既読のまま
【ガルド ゴブリン Lv.8】
森の窪地に、痩せこけたゴブリンが倒れていた。三年後、この森の奥で勇者を待ち構えるはずの、チュートリアルの中ボスだ。
その横に、母さんがしゃがみ込んでいた。
小柄で、ふっくらした人だ。赤茶の髪を太い三つ編みにして、背中に垂らしている。
生成りの前掛けの裾には、なぜかスライムが一匹、貼りついていた。
そばかすの散った丸い頬を、母さんは心配そうに傾けた。緑の目が、倒れた中ボスの顔をのぞき込んでいる。
「あら。顔色悪いわね」
弁当籠を背負ったまま、俺は言った。
「母さん。それ、中ボスです」
「ちゅうぼす?」
母さんは緑の目をしばたたかせて首をかしげ、それから、中ボスの額に手を当てた。
「熱はないわね。お腹すいてるの?」
その日、俺の最短攻略チャートは、一行目から崩れた。
——話は、その前の晩にさかのぼる。俺がまだ三浦圭介という名前で、この世界とは別の場所にいた夜に。
*
午前二時のオフィスで、俺は経験値テーブルの数字をにらんでいた。
レベル十二から十三に上がるのに必要な経験値、四千二百。
ここを四千にするか四千四百にするかで、ユーザーの継続率が〇・三パーセント変わる。変わる、と上が言っている。
根拠は知らない。聞いたら「感覚値」と返ってきた。
明日の正午から『アストラル・クロニクル』の周年イベントが始まる。仕様変更は今日だけで四回目だった。
経験値テーブルは、ゲームの呼吸だと俺は思っている。
レベルが上がる気持ちよさを、プレイヤーが飽きる直前に一回だけ渡す。
少し足りないくらいが、いちばん長く遊んでもらえる。この七年、俺はその「少し足りない」を数字で作ってきた。
嫌いな仕事ではなかった。むしろ、得意だった。
画面の向こうの何十万人が、俺の決めた数字どおりに喜んだり、ため息をついたりする。
それを継続率のグラフで眺めるのは、悪くない気分だった。
フロアに残っているのは、もう俺ひとりだ。空調は零時に止まっていて、モニターの熱だけが顔に当たる。
キーボードの横には、夕方にコンビニで買ったまま封も切っていないおにぎりが、ひとつ転がっていた。
四回目の修正の途中で、ふと机の端のスマホを手に取った。母とのトーク画面は、夕方七時に届いたメッセージで止まっている。
〈ちゃんと食べてる?〉
夕方七時は、三回目の仕様変更の打ち合わせの最中だった。
「やっぱ四千四百かなあ。いや、四千二百か。三浦くん、どっちが気持ちいい?」
プロデューサーはそう言って、ホワイトボードの数字を指で叩いた。
どっちが気持ちいいかは、数字を見ればわかる。わかるように作ってあるからだ。
俺が四千二百を推すと、プロデューサーは「だよね」とうなずいた。それが三回目だった。
会議室のテーブルの上で画面が光ったとき、隣に座っていた後輩が小声で言った。
「三浦さん、お母さんからじゃないですか」
「あとで返す」
俺は通知を開いて、一行だけ読んで、閉じた。それで終わりだった。
一行返す暇くらい、いくらでもあった。十秒もかからない。「食べてる」の四文字でよかった。
既読の二文字は、向こうの画面にも出ているはずだった。
母は地方の町で一人で暮らしている。父が死んでからは十年になる。
電話は月に一度くらいかかってきて、俺は三回に一回くらいしか出ない。
話すことはいつも同じだ。ちゃんと食べてるか。寝てるか。正月は帰ってくるのか。
正月には、もう三年帰っていない。
スマホの時計は、二時十四分を表示していた。
今から返せば、午前二時の通知で母を起こすだけだ。明日の朝に返そう。イベントが落ち着いたら電話もしよう。来週あたりにでも。
スマホを伏せて、封の切られていないおにぎりを見た。
食べてない、と正直に返したら、あの人はたぶん三日くらい心配する。だから朝になってから「食べてる」と返せばいい。
嘘にはならない。朝には、たぶん食べているから。
修正の続きに戻ろうとして、キーボードに手を置いた。
その「明日の朝」が来ないことを、俺は胸の真ん中の、ひどく熱い痛みで知った。
息が吸えなかった。椅子ごと体が傾いて、キーボードに額がぶつかる音がした。
画面の中で、四千二百という数字がにじんでいく。誰かを呼ぼうとして、フロアに誰もいないことを思い出した。
最後に考えたのは、ああ、四千二百のままマスターデータに反映してなかったな、ということだった。
母のことではなかった。
我ながら、ろくでもない人生だったと思う。
*
天井に、太い梁が通っていた。
見慣れた梁だ。十五年、毎朝見てきた。
節の形が犬の顔に似ていて、子どものころは「ポチ」と呼んでいた。
——ポチ? この世界に、犬をポチと呼ぶ文化はない。なのに俺は、ずっとそう呼んでいた。
頭の中に、二人分の人生が同時に流れ込んでいた。
ハルテ村の少年リオとしての十五年。ゲーム会社のレベルデザイナー、三浦圭介としての三十二年。
どちらも俺だった。どちらの記憶にも、ちゃんと手触りがある。
春の麦畑の匂いと、深夜のオフィスの乾いた空気が、同じ重さで頭の中に並んでいる。
母さんの焼く黒パンの味と、コンビニのおにぎりの包装をはがす音が、どちらも昨日のことのように思い出せる。
いや、おにぎりの包装ははがしていない。はがさないまま、死んだのだ。
気づくと、枕元に手を伸ばしていた。スマホを探して。
指先に触れたのは、藁の詰まった枕と、ざらざらした麻の布だけだった。
そうか、と思った。それ以上は、考えないことにした。
吐き気をこらえて体を起こした。窓辺の水桶をのぞき込むと、見覚えのある顔が映っていた。
赤茶のくせ毛。少し垂れた緑の目。勇者リオの立ち絵だ。キャラクターデザイナーが三回描き直して、ようやくOKが出た顔。
ただ、立ち絵より三つ若い。頬には、昨日の畑仕事でつけた擦り傷がある。立ち絵に擦り傷はなかった。
水桶の中の少年は、十五歳にしては線が細かった。
それから、もうひとつ気づいた。この赤茶の髪も、垂れた緑の目も、母さんにそっくりだ。
キャラクターデザイナーが三回描き直した勇者の顔は、母親譲りだったのだ。
そんなことは、設定資料のどこにも書いていない。
窓の木戸を押し開ける。冷たい朝の空気が流れ込んできた。朝霧の向こうに、麦畑と、水車小屋と、丘の上の古い見張り塔が見えた。
知っている。この景色を、俺は知っている。
ただし——焼け跡として、だ。




