転入者
男は、丘を下りてきた。
歩幅が、ずっと同じだった。一歩ごとに、頭の中で何かを足していくような歩き方だ。
井戸の前で立ち止まって、ふちの石を手袋の指でなぞる。それから、広場の反対側にあるもう一つの井戸を見る。
道の幅を、歩いて測る。端から端まで、七歩。
空き家の戸口から中をのぞき、屋根を見上げ、また丘の上の見張り塔を見上げる。
塔の扉を押して、開かないとわかると、塔のまわりを一周した。それから塔の根もとに立って、村の端から端までを、ゆっくりと見渡した。
あの場所からなら、村の道が全部見える。
炊き出しの列の前では、少し長く立ち止まった。
列には、森オオカミが二頭と、村の年寄りが三人と、冬ごもりから寝ぼけて出てきた大ネズミが一匹並んでいる。
みんな、井戸で手を洗ってから並んでいる。
男は、列を見ていた。
それから、自分のほうを見ている者が一人もいないことに、気づいたようだった。
黒ずくめのよそ者が一人歩いているくらいで、この村ではもう、誰も振り返らない。鍋の前に立っているのが、ゴブリンなのだから。
男は、少し戸惑ったように、帽子のつばに手をやった。
*
「あら」
母さんが、俺の後ろで声をあげた。
洗濯物を取りこみに出てきたところだった。籠を抱えたまま、男のほうを見ている。
「お引っ越しの方かしら」
「……え」
「だって、ほら。井戸を見て、道を見て、空き家をのぞいてるでしょう。住むところを探してる人は、ああいう歩き方をするのよ」
母さんは、目尻の笑いじわを深くして、籠を俺に押しつけた。
「煮物、多めに作ってあるの。持っていってあげましょう」
そう言って、台所へ戻っていった。
俺は、籠を抱えたまま、男を見ていた。
視界に、枠が開いた。
【セヴラン 魔王軍先遣局長 Lv.52】
名前は、赤かった。
セヴラン。その名前を、俺は知っていた。本編の中盤で、勇者が故郷の仇として戦う相手の名前だ。
設定欄も、覚えている。
〈村を焼く冷酷な先遣隊長〉
書いたのも、俺だ。
ただ、俺が書いたのは「隊長」だった。枠には「局長」とある。現場で剣を振る隊長ではなく、机の向こうにいる管理職だったらしい。
絵コンテの、炎を背にした輪郭。
あの輪郭に、今、顔がついている。
灰色に近いほど青白い頬。目の下の、ホルストさんよりも濃い隈。細い顎。
思っていたより、ずっと疲れた顔だった。
炎の前の、もう一つの輪郭のことを考えた。
少年に覆いかぶさっていた、女の輪郭。あれにも、顔はなかった。
今は、ある。丸い頬にそばかすがあって、緑の目で、笑うと目尻にしわが寄る。
その顔が、今、台所で鍋に煮物を詰めている。
*
Lv.52。
俺は、Lv.1だ。
ゲームの中で、この男と戦う推奨レベルは、四十八にしてあった。
洞窟の主の脱皮殻から作ってもらった、防御力四十八の胸当ても、筋力一の腕も、何の足しにもならない。
【ヒント:レベルの離れた敵からは、逃げるのも作戦のひとつです】
わかってる。
逃げる先が、この村だ。
それにしても、なぜ今なのか。
ゲームには、本編の三年前にこの男が村を下見に来る場面など、どこにもない。
……北の道が開いたからだ。
三百年閉じていた回廊が開いて、荷車が毎週、王都へ抜けるようになった。山の向こうから、この村が見えるようになったのだ。
あの扉を開けてもらったのは、母さんだった。
気がつくと、母さんはもう、湯気の立つ鍋を両手に抱えて、丘の坂を上っていた。
小柄な体で、雪の坂を一歩ずつ踏みしめていく。太い三つ編みが、背中で揺れている。
俺は籠を放り出して、走った。
坂の途中で追いついて、母さんの前掛けの端をつかんだ。
「母さん」
「なあに」
「母さん、それ」
喉が、ひりついた。
「三年後に、この村を焼く人です」
小声で言ったつもりだった。
雪の斜面は、思ったより声を運んだ。
丘の上で、男が振り返った。
母さんは立ち止まって、緑の目をしばたたかせた。
「三年後?」
「三年後」
母さんは、少しだけ首をかしげた。それから、言った。
「……じゃあ、まだ焼いてないんでしょう」
そう言って、また坂を上りはじめた。
俺は、その場から動けなかった。
丘の上の男は、俺を見ていた。何も言わなかった。帽子のつばの下で、目がほんの少し細くなった。
*
「こんにちは」
母さんは、男の前で鍋を抱えたまま、にこにこと頭を下げた。
「お引っ越しですか?」
男は、母さんを見下ろした。背が高い。母さんの頭は、男の胸にも届いていない。
「……いえ」
低くて、丁寧な声だった。疲れているのに、言葉の端までがきちんと揃っている。
「下見に、来ました」
「まあ。やっぱり」
母さんは、うれしそうに後ろの空き家を振り返った。
「この家ね、空いてるのよ。見張り塔のおじいさんが亡くなってから、ずっと。日当たりがいいの。冬は少し、風が強いけど」
男は、空き家を見た。見張り塔を見た。それから、母さんの抱えている鍋を見た。
「これ、煮物。お昼、まだでしょう」
「……」
「それから、村長さんのところに行きましょう。この村に住むなら、転入届を出さないと。ちょうどね、たくさんあるのよ、転入届」
男は、何か言おうとして口を開いた。
その両手に、母さんが煮物の鍋を持たせた。
「熱いから、気をつけてね」
魔王軍の先遣局長は、湯気の立つ鍋を両手で抱えたまま、母さんに袖を引かれて坂を下りていった。
俺は、放り出した洗濯籠を拾いに戻った。




