卵泥棒
夜になった。
洞窟の中では、昼も夜も大して変わらない。時間の目盛りになるのは、松明の減り具合くらいのものだった。
母さんは卵のそばに座って、小さな声で歌っていた。子守歌だ。俺も、十五年前に聞いていたはずの歌だった。
松明の火が、母さんの丸い頬と赤茶の三つ編みを、橙色に照らしていた。
主は、まだ戻らない。地底湖の水を飲んで、そのまま、湖のほとりで眠ってしまったらしい。何日ぶりかの食事のあとだ。無理もない。
「リオも、夜泣きがひどかったのよ」
母さんが、歌の合間に言った。
「覚えてない」
「そうでしょうね。お母さんは、覚えてるけど」
母さんは、肩掛けの上から、卵をそっと撫でた。
「毎晩、この歌を歌ったの。三回歌うと、寝たのよ。四回目で起きちゃうこともあったけど」
三回で寝て、四回目で起きる。まるで、湧き間隔の設定みたいだと思った。思ってから、自分の頭のつくりに、少しうんざりした。
俺は広間の入り口で、壁にもたれて通路のほうを見張っていた。見張りというより、眠れなかっただけだ。
*
通路の奥に、明かりが揺れた。
松明が三つ。足音も三つ。
現れたのは、冒険者の三人組だった。大柄な剣士。弓を背負った女。まだ若い、痩せた魔術師。
剣士の頬には、古い刀傷があった。弓の女は、短く切った金髪を革紐で縛っている。いちばん後ろの魔術師は、青白い顔で杖にすがっていた。
【ベック 剣士 Lv.11】【ロザ 弓兵 Lv.10】【ニール 魔術師 Lv.9】
「おい、坊主。こんなところで何してる」
剣士が松明をかざした。それから、広間の奥の母さんと、卵に気づいた。
「……主は、いないのか」
剣士の声の調子が、変わった。
弓の女が、懐から紙を取り出した。見覚えのある書式だ。ギルドの依頼書。
〈北の洞窟 岩トカゲの卵の採取 一個につき銀貨三十枚 依頼主:ギルド本部素材部〉
卵ひとつで、銀貨三十枚。五つで百五十枚。村の家族が、一年暮らせる額だ。
そのとき、ようやくわかった。
ゲームの設定欄の〈凶暴な主〉。三年後、この洞窟で勇者を待つ主が、なぜ凶暴なのか。
卵を奪われたからだ。
三年後の凶暴な主は、今夜、ここで生まれる予定だった。
*
「悪いことは言わない」
俺は、剣士の前に立った。
見上げなければ、顔が見えなかった。十五歳の俺の頭は、剣士の肩にも届かない。
「子連れの主は、攻撃力が一・五倍になる。尻尾の薙ぎ払いは全体攻撃で、後ろの弓まで届く。岩の吐き出しは、魔術師の詠唱より速い。推奨レベルは十八」
三人が、顔を見合わせた。
「あんたたちは、十一と、十と、九だろ」
「……なんで、わかる」
答えるわけにはいかなかった。その数字を決めたのが俺だから、とは。
剣士は、しばらく黙っていた。それから、苦い顔で首を振った。
「主は今、いない。一個でいい。一個持って帰れれば、三十枚になる」
「兄さん」
弓の女が、剣士の袖を引いた。
「無理しなくていいって言ったでしょう。弟の薬代なら、また別の依頼で……」
「別の依頼って、どれだ。この辺の依頼は、なぜか今月、全部消えてる」
剣士の声が、洞窟に響いた。
俺は、何も言えなくなった。その「なぜか」の理由を、俺は知っている。
剣士が、一歩踏み出した。
「悪いな、坊主。恨むなら、依頼を出した奴を恨め」
伸びてきた手が、俺の襟をつかんだ。
十五歳の体は、面白いように浮きあがった。つま先が、地面から離れる。
視界の隅に、枠が開いた。
【ベック 剣士 Lv.11】
名前が、赤くなっていた。敵対を示す色だ。
「——その子を、おろしなさい」
声は、大きくなかった。
ただ、低かった。十五年で、一度も聞いたことのない低さだった。
剣士の手が、止まった。ゆっくりと、俺のつま先が地面に戻る。
母さんは、卵の横に立っていた。前掛けのまま、武器も持たず、俺より頭ひとつ小さい。
それなのに、三人とも動かなかった。
しばらくして、母さんは、いつもの調子で首をかしげた。
「……あら。お腹、すいてない?」
母さんは、卵の横に置いてあった弁当籠を持ちあげた。
三人は、母さんの手元の籠を見た。それから、母さんの顔を見た。
剣士の腹が、盛大に鳴った。
「食べる前は、手を洗ってね」
水筒の水で三人の手を洗い、地面に座らせ、黒パンとゆで卵と干し肉を配る。
母さんの手順は、ゴブリンのときとも、主のときとも、何も変わらなかった。
「大地の恵みに感謝を」
「……大地の、恵みに、感謝を」
視界の枠の中で、赤かった名前が、三つとも白に戻っていた。
三人は、黙って食べた。一日、何も食べていなかったらしい。依頼書だけを頼りに、ここまで来たのだ。
食べながら、弓の女がぽつぽつと話した。故郷の町で、弟が熱を出して寝込んでいる。薬が高い。だから、この依頼を受けた。
母さんは、目尻を下げて、うなずきながら聞いていた。
「熱冷ましなら、いい薬草があるのよ」
母さんは摘み籠をかき回して、葉っぱの束を取り出した。村の森で摘んでいた薬草だ。
「煎じて、朝と晩に一杯ずつ。三日で下がるわ。お母さん、薬草には詳しいの」
弓の女は、両手で薬草の束を受け取った。
剣士は、しばらくそれを見ていた。それから、依頼書を丸めて、懐にしまった。
「……帰るぞ」
三人は、来たときより静かに、通路を戻っていった。去りぎわに、剣士が一度だけ振り返って、母さんに頭を下げた。
松明の明かりが、通路の奥に消えていった。
三年後、この洞窟で勇者を待つ主は、たぶん、もう凶暴にはならない。
たぶん、というところが、少しだけ怖かった。設計図のない未来を、俺はまだ一度も歩いたことがない。
*
明け方、卵が孵った。
最初に殻を割ったのは、いちばん大きな卵だった。灰色の小さな頭が、殻のすきまからのぞいた。
ちょうどそこへ、主が湖から戻ってきた。
主は、母さんの横で立ち止まった。一匹、また一匹と殻を破って出てくる子どもたちを、細い目で見下ろしていた。
喉の奥で、低く、長く、音を鳴らした。威嚇の音とは、まるで違った。
「みんな、元気ね」
母さんは、一匹ずつ指さした。
「この子はカブ。この子はニンジン。それから、ダイコン、ゴボウ、レンコン」
【岩トカゲ(カブ) Lv.1】【岩トカゲ(ニンジン) Lv.1】【岩トカゲ(ダイコン) Lv.1】
括弧の中の名前が、五つ並んだ。
「……なんで、野菜」
「覚えやすいでしょう?」
今回も、戦闘は一度も起きなかった。俺の獲得経験値は、ゼロのままだった。
帰り道、背中の弁当籠は、行きより少しだけ重い気がした。母さんが摘んだキノコを、籠に移したせいだろう、と俺は思った。




