解凍
扉が開いたあと、母さんは回廊の中ほどへ戻ってきた。
氷の柱の前に立って、手袋をはめた手で、そのうちの一本をぽんと叩く。
「ユキさん。この人たちも、そろそろいいんじゃないかしら」
ユキは、氷の柱を見た。
「……ご主人様に、お見せせねば」
「ご主人様は、この人たちに会って、なんておっしゃると思う?」
母さんの聞き方は、責める調子ではなかった。近所の人に、洗濯物を取りこんだほうがいいんじゃない、と言うときの調子だった。
氷の軋む音が、何度か鳴った。
やがてユキは、いちばん手前の柱に手を当てた。
氷が、音もなく水になった。溶けたのではなく、氷であることをやめたように見えた。水は床に広がる前に霧になって、松明の熱で消えた。
柱の中に立っていた行商人が、そのまま前へつんのめった。
ベックさんが、あわてて抱きとめた。
*
十七人が、順番に解かれた。
誰も、何が起きたのかわかっていなかった。当然だと思う。彼らにとっては、鍵を求めて手を伸ばした瞬間の続きなのだ。
「今、何年だ」
いちばん古い、巻物を差した男が最初にそう聞いた。
ホルストさんがここにいたら、もっと正確に答えられたと思う。ベックさんが、冒険者証に刷ってある年号を読みあげた。
男は、しばらく黙っていた。それから、氷の床に座りこんだ。
「……二百年か」
別の一人が、震える声で聞いた。
「今は、どなたの治世で」
誰も答えられなかった。ベックさんもロザさんも、王の名前までは知らない。
村で暮らしていると、王の名前を口にする機会は、一年に一度もない。
「……あとで、村長に聞いてください」
俺がそう言うと、その人は、ひどく不安そうな顔をした。
四十年前の行商人は、もう少し実際的だった。
自分の荷車に駆け寄って、積み荷の油紙をめくる。中から出てきた毛皮の束は、凍る直前のままの艶をしていた。
「腐ってない。一枚も腐ってない」
男は、毛皮を抱えたまま笑いだした。
「四十年ものの新品だぞ、これは。ベルダの問屋に持っていったら、いくらになる」
「それでしたら、心当たりがあります」
口が勝手に動いていた。オスカーの顔が浮かんだからだ。
あの人なら、たぶん四十年ものの新品に、ちゃんとした値をつける。
男は、毛皮を抱えたまま、俺をまじまじと見た。
「坊主、どこの子だ」
「ハルテ村の、リオです」
男の顔から、笑いが消えた。
「ハルテ村」
男は、自分の荷車の輪留めに手を置いた。
「……俺は、ヨナスだ。ハルテ村の、鍛冶屋の家の次男坊でな。兄貴のところに、ダグって甥っ子がいる。まだ小さい」
まだ小さい、とその人は言った。
俺は、返事の言葉を探した。四十年という数を、どう渡せばいいのかがわからなかった。
*
十七人のうち、一人だけ、人ではなかった。
解かれたとたん、そいつは床に転がって、四つん這いで後ずさった。
背丈は俺の腰くらい。灰色の膜のような翼が背中に畳まれていて、顔の半分が口だった。首から、金属の札を下げている。
枠が開いた。
【魔王軍偵察課 斥候】
名前の色は、赤くなかった。白でもない。見たことのない、くすんだ色をしていた。
「おい、待て」
ベックさんが声をかけたときには、そいつはもう走りだしていた。
開いたばかりの扉のほうではなく、俺たちが入ってきた入り口のほうへ。
転びながら、翼をばたつかせながら、松明の光の外へ出ていった。
ガルドは、追わなかった。
「首の札だ」
ガルドは、そう言った。
「あの形の札は、わしが若いころに一度見たきりだ。六十年は、凍っておったな」
*
ユキは、最後にニールさんの前に立った。
ニールさんが、毛にくるまれた右手を差し出した。差し出すまでに、少し時間がかかった。
ユキの太い指が、その毛の上に触れた。
「……すまぬ」
ユキは、そう言った。
「わしの体が、勝手にやることだ。わしが選んで撃ったのではない」
白い色が、手首のほうへ引いていった。
ニールさんは、しばらく自分の手を開いたり閉じたりしていた。
それから、床の杖を拾いあげた。氷に貼りついていたはずのものが、いつのまにか、ただの木に戻っていた。
ニールさんは、ユキに向かって深く頭を下げた。
この日、ニールさんがいちばん長くしゃべったのは、そのあとだった。
「……あの。さっきの、冷気が術をさかのぼるやつなんですけど」
「うむ」
「あれ、何年くらい練習したら、できるようになりますか」
ベックさんが、ニールさんの後頭部を軽くはたいた。
ユキは、答えなかった。
ただ、氷の内側の気泡が、松明の光の中を、ゆっくりと上へのぼっていった。
*
残った十六人は、村へ連れて帰ることになった。
どこへ帰ればいいのか、誰にもわからなかったからだ。二百年前の故郷は、たぶんもうない。四十年前の家族にも、簡単には会えない。
回廊を出る前に、母さんは十六人を一列に並ばせた。
ガルドが入り口から運んできた雪で手を洗わせ、籠の中身を、全部あけた。
六人ぶんの弁当の残りを十六人で分けたので、一人あたり、パンがひと切れと、椀に半分の汁しかない。
それでも母さんは、一杯ずつ手渡した。手が震えて椀を持てない人には、両手で包むように持たせた。
水筒は毛のマントにくるんで背負わされていたので、汁はまだ温かかった。冷たさを逃がさないものは、温かさも逃がさない。
「はい、まず座って。あったかいものを飲んでから」
籠に残っていた毛のマント三枚と、手袋の残りも、年寄りから順に配られた。
背負い籠は、空の水筒だけになった。
巻物を差した男は、椀を受け取る前に、床に膝をついて長い祈りを唱えた。
母さんは、その祈りが終わるまで、椀を両手で持って待っていた。
祈りの言葉は、誰も知らない神様のものだった。二百年のあいだに、祈られなくなった神様なのかもしれない。
二百年ぶりの食事が、椀に半分の、村の炊き出しの残りだった。
ヨナスさんは、汁を一口飲んで、目を丸くしていた。
「このカブ、うまいな。どこの畑だ」
「トマスさんとこよ」
母さんが答えると、ヨナスさんは首をかしげた。
「トマスってのは、水車小屋の倅の、あのトマスか」
「ええ。今はおじいさんですけど」
ヨナスさんは、椀を持ったまま、しばらく黙った。
ユキは、回廊の奥に立ったままそれを見ていた。
「ユキさんは、村には来られないのよね」
母さんが聞くと、ユキは短く答えた。
「この扉から、離れられぬ」
「じゃあ、こっちから来ますね」
母さんは、あっさりそう言った。
「マント、もう一枚編んでるの。今のは一枚じゃ寒いでしょう。届けに来るわ」
氷の軋む音が、一度だけ鳴った。
その音が、何を意味していたのかは、俺にはわからなかった。
*
その晩は、回廊の入り口の岩陰で火を焚いて明かした。十六人ぶんの毛布はないので、みんなで固まって座っていた。
村へ戻る道すがら、ベックさんが何度も後ろを振り返っていた。
「三百年だぞ」
誰にともなく、そう言っていた。
「三百年開かなかった扉が、マント一枚で開いたのか」
「二枚目を編んでるそうですよ」
「……勘弁してくれ」
雪の上には、来たときより多くの足跡が残っていた。
俺たちのものではない。指の数が違う、小さな足跡だ。
街道のほうへ、まっすぐに続いていた。




