母さん、それ、鍵を持ってます
「母さん、下がって!」
俺の声より、番人が動くほうが早かった。
氷の腕が持ち上がる。空気が、一段冷えた。
「——下がられよ」
声がした。
低くて、ゆっくりで、ひどく古い言い方だった。
「この先は、通さぬ。鍵は、渡さぬ」
母さんが、足を止めた。
番人の腕は、持ち上がったまま止まっていた。振り下ろす気配はない。氷の目が、母さんを見ている。
俺は、短剣の柄を握っていた。握ったまま、何もできずにいた。
Lv.24の攻撃を、Lv.1が受けたらどうなるか。防御力四十八でも、たぶん一撃で終わる。
数字を決めたのは自分なので、そこはよく知っている。
*
そのとき、俺の横で、青白い光が走った。
ニールさんだった。
杖の先に、小さな光の球ができている。若い魔術師の手が、震えていた。
母さんと番人のあいだの距離に、たぶん耐えられなかったのだろう。
光の球が、飛んだ。
「ニールさん、杖を離して!」
叫んだのは、その仕掛けを書いたのが自分だからだ。
霜の番人に魔法を当てると、冷気が術の通った道をさかのぼる。
プレイヤーに松明と油を使わせたかったので、魔術師には割の合わない相手にしておいた。
光の球は、番人の胸に当たって、弾けた。
氷の表面が、こぶし大だけ白く濁った。
そこから、白い筋が伸びてきた。
空中を、光の球が飛んだのと同じ線をたどって、ニールさんの杖の先まで。
ニールさんが杖を投げ捨てたのは、そのあとだった。
杖は、床に落ちる前に凍りついていた。落ちた音が、木の音ではなかった。
そのまま、氷の床に貼りついて動かなくなった。
ニールさんの右手は、手首から先が、白い。
指が、曲がらなくなっていた。
「ニール!」
ロザさんが駆け寄って、その手を両手で挟もうとした。
「こすっちゃだめ!」
母さんの声が、飛んだ。
叱る声ではなかった。ただ、低かった。
ロザさんの手が、止まった。
俺は言われる前に、背負い籠をおろした。母さんが、中から毛の手袋を二組つかみ出す。
ニールさんの手をその毛でくるんで、上から自分のふっくらした両手で包む。
「しもやけと同じ。いきなり温めると、あとが残るの」
母さんは、ニールさんを見上げた。
「痛い?」
「……いえ」
ニールさんは、首を横に振った。
「痛く、ないです。何も、感じません」
母さんの丸い顔から、笑みが消えていた。
「——下がられよ」
番人が、もう一度言った。
「二度は、言わぬ」
誰も動けなかった。
氷の柱が十七本ある理由が、これでわかった。この回廊では、手を伸ばしたほうが凍る。
*
母さんは、ニールさんの手を毛でくるみ終えると、立ちあがった。
それから、番人のほうへ向き直った。
「ねえ、リオ」
母さんが、振り返らずに言った。
「あの人、腰に何か下げてるわね」
「……鍵です」
言ってから、気づいた。言い方が、あの日と同じだった。
「母さん。それ、鍵を持ってます」
「あら。じゃあ、貸していただけるか、聞いてみましょうか」
「そういう話じゃなくて」
そういう話ではない。
相手はLv.24で、この回廊には氷漬けが十七人いて、そのうちの何人かは、たぶん鍵を貸してくれと頼んだ人たちだ。
ガルドが、俺の肩を押さえた。
「動くな」
低い声だった。ガルドの目は、番人の腕の高さを見ている。振り下ろされたときに、どこへ飛べばいいかを測っているらしかった。
ベックさんが、松明を持つ手を少しだけ下げた。ロザさんの矢も、下を向いた。
母さんが、番人の前に立っているからだ。ここで火を投げれば、届く先に母さんがいる。
そして、母さんは、鍵の話を、しなかった。
*
「まあ、ずいぶん傷んで」
母さんが見ていたのは、番人の外套だった。
肩の部分が裂けて、垂れ下がっている。裾は霜で固まり、色は抜けて、もとが何色だったのかもわからない。
「三百年、着っぱなしなのね」
「……」
番人の腕が、ゆっくりと下りた。
母さんは、足もとに置いたままの背負い籠から、村の毛のマントを一枚引っぱり出した。
森オオカミの毛を紡いで、女の人たちが冬じゅう編んでいたものだ。
母さんが、それを広げて番人に近づける。
番人が、一歩、後ろへ下がった。
氷の体の表面が、わずかに白く曇った。息を吹きかけられた窓のような曇り方だった。
「あ。熱いのは、いやなのね」
「あったかいものは、まずいと思うぞ」
ベックさんが、松明を下げながら言った。
「溶けちまうんじゃないか」
「大丈夫よ」
母さんは、マントを自分の頬に当ててみせた。
「毛はね、温かさも逃がさないけど、冷たさも逃がさないの。夏に氷を運ぶとき、毛布でくるむでしょう。あれと同じ」
番人は、動かなかった。
母さんは、番人の返事を待たずに、その肩へマントをかけようとした。
背が、まるで足りなかった。
母さんの手は、番人の腰のあたりまでしか届かない。しばらく背伸びをしていたが、そのうちに、後ろを振り返った。
「ガルドさん、お願いできる?」
ガルドは、斧を氷の床に置いた。
それから、マントの端を口にくわえて、番人の体を這うようにして登った。ゴブリンの爪は、氷によく刺さるらしい。
番人は、動かなかった。
背中にゴブリンを張りつかせたまま、じっとしていた。
ぼろぼろの外套の上から、灰色のマントが重なった。
俺は、番人の体の表面を見ていた。
曇りは、広がらなかった。溶ける気配もない。
毛の下で、三百年ぶんの霜は、霜のままだった。
番人が、指を動かした。
氷でできた太い指が、肩のマントの縁に触れる。糸のほつれを確かめるような、ひどくゆっくりした動きだった。
「襟は、こう」
母さんは背伸びをして、マントの襟を直した。届かないところは、また背中のガルドが直した。
「はい。これでいいわ」
「……マルタさん、あんた、何してんだ」
ベックさんが、松明を持ったまま、かすれた声で言った。
「見てのとおりよ」
見てのとおりではあった。
母さんは、番人の胸のあたりに顔を近づけた。
「あら。中に、糸が入ってるのね」
言われて、俺も気づいた。
氷の内側に閉じこめられていた繊維は、外套の毛だった。三百年のあいだに、少しずつ体に取りこまれたのだろう。
「……古い外套だ」
番人が、そう言った。
「ご主人様が、置いていかれた」
「じゃあ、この新しいのも、そのうち中に入るわね」
母さんは、なんでもないことのように言った。
*
番人が、顔を動かした。
初めて、母さんのほうへまっすぐ向いた。
氷の中の気泡が、松明の光を受けて、ゆっくりと動いたように見えた。
「……なぜ」
番人が言った。
「なぜ、そのようなことを」
「寒そうだったから」
母さんは、そう答えた。
相手が氷でできているという事実は、この人の中では、たぶん何の障害にもなっていない。
「それと、破れたままだと、みっともないでしょう」
ロザさんが、俺の横で小さく吹き出した。ベックさんは天を仰いでいた。
ニールさんは、毛にくるまれた右手を胸に抱えたまま、口を半分開けている。
番人は、肩のマントを見おろしていた。
それから、また母さんを見た。
「……座られよ」
番人は、そう言った。
「長い話になる」




