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母さん、それ中ボスです。 〜天然の母が敵と全員仲良くなるので、勇者の俺に経験値が入りません〜  作者: 佐和井 泥
第4話 ドロップしない鍵

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名前

「ねえ。お名前は?」

 母さんが聞いたとき、番人はすぐには答えなかった。

 氷の軋(きし)む音が、何度か鳴った。考えているときに鳴る音らしい、と、このころには全員が気づいていた。

「……番、と」

 番人は言った。

「ご主人様は、わしをそう呼ばれた。番、と」

「それは、お仕事の名前でしょう」

 母さんは、番人を見上げた。小柄な母さんがこの相手を見上げると、首がほとんど真上を向く。

「あなたの名前は?」

 軋む音が、さっきより長く続いた。

 やがて、番人は答えた。

「ない」

 ロザさんが、小さく息を吸った。

 ベックさんは、松明(たいまつ)を持ち替えた。持ち替えただけだった。

 三百年、この回廊に一人でいて、名前を呼ばれたことがない。

 呼ばれたのは役目の名前だけで、それを呼んだ人は、三日で戻ると言ったきり戻らない。

 母さんは、うなずいた。

 それから、いつもの調子で言った。

「じゃあ、ユキさんね」

「ゆき」

「雪みたいだから、ユキさん。呼びにくかったら、別のにしましょうか」

 番人は、答えなかった。

 代わりに、もう一度だけ、自分でその音を繰り返した。

「……ユキ」

 視界の枠が、小さく瞬いた。

【霜(しも)の番人(ユキ) Lv.24】

 括弧の中に、名前が入った。

 スライムのときも、岩トカゲの子どもたちのときも、この表示を見た。それでも今回は、少し違って見えた。

 氷の軋む音が、一度だけ鳴った。今までのどの軋みとも違う、短い音だった。

 この世界に名前のない存在は、たぶん珍しくない。三百年ぶんの名前のなさが、二文字で埋まるところを、俺は初めて見た。

「……おい、坊主」

 ベックさんが、俺の耳もとで言った。

「あんたの母ちゃん、氷に名前つけたぞ」

「うちでは、日常です」


   *


「それでね、ユキさん」

 母さんは、膝(ひざ)についた霜を払って立ちあがった。

「ひとつ、お願いがあるの」

 来た、と思った。

 母さんの「お願い」は、たいてい理屈になっていない。

 炊き出しを手伝って、とか、卵を見ててあげる、とか、そういう形で場を動かしてしまう。

「わたしたち、この道を通りたいの。村で作ったものを、王都まで運びたくて」

「鍵は、渡さぬ」

 ユキの返事は、早かった。そこだけは、三百年で一度もぶれていないのだろう。

「ええ。渡さなくていいのよ」

 母さんは、平気な顔で言った。

「ユキさんが持っていて。そのかわり、通るときは、ユキさんが開けて、ユキさんが閉めてくださらない?」

 回廊が、静かになった。

 ベックさんが、口を開けたまま俺を見た。俺も、たぶん同じ顔をしていた。

 命令は、鍵を渡すな、だった。

 通すな、ではなかった。

「それは」

 ユキが、ゆっくりと言った。

「ご主人様の言いつけに、背かぬか」

「背かないと思うわ」

 母さんは、指を一本立てた。

「『渡すな』とおっしゃったんでしょう? 『通すな』とはおっしゃっていないんでしょう?」

「……おっしゃらなんだ」

「じゃあ、大丈夫よ」

 大丈夫の根拠としては、ずいぶん軽い。

 それでも、三百年のあいだ、誰もその軽さにたどり着かなかった。挑んだ者は鍵を奪おうとして、ユキはそれを止めた。

 鍵を持ったまま扉を開けるという道は、たぶん、どちらの頭にも浮かばなかったのだろう。

 ユキは、長いこと動かなかった。

 氷の軋む音が、何度も、何度も鳴った。


   *


 やがて、ユキが歩きだした。

 回廊の奥へ、ゆっくりと。

 通路の突き当たりに、鉄の扉があった。人の背の三倍はある、両開きの扉だ。表面には、三百年ぶんの霜が厚く張りついている。

 ユキは、腰の鍵を外した。

 鍵穴に差しこんで、回す。

 凍りついた錠(じょう)が、重い音を立てた。一度では回らなかった。二度、三度と回して、ようやく、かちりという音がした。

 ゲームでは、この扉は鍵を使うと勝手に開く。鍵のアイコンが光って、扉の絵が差し替わる。それだけの演出だった。

 実際の扉は、ユキが両手で押していた。

 三百年ぶんの霜と、凍った蝶番と、自分の体の重さを、全部まとめて押していた。

 扉が、内側から押された。

 霜が、板を割るような音を立てて剥がれ落ちた。

 隙間から、光が差しこんできた。

「……三百年、油をささなんだ」

 ユキが、言いわけのようにそう言った。

「あら。じゃあ、今度お持ちしますね」

 母さんは、まったく普通の調子で答えた。近所の人に、醤油を貸しましょうか、と言うときの調子だった。

 開いた扉の向こうには、雪の積もった古い街道が続いていた。その先の谷のあいだに、遠く、空が広く開けている。

 王都のある方角だった。

 ベックさんが、扉の外へ二歩出て、足もとの雪を蹴った。

「浅いな。山腹を通ってるぶん、吹きだまりになってない」

 膝まで沈んだ来た道とは、まるで違った。荷車なら、押さずに進めるだろう。

「通れます」

 俺が言うと、ベックさんは声をあげて笑った。笑い声が、回廊の氷に反響して、いつまでも残った。

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