何か言おうとして口を開いた。

 その両手に、母さんが煮物の鍋を持たせた。

「熱いから、気をつけてね」

 魔王軍の先遣局長は、湯気の立つ鍋を両手で抱えたまま、母さんに袖を引かれて坂を下りていった。

 俺は、放り出した洗濯籠を拾いに戻った。

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