夜の出張所
村に帰り着いたのは、次の日の夕方だった。
広場の炊き出しの列は、出かける前より長くなっていた。
大ネズミ、森オオカミ、歩くキノコ。それに、見覚えのある顔がいくつも混じっている。
洞窟コウモリが、井戸の釣瓶の横木にずらりとぶら下がって、順番を待っていた。
岩ネズミは、大ネズミの後ろに行儀よく並んでいた。
光るムカデは、手を洗うのに時間がかかっていた。足が多いからだ。
北の洞窟の住人は、主を除いて、全員ここにいた。
「おう、帰ったか」
ダグさんが、薪を割る手を止めて手を振った。
「獲物は?」
「ゼロ」
ダグさんは、腹を抱えて笑った。
ガルドが、鍋の前に立っていた。
「戻ったか」
「うん。……留守のあいだ、どうだった」
ガルドは、前掛けのポケットから木の板を取り出した。板には、刻み目がびっしりと並んでいた。
「昨日、三十一。今日は、今のところ二十八」
椀の数だ。ガルドは、炊き出しに来た者の数を、刻み目で数えていたらしい。
「全員、手を洗わせた」
ガルドは、少しだけ胸を張った。
「ムカデは、足が四十二本ある。全部洗った」
数えたのか。
「それから、全員に祈らせた。コウモリは逆さまのまま祈った。逆さまでもいいのか、わからなかったが」
「いいのよ」
母さんが、にこにこと答えた。
「気持ちが大事なんだから」
ガルドは、ほっとしたようにうなずいた。
トマスじいさんが、今日もカブを荷車で運んできていた。
井戸の横では、ピムが大ネズミの背中に乗ろうとして、母親に叱られていた。
ダグさんは、森オオカミの婆さんに薪を運ばせながら、何か話しかけていた。
村は、平和だった。
平和すぎて、困る人が一人だけいた。
*
その夜、出張所の窓に、明かりがついていた。
のぞくと、ホルストさんがカウンターの中に立っていた。片手に帳簿、片手に冷めたパン。
帳簿をめくりながら、立ったままパンをかじっている。
見覚えのある光景だった。
前世の俺の机にも、封を切らないおにぎりが転がっていた。
「こんばんは」
後ろから、母さんの声がした。湯気の立つ壺を抱えている。夜食の差し入れだ。
「あ、ああ。マルタさん」
「ホルストさん」
母さんは、ホルストさんの手元を見て、眉を寄せた。緑の目が、冷めたパンと帳簿を、順番に見た。
「書類を見ながら食べないの。座って」
ホルストさんは、灰色の目をしばたたいた。それから、言われたとおりに帳簿を閉じて、カウンターの内側の丸椅子に腰をおろした。
母さんが、壺のスープを椀によそう。キノコと豆のスープだった。
「大地の恵みに感謝を」
「……大地の恵みに、感謝を」
ホルストさんは、スープをひと口すすって、長い息を吐いた。
「……うまいな」
「でしょう」
座って、手を止めて、温かいものを食べる。たったそれだけのことを、前世の俺は、最後の夜にしなかった。
*
スープを飲みながら、ホルストさんは少しだけ昔の話をした。
若いころは、それなりに名の知れた冒険者だったこと。
十年前、ハルテ村の近くで魔物に膝をやられ、この村の人たちに看病してもらったこと。
治っても、元のようには走れなくなったこと。
「寝こんでるあいだ、毎日スープを持ってきてくれた人がいてな」
ホルストさんは、椀の中を見た。
「マルタさんだ。同じ味だよ、これ」
母さんは、目尻に笑いじわを寄せて、覚えていないという顔で笑っていた。たぶん、本当に覚えていない。
この人にとっては、誰にでもしていることだからだ。
「それで、ここに残った。出張所の受付なら、走らなくていいからな」
十年。この雑貨屋の奥で、月に数枚の依頼を受けつけて、帳簿をつけてきた。
「王都の本部に行けば、給金は上がる。書類係だ。悪い話じゃない」
ホルストさんは、壁の掲示板を見た。留め釘が四本、刺さっているだけの掲示板を。
「ただ、まあ。ここの帳簿は、俺がつけたかったんだがな」
この出張所は、ゲームには出てこない。本編が始まるころには、雑貨屋ごと灰になっているからだ。
その灰の中に、十年分の帳簿も含まれていたのだと、今さら気づいた。
俺は、掲示板の前に立った。
掲示板の上には、依頼の種類を示す札が四枚、打ちつけてある。討伐、採取、護衛、捜索。
どれも、冒険者が魔物と戦うか、魔物から何かを守るための依頼だ。
当たり前だ。ゲームの依頼は、プレイヤーを戦闘に向かわせるための導線として作った。依頼は、戦いへの入り口だった。
でも、この村には今、戦う相手がいない。
「ホルストさん。依頼って、戦う話じゃなくてもいいんですよね」
「規程上はな。薬草採取だって依頼だ」
「じゃあ、手伝いは? 道案内とか、荷運びとか、探し物とか」
「依頼主がいればな」
ホルストさんは、空の椀を置いた。
「誰が、金を出す?」
答えられなかった。
村の人たちは、困っていない。困っていないから、依頼を出さない。
依頼は、誰かが困ったときに生まれる。困っている誰かが、報酬を払ってでも助けてほしいと思ったときに。
この村で、今、困っているのは誰だろう。
ホルストさんくらいしか、思いつかなかった。
「俺が依頼を出して、俺が受けるのは」
「依頼主と受注者が同じなのは、規程違反だ。第七条」
即答だった。十年分の帳簿は、伊達ではないらしい。
母さんは、俺たちのやりとりを、壺を抱えたまま、にこにこと聞いていた。たぶん、半分もわかっていない。
明日、査察官が来る。
依頼は、まだゼロ件だ。




