北へ
ゲームのマップで言えば、村から北の洞窟までは、画面の切り替えが三回だ。
森の街道を北へ。丘をひとつ越えて、川沿いに進む。寄り道さえしなければ、昼過ぎには洞窟の入り口に着く。
旅用の肩掛けをはおった母さんは、赤茶の三つ編みを弾ませて、俺の前を歩いていく。足取りだけは、やけに軽い。
母さんは、寄り道しかしなかった。
最初は、街道ですれ違った行商人だった。
「襟が曲がってるわよ」
母さんは初対面の行商人の襟を直し、ついでに干し肉を一切れ持たせた。行商人は礼を言いながら、首をかしげて去っていった。
五分。
歩きながら、母さんが聞いてきた。
「ねえ、リオ。北の洞窟で、何をするの?」
「……レベルを上げる」
「れべる?」
説明しようとして、また言葉に詰まった。経験値。レベル。ステータス。どれも、この世界の言葉ではない。
「強くなる、ってこと。魔物を倒すと、少しずつ」
「ふうん」
母さんは、緑の目をくるりと上に向けて、しばらく考えるような顔をした。
「背が伸びるみたいなもの?」
「……だいたい、そう」
「じゃあ、たくさん食べないとね」
たぶん、違う。
次は、丘の上の羊飼いの少年だった。羊が一頭いなくなったと、半べそをかいていた。
「一緒に探しましょう」
羊は、丘の反対側の茂みで見つかった。母さんが「メエ」と鳴いたら、茂みの奥から「メエ」と返事があった。
四十分。
少年は何度も頭を下げて、お礼にと、羊の乳で作ったチーズをひとかけくれた。
母さんはそれを大事そうに弁当籠にしまった。籠が、また少し重くなった。
川沿いの道には、小さな石の祠があった。母さんは足を止めて、道端の野の花を供え、長いこと手を合わせていた。
「何をお願いしたの」
「みんなが、お腹いっぱい食べられますように」
みんな、の範囲が、この人の場合はとても広い。
十五分。
昼は、川辺の平たい岩の上で弁当を広げた。
母さんが水筒の水を差し出す。俺は手を洗い、岩に腰をおろし、両手を組んだ。
「大地の恵みに感謝を」
言ってから、気づいた。体が勝手に、座って祈っていた。十五年の習慣は、三十二年分の記憶より強いらしい。
寄り道の合計を、俺は頭の中でつけていた。昼の弁当休憩を入れて、二時間十分。チャートの上では、洞窟コウモリを二十匹狩れる時間だ。
ただ、歩いているうちに、もうひとつ気になることが出てきた。
足跡だ。
街道の土の上に、獣の足跡がいくつも重なっている。ネズミの小さな足跡。細長い何かが這った筋。コウモリが休んだらしい、枝の折れた跡。
全部、南へ向かっていた。
俺たちが来た方角。村の方角だ。
「たくさん通ったのねえ」
母さんは、足跡の上にしゃがみこんで、のんびりと言った。
「みんな、どこへ行くのかしら」
たぶん、あなたの鍋です。
とは、言えなかった。
*
北の洞窟に着いたのは、日が傾きはじめたころだった。
岩壁にぽっかりと開いた入り口から、冷たい風が吹き出してくる。入り口の苔むした岩の陰に、赤い傘のキノコがいくつも顔を出していた。
「あった、あった!」
母さんは摘み籠を抱えて、しゃがみこんだ。
「母さんは、ここにいて。絶対に奥には来ないで」
「はいはい」
返事だけは、いつもいい。
入り口の岩壁には、松明台が三つ並んでいる。二つ目だけ、火が消えている。
そういうふうに、俺が置いた。全部に火がついていると、洞窟の暗さが伝わらないからだ。
二つ目には、やはり火がついていなかった。そこだけは、仕様どおりだった。
俺は自分の松明に火をつけ、短剣を抜いて、洞窟に入った。
入り口から十歩のところに、最初の湧き地点がある。洞窟コウモリが三匹、天井からぶら下がっている、はずだった。
天井には、何もぶら下がっていなかった。
二つ目の湧き地点。岩ネズミの巣穴が並ぶ、右の横穴。巣穴は全部、空だった。
三つ目。光るムカデが群れている、湿った岩場。岩は湿っていたが、ムカデは一匹もいなかった。光もない。
松明の明かりの中で、俺は地面にしゃがんだ。
足跡があった。小さいのも、細長いのも、全部が入り口のほうへ向かっている。
洞窟の魔物まで、炊き出しの噂を聞いて出ていったのだ。
洞窟コウモリが三十匹。岩ネズミが四十匹。光るムカデが二十匹。この洞窟の湧き上限は、そう設定してある。
その九十匹が、村に向かっている。今夜の井戸の列は、とんでもない長さになっているはずだ。
ここから村までは、人の足で半日。魔物の足なら、もっと早い。
俺の遠征計画は、目的地に着いた時点で、目的ごと消えていた。
*
「リオー?」
入り口のほうから、母さんの声が響いてきた。
「奥のほうに、もっとキノコがあるみたいなのよー」
「母さん、奥はだめだ!」
叫んだときには、母さんの足音はもう、洞窟の奥へ向かっていた。俺がいる岩場とは別の、まっすぐに下っていく本道のほうだ。
北の洞窟の最深部は、ボス部屋だ。
入り口付近の雑魚がいなくなっても、あそこにいるものだけは動かない。ボスは、ボス部屋から出ないように作ってある。
走った。
本道を駆け下りる。足もとの石が転がって、暗がりの底へ落ちていく。松明の火が揺れて、壁の影が大きく伸び縮みした。
狭い通路を抜けると、天井の高い広間に出た。どこかで、水の音がする。地底湖だ。
母さんは、広間の入り口にしゃがんで、赤いキノコを摘んでいた。
「ほら、こんなに」
「母さん、動かないで」
広間の奥で、岩が動いた。
【岩トカゲ(洞窟の主) Lv.12】
名前は、赤く表示されていた。




