三百年
母さんは、氷の床に腰をおろした。
俺たちも、なし崩しに座った。
松明を壁の窪みに立てて、その周りに輪になって座ると、氷の回廊が急に、焚き火のそばのような場所に見えてきた。
番人だけが、立ったままだった。座るための関節が、たぶんない。
「わしは、この関所の番をしておった」
番人は、そう語りはじめた。
三百年前、この回廊は北の交易路だったという。夏でも涼しく、雪の季節でも通れる道で、関所には番人頭と、その下に何人かの番人がいた。
「ご主人様は、律儀な方であった」
番人が「ご主人様」と言うとき、声の調子が少しだけ変わった。ご主人様というのが、その番人頭のことらしい。
「ある年の秋に、山を下りられた。王都へ届け物があると。三日で戻ると言い残された」
関所には、番人が六人いたという。人が四人と、氷の者が二人。目の前のこれと同じものが、もう一体いたということらしかった。
夏には商隊が日に三つも四つも通り、冬でも荷は絶えなかった。番人たちは通行証を検め、荷を数え、宿の世話までしていたらしい。
「にぎやかであった」
番人は、そう言った。にぎやか、という言葉を使うのに、少し間があった。
出ていく前に、番人頭は関所の扉に鍵をかけ、その鍵を、目の前のこの番人に預けた。
そして、一つだけ命令を残した。
「鍵は、誰にも渡すな。わしが戻るまで」
それから、番人頭はもう一つだけ言葉を残したという。
「寒くはないか、と」
番人の声の調子が、また少し変わった。
「三百年で、一度だけだ。わしに、そう聞かれた方は」
母さんは、うなずきながら聞いていた。
肩にかかったマントの端が、氷の表面で少しだけ動いた。
番人は、その言葉を繰り返した。三百年、毎日繰り返してきたような言い方だった。
「それきり、ご主人様はお戻りにならぬ」
最初の冬、ほかの番人たちは山を下りた。春になっても、誰も戻らなかった。
三年目に、商隊が来なくなった。十年目に、道が草に埋もれた。
百年目あたりで、鍵を求める者が来るようになった。
番人は、その一人一人を止めた。止めて、待たせた。
*
誰も、何も言えなかった。
ベックさんは、口を開けたまま、何も言わなかった。ロザさんは、弓を膝に置いたまま、氷の柱のほうを見ていた。
ニールさんは、毛にくるまれた右手を、ずっと胸に抱えていた。
三日で戻ると言った人は、三百年、戻っていない。
理由は、いくつでも考えられる。道中で死んだのかもしれないし、王都で職を得たのかもしれない。戦があった時代かもしれない。
どれであっても、その人はもう、この世にいない。
番人には、それがわかっていないらしかった。
「あの、氷の中の人たちは」
母さんが聞いた。
「鍵を、持ち出そうとされた」
番人は、氷の柱のほうへ顔を向けた。
「殺してはおらぬ。ご主人様がお戻りになったとき、お見せせねばならぬ。鍵を欲しがった者たちを、こうして待たせておる」
待たせておる。
氷の中の十七人は、番人にとっては罪人でも獲物でもなく、主人に見せるまで待ってもらっている人たち、ということらしかった。
三百年、律儀に。
「……なあ、坊主」
ベックさんが、俺の耳もとで小さく言った。
「あれ、倒せるのか」
*
倒せる。
松明は二本ある。油の壺も、荷にふたつ入っている。ベックさんとロザさんとガルドがいて、ニールさんの手は使えない。
足もとの氷を溶かして体勢を崩させ、油を投げて火を移す。二度繰り返せば終わる。攻略法を作ったのは自分なので、手順に迷いはない。
魔術師抜きでも、数は足りる。もともと、魔術師が要らないように組んだ手順だ。
倒せば、鍵が落ちる。扉が開いて、荷車が通る。村の手袋とランプと咳止めが、冬のあいだに王都へ届く。
経験値は、二万八千。
Lv.1が、一度にレベル十五を超える。
正しい手順に、すべてが戻る。
ベックさんが、俺の顔を見ていた。
やるのか、と目が聞いている。松明を持った手に、もう力が入っている。
ロザさんは矢の向きを変えないまま、いつでも引けるようにしていた。
ガルドだけが、斧を持たずに立っていた。
俺は、懐の火打ち石に手をかけた。
「坊主」
ベックさんが、ほとんど声を出さずに言った。
「合図をくれ。あんたが言うなら、俺とロザで足もとをやる。ガルドの旦那に、母ちゃんとニールを連れて下がってもらう。……たぶん、いける」
いける、と俺も思った。
手順は頭にあるし、火種は懐にある。あとは、うなずくだけだった。
火打ち石に手をかけたまま、番人を見た。
番人は、母さんの話を聞くために顔を傾けていた。マントをかけられた肩を、少し前に出すようにして。
三百年のあいだに、その姿勢で固まってしまったのだろう。
誰かの返事を待っている者の立ち方だった。
……あの人も、こういう立ち方をしていたのだろうか。
台所のテーブルで、あるいは電話の前で。返事の来ない画面を、何度か開いては閉じて。
返事を待っている人を、俺は一度、置き去りにしている。
火打ち石から、手を離した。
「どうした、坊主」
「……今日は、やめときます」
ベックさんは、しばらく俺の顔を見ていた。
「……坊主」
声が、低くなっていた。
「ニールの手は、まだ凍ったままだ」
ベックさんは、松明を持ち替えた。
「うちは、秋から一度も仕事にありついてねえ。弟の薬代も、まだ残ってる。この扉の向こうが道になるなら、そこを通る荷車に、俺たちの飯があるんだ」
言い返す材料は、一つもなかった。
全部、正しかった。
討伐依頼が消えたのも、素材が値崩れしたのも、この人たちが冬を越せないのも、元をたどれば、うちの台所から始まっている。
「……わかってます」
それだけ言うので、精一杯だった。
「わかってて、今日は、やめときます」
ベックさんは、鼻から長く息を吐いた。
それから、松明を肩に担ぎ直した。
「あんた、そういうところは、母ちゃんそっくりだな」
褒められた気は、しなかった。
「リオ。そんなところにいたら寒いでしょう」
母さんの声が飛んできた。
「こっちに座りなさい。番人さんのお話、まだ途中よ」
番人さん、と母さんは呼んでいた。
さっき手を凍らせた相手を、井戸端で会った人と同じ呼び方にしている。
ベックさんは、それ以上は聞かなかった。松明の火が、氷の壁に長く伸びて揺れていた。




