母という一文字
『アストラル・クロニクル』のオープニングムービー。燃え落ちる水車小屋、崩れた見張り塔、灰の降る麦畑。
その真ん中で膝をつく、十八歳の勇者リオ。美術班が三週間かけた、会心のカットだった。
そして勇者の過去設定の欄には、たった一行。
〈故郷の村は魔王軍に焼かれ、母は勇者をかばって死んだ〉
書いたのは俺だ。企画会議の合間に、十五分で。主人公の動機付けとしては、それで十分だと思った。
母親が死ねば、プレイヤーは勇者に感情移入する。工数もかからない。
俺の本業は、レベルデザインだ。経験値テーブルと、マップと、敵の湧き。文章は仕事ではなかった。
ただ、シナリオ担当がひとり辞めてから、キャラクターの設定欄や、セリフの一部や、ヒント文の穴埋めまで、俺に回ってくるようになった。
本業の合間に書く文章は、たいてい一行で済ませた。
勇者の母親の一生も、一行だった。
ベッドの縁に座ったまま、指を折って数えた。本編開始時、勇者は十八歳。俺は今日で十五歳になる。
三年。
三年で、魔王軍の先遣隊を追い返せるだけの力をつける。できるか? ——できる。
俺はこの世界の経験値テーブルを、この手で書いた人間だ。
どこの狩場が一番効率がいいか、どのボスが何を落とすか、全部頭に入っている。
最短ルートを組めばいい。仕様書どおりに。
頭の中で攻略チャートが組み上がっていく。初週は森のスライムでレベル五まで。二週目は北の洞窟で——
「リオー? 起きてるー?」
階下から、間延びした声がした。
*
台所に下りると、母さんが鶏小屋から戻ってきたところだった。前掛けのポケットに卵を三つ入れて、残りの一つを両手で包んでいる。
「今日もありがとうねえ」
卵に言っていた。正確には、卵を産んだ雌鶏に向けて、卵越しに言っていた。
十五年見てきた光景なのに、三十二年分の目で見ると、なかなかに味わい深い。
マルタ。三十九歳。ハルテ村の、ごく普通の母親。
ゲームの中で、この人には名前がなかった。立ち絵もない。ボイスもない。
俺が十五分で書いた一行の中の、「母」という一文字。それがこの人の全部だった。
「あら」
母さんが、緑の目をまるくして、俺の顔をのぞき込んだ。
「顔色悪いわね。ちゃんと食べてる?」
喉の奥が、ぎゅっと詰まった。
「……毎日一緒に食べてるだろ」
「そうだったわね」
母さんはそばかすの散った頬をゆるめて、ころころと笑い、テーブルの上を指さした。
籠があった。でかい。俺の上半身くらいある。黒パンが四つ、チーズの塊、干し肉、ゆで卵が六つ、林檎、それに蓋つきの壺。
「……これ、何」
「お弁当よ。今日は冒険者の登録でしょう? 初日はお腹がすくもの」
「一人で食う量じゃない」
「お友達ができたら、分けてあげなさい」
冒険者ギルドは友達を作りに行く場所じゃない、と言いかけてやめた。この人に通じる理屈ではない。十五年分の経験がそう告げている。
「それとね、お母さんもギルドまで一緒に行くわ」
「は?」
「籠、重いでしょう。それに森のほうで薬草を摘みたいの。ついでよ、ついで」
それから母さんは、思い出したように手を叩いた。
「あ、それと、お誕生日おめでとう」
十五歳の誕生日の祝いの言葉は、薬草摘みのついでのさらにあとに来た。
この人らしい、と十五年分の俺は思い、三十二年分の俺は、少しだけ笑いそうになった。
母親同伴の冒険者登録。弁当つき。
勇者の初登場イベントとして、これ以上ない最悪の絵面だった。俺が演出担当なら即リテイクを出している。
だが、まあいい。登録を済ませたら、母さんには薬草摘みに行ってもらって、俺は森でスライムを狩る。
初日の予定に支障はない。チャートは守れる。
俺は、ため息まじりに前髪をかき上げた。
「……わかった。ギルドまでな」
「はいはい」
小柄な母さんは、籠を持ち上げようとして、ふっくらした腕をぷるぷるさせた。籠は、びくともしなかった。
結局、背負い紐をくくりつけて俺が背負った。
*
ギルドの出張所までは、村の真ん中を突っ切って歩く。
背中の籠がずっしりと重い。母さんは赤茶の三つ編みを背中で揺らしながら、鼻歌まじりに俺の半歩前を行く。
「籠、重いでしょう」と言ってついてきたはずの人が、手ぶらだった。
「ダグさん、おはよう」
鍛冶屋の前で、熊みたいな男が炉に火を入れていた。
「おう、マルタさん。リオも、今日が登録だったな。ほら、持ってけ」
ダグさんは作業台から短剣を一本取って、鞘ごと俺に放ってよこした。
「いや、お代は」
「誕生日祝いだ。そのかわり、最初の獲物を見せに来い」
受け取った短剣は、見た目よりずっと手に馴染んだ。
ゲームの勇者の初期装備は、木の棒だった。村が焼けたあとで、ろくな武器が残っていないという設定だったからだ。
焼ける前の村には、鍛冶屋がいて、短剣をただでくれる男がいた。
水車小屋の前では、トマスじいさんが荷車の車輪を直していた。
「マルタさん、南の森に行くのかい。気をつけなよ。去年の秋、ゴブリンどもにカブ畑をやられたからな。今年もそろそろ出るころだ」
「まあ、大変ねえ」
「大変なんてもんじゃない。次に見かけたら、石ぶつけて追っ払ってやる」
トマスじいさんは、足もとの石ころを忌々しそうに蹴った。
広場では村長が収穫祭の飾りつけを指図していて、その足もとを、鼻水をたらしたピムが走り回っていた。
「リオにいちゃん、ぼうけんしゃになるの?」
「なるよ」
「まものやっつける?」
「やっつける」
ピムは歓声をあげて走っていった。今年で六つになる。三年後には、九つだ。
挨拶をされるたびに、母さんは足を止める。そのたびに、俺も足を止める。
この人たちも、ゲームには一人も出てこない。
オープニングムービーの焼け跡に、人影は描かれていなかった。
焼けた村に何人住んでいたか、誰が住んでいたか、そんなことは誰も決めなかった。決める必要がなかった。
焼け跡は背景で、背景に名前はいらない。
三年後、この人たちは、あの背景の中にいる。
背中の籠の紐を、握り直した。
だから、最短で強くなる。それだけだ。
この時点で、俺の最短攻略チャートは、まだ一行も崩れていなかった。
崩れるのは、二時間後だ。




