名前
「ねえ。お名前は?」
母さんが聞いたとき、番人はすぐには答えなかった。
氷の軋む音が、何度か鳴った。考えているときに鳴る音らしい、と、このころには全員が気づいていた。
「……番、と」
番人は言った。
「ご主人様は、わしをそう呼ばれた。番、と」
「それは、お仕事の名前でしょう」
母さんは、番人を見上げた。小柄な母さんがこの相手を見上げると、首がほとんど真上を向く。
「あなたの名前は?」
軋む音が、さっきより長く続いた。
やがて、番人は答えた。
「ない」
ロザさんが、小さく息を吸った。
ベックさんは、松明を持ち替えた。持ち替えただけだった。
三百年、この回廊に一人でいて、名前を呼ばれたことがない。
呼ばれたのは役目の名前だけで、それを呼んだ人は、三日で戻ると言ったきり戻らない。
母さんは、うなずいた。
それから、いつもの調子で言った。
「じゃあ、ユキさんね」
「ゆき」
「雪みたいだから、ユキさん。呼びにくかったら、別のにしましょうか」
番人は、答えなかった。
代わりに、もう一度だけ、自分でその音を繰り返した。
「……ユキ」
視界の枠が、小さく瞬いた。
【霜の番人(ユキ) Lv.24】
括弧の中に、名前が入った。
スライムのときも、岩トカゲの子どもたちのときも、この表示を見た。それでも今回は、少し違って見えた。
氷の軋む音が、一度だけ鳴った。今までのどの軋みとも違う、短い音だった。
この世界に名前のない存在は、たぶん珍しくない。三百年ぶんの名前のなさが、二文字で埋まるところを、俺は初めて見た。
「……おい、坊主」
ベックさんが、俺の耳もとで言った。
「あんたの母ちゃん、氷に名前つけたぞ」
「うちでは、日常です」
*
「それでね、ユキさん」
母さんは、膝についた霜を払って立ちあがった。
「ひとつ、お願いがあるの」
来た、と思った。
母さんの「お願い」は、たいてい理屈になっていない。
炊き出しを手伝って、とか、卵を見ててあげる、とか、そういう形で場を動かしてしまう。
「わたしたち、この道を通りたいの。村で作ったものを、王都まで運びたくて」
「鍵は、渡さぬ」
ユキの返事は、早かった。そこだけは、三百年で一度もぶれていないのだろう。
「ええ。渡さなくていいのよ」
母さんは、平気な顔で言った。
「ユキさんが持っていて。そのかわり、通るときは、ユキさんが開けて、ユキさんが閉めてくださらない?」
回廊が、静かになった。
ベックさんが、口を開けたまま俺を見た。俺も、たぶん同じ顔をしていた。
命令は、鍵を渡すな、だった。
通すな、ではなかった。
「それは」
ユキが、ゆっくりと言った。
「ご主人様の言いつけに、背かぬか」
「背かないと思うわ」
母さんは、指を一本立てた。
「『渡すな』とおっしゃったんでしょう? 『通すな』とはおっしゃっていないんでしょう?」
「……おっしゃらなんだ」
「じゃあ、大丈夫よ」
大丈夫の根拠としては、ずいぶん軽い。
それでも、三百年のあいだ、誰もその軽さにたどり着かなかった。挑んだ者は鍵を奪おうとして、ユキはそれを止めた。
鍵を持ったまま扉を開けるという道は、たぶん、どちらの頭にも浮かばなかったのだろう。
ユキは、長いこと動かなかった。
氷の軋む音が、何度も、何度も鳴った。
*
やがて、ユキが歩きだした。
回廊の奥へ、ゆっくりと。
通路の突き当たりに、鉄の扉があった。人の背の三倍はある、両開きの扉だ。表面には、三百年ぶんの霜が厚く張りついている。
ユキは、腰の鍵を外した。
鍵穴に差しこんで、回す。
凍りついた錠が、重い音を立てた。一度では回らなかった。二度、三度と回して、ようやく、かちりという音がした。
ゲームでは、この扉は鍵を使うと勝手に開く。鍵のアイコンが光って、扉の絵が差し替わる。それだけの演出だった。
実際の扉は、ユキが両手で押していた。
三百年ぶんの霜と、凍った蝶番と、自分の体の重さを、全部まとめて押していた。
扉が、内側から押された。
霜が、板を割るような音を立てて剥がれ落ちた。
隙間から、光が差しこんできた。
「……三百年、油をささなんだ」
ユキが、言いわけのようにそう言った。
「あら。じゃあ、今度お持ちしますね」
母さんは、まったく普通の調子で答えた。近所の人に、醤油を貸しましょうか、と言うときの調子だった。
開いた扉の向こうには、雪の積もった古い街道が続いていた。その先の谷のあいだに、遠く、空が広く開けている。
王都のある方角だった。
ベックさんが、扉の外へ二歩出て、足もとの雪を蹴った。
「浅いな。山腹を通ってるぶん、吹きだまりになってない」
膝まで沈んだ来た道とは、まるで違った。荷車なら、押さずに進めるだろう。
「通れます」
俺が言うと、ベックさんは声をあげて笑った。笑い声が、回廊の氷に反響して、いつまでも残った。




