お母さん同士
岩だと思ったのは、鱗だった。
馬を二頭並べたくらいの体が、広間の奥にうずくまっている。灰色の鱗は、ごつごつした岩肌にそっくりだった。
細い目が、松明の火を映して光った。
ゲームの設定欄は、一行。
〈洞窟の奥に棲む凶暴な主〉
攻撃パターンは三つ。噛みつき、尻尾の薙ぎ払い、岩の吐き出し。HPが半分を切ると、怒り状態になる。撃破時の経験値は、四百八十。
四百八十あれば、レベル——
そこで、計算をやめた。
Lv.1の俺が勝てる相手ではないから、ではなかった。それもあるが、それだけではなかった。
主の体の下に、何かがある。
卵だった。
人の頭ほどの、白い卵が五つ。主は体を丸めて、それを抱えこんでいた。
よく見ると、主の脇腹は、あばらが浮くほどへこんでいた。
計算を途中でやめたのは、初めてだった。
【ヒント:フィールドボスは強力です。十分にレベルを上げてから挑みましょう】
そのヒントの横を、母さんがすたすたと歩いていった。
「母さん」
俺の声は、洞窟の中で情けなく反響した。
「それ、卵を守ってるボスです」
「あら」
母さんは足を止めて、緑の目をぱちぱちさせながら、主と、主の抱えた卵を見比べた。
「じゃあ、お母さん同士ね」
主が、低く喉を鳴らした。威嚇の音だ。ゲームでは、この音のあとに噛みつきが来る。予備動作は〇・八秒。
その〇・八を打ちこんだ覚えもある。
母さんは、かまわずに一歩近づいた。小柄な母さんの頭は、主の顎の高さにも届かない。
「ずいぶん痩せてるわね。卵を温めてて、ご飯を取りに行けないのね」
主の喉の音が、少しだけ小さくなった。
母さんの言葉で、俺もようやく気づいた。
この洞窟の魔物は、主の食べ物でもあったのだ。コウモリも、ネズミも、ムカデも、全部、村の炊き出しへ出ていった。
卵を抱えて動けない主だけが、食べ物のなくなった洞窟に取り残された。
炊き出しのせいだ。
つまり、母さんのせいだ。
もちろん、母さんはそんなことは知らない。
「リオ、籠おろして」
俺は弁当籠をおろした。母さんは中から干し肉を取り出し、それから、ゆで卵を——
「母さん、卵はやめよう」
「……そうね。卵はやめましょうね」
母さんはゆで卵をそっと籠に戻して、干し肉と黒パンと、羊飼いの少年にもらったチーズを主の前に並べた。それから、水筒の栓を抜いた。
「食べる前は、手を……」
言いかけて、母さんは主の前足を見た。岩のような鱗と、太い爪。
「……手は、ないのね。じゃあ、足を洗いましょう」
母さんは主の前足に、水筒の水をかけた。手ぬぐいで、爪の一本一本を拭いていく。
主は動かなかった。細い目で、じっと母さんを見ていた。
俺は、息をするのも忘れていた。主の口は、母さんの頭の真上にある。噛みつきの予備動作が来たら、〇・八秒。間に合わない。
予備動作は、来なかった。
「大地の恵みに感謝を」
母さんが、主の代わりに言った。
「はい、どうぞ」
主は干し肉に鼻先を寄せ、しばらく匂いをかいでから、ひと口で飲みこんだ。黒パンも、チーズも、ひと口だった。
飲みこみながら、主の喉がごろごろと鳴った。
「口に物を入れたまま、鳴らさないの」
主の喉の音が、ぴたりと止まった。フィールドボスが、行儀を注意されていた。
視界の枠の中で、主の名前が、赤から白に変わった。
*
「奥さん」
母さんは、主のことをそう呼んだ。近所の人に呼びかけるのと、まったく同じ調子だった。
「少し、お水でも飲んできたら? 卵は、見ててあげるから」
主は、母さんを見た。それから、俺を見た。正確には、俺の手の短剣を見た。
俺は、短剣を鞘に戻した。
主はしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと体をほどいた。五つの卵が、松明の明かりの中にあらわになる。白い殻の表面に、うっすらと灰色の模様が浮いていた。
主は一度だけ、卵のひとつひとつに鼻先を寄せた。それから、地底湖のほうへ、重たい足取りで歩いていった。
何日も同じ姿勢でいたのだろう。後ろ足が、少しふらついていた。
視界の隅のヒントの枠は、しばらくそこに残っていた。誰にも読まれないまま、やがて、ふっと消えた。
母さんは卵の横に腰をおろして、自分の肩掛けを卵にかけた。
「冷えちゃうものね」
それから、卵のひとつひとつに顔を近づけて、話しかけた。
「早く出てきてね。お母さん、お腹をすかせて待ってるから」
五つ目の卵に同じことを言い終えると、母さんは満足そうにうなずいた。
気づくと、鞘の上から短剣の柄を握りしめていた俺の手は、もう震えていなかった。
母さんは、摘み籠からキノコを取り出して、弁当籠のほうへ移しはじめた。ここで一晩過ごすつもりらしい。
俺は、まめのある手のひらを、卵のひとつにそっと当ててみた。
温かかった。殻の内側で、何かが小さく動いた気がした。
「五つも温めるなんて、大変よねえ」
母さんが、しみじみと言った。
「お母さんは、リオひとりでも大変だったのに」
「……母さん」
「なあに」
「怖くないの?」
「怖い?」
母さんは、心の底から不思議そうに首をかしげた。三つ編みが、肩の上でころんと転がった。
「何が?」
「……いや。なんでもない」
俺は、広間の入り口の壁にもたれて、座りこんだ。
北の洞窟のボス部屋。チュートリアルの次に来る、最初の本格的な難所。
勇者たちが、何度も全滅して、攻略法を調べて、ようやく突破するはずの場所。
フィールドボスが、卵を、村人Lv.1に預けて出ていった。




