討伐依頼ゼロ件
カウンターの向こうで、受付の男が机に突っ伏していた。
「……今月の新規依頼は、ゼロ件だ」
顔を上げずに、男は言った。俺が何か聞く前にだ。
ホルストさん。
この出張所の受付の名前を、俺は知っていた。十五年この村で暮らしたリオは、もちろん知っている。
なのに記憶が戻ってからの数日、俺は頭の中で、この人をずっと「受付の男」と呼んでいた。
ゲームには出てこない人だからだ。
設定欄のない人の名前を、俺の頭は、背景として片づけていた。
「ホルストさん。ゼロって、一枚も?」
「一枚も」
ホルストさんは、ようやく体を起こした。目の下に、濃い隈がある。
白髪まじりの短い髪に、剃り残しの無精ひげ。カウンターに置いた手は、元冒険者らしく、節くれだって大きかった。
「討伐依頼ってのはな、農家が出すもんだ。畑を荒らされた、鶏を取られた、羊が襲われた。そういうのが来て、初めて依頼になる」
「……」
「今月、畑を荒らされた家は一軒もない。鶏も羊も無事だ。荒らしそうな連中は、全員、朝から井戸の前で手を洗ってる」
反論のしようがなかった。
「それだけならいい。平和で結構なことだ。問題は、こっちだ」
ホルストさんは、机の上の封書を指で弾いた。ギルド本部の封蝋が押してある。
「ギルド規程、第十二条。『新規依頼が著しく少ない出張所は、統廃合の対象とする』。うちは先月も三枚だった。そこへ今月のゼロだ。月末に、本部の査察が入る」
「月末って、いつ」
「三日後」
ホルストさんは、乾いた声で笑った。
「本部の監査室の連中は、規程を丸暗記してる。情に訴えても、数字で返される」
カウンターの奥の棚には、帳簿が十冊、きっちりと並んでいた。背表紙に、年ごとの数字が書いてある。
「依頼が一件でもあれば、話は変わるんですか」
「一件あれば、ゼロじゃなくなる」
ホルストさんは、いちばん新しい帳簿を指で叩いた。
「ゼロと一は、帳簿の上じゃ大違いだ。だが、この三日で一件、どこから持ってくる」
ホルストさんは帳簿を棚に戻して、肩をすくめた。
「閉鎖が決まったら、俺は王都の本部に異動だ。書類係だとさ。膝をやってから十年、ここにいたんだがな」
他人事ではなかった。
出張所がなくなれば、俺の冒険者証は、王都本部の扱いになる。
依頼を受けるのも、ランクを上げるのも、三日かけて王都まで通うことになる。
Fランクのまま、村で足踏みだ。
経験値が入らないだけでも詰まりかけている計画から、依頼を受ける場所まで消える。
視界の隅で、枠が開いた。
【ヒント:ギルドの掲示板で、討伐依頼を受けましょう】
俺は掲示板を見た。
留め釘が四本、刺さっているだけだった。
わかってる。そのヒント文も、俺が書いた。
*
チャートを、組み直した。
村のまわりに魔物がいないなら、いる場所へ行けばいい。
北の洞窟。チャートでは二週目に予定していた狩場だ。村から歩いて半日。
入り口近くには洞窟コウモリと岩ネズミが湧き、奥へ進むほど強くなる。
最深部には洞窟の主がいるが、そこまで行く必要はない。入り口のあたりを一晩回れば、レベル三には届く。
予定を前倒しして、明日出発する。泊まりになる。
家に帰って、母さんにそう告げた。
ついでに、出張所がなくなるかもしれない、という話もした。
「あら、ホルストさん、どこか行っちゃうの?」
母さんは、そばかすの散った頬に手を当てて、心から残念そうな顔をした。
「さびしくなるわねえ。帰ってきたら、何か持っていってあげましょう」
それで出張所が助かるわけではない。ただ、この人の中では、困っている人がいたら何か持っていく、で話が終わる。
それから、ようやく遠征の話になった。
「北の洞窟?」
母さんは、豆のさやをむく手を止めて、緑の目を上げた。
「北の森のほうね。あっちは、赤い傘のキノコがよく採れるのよ」
嫌な予感がした。
「ガルドさんに約束したでしょう。収穫祭には、キノコのスープを作るって」
「母さん」
「お母さんも行くわ」
「泊まりだよ。洞窟だよ。魔物が出るんだよ」
「あら、村にも毎朝出てるじゃない」
俺は前髪をかき上げて、天井を仰いだ。反論のしようがなかった。今日、二度目だった。
「炊き出しは、どうするんだよ」
「ガルドさんがいるもの」
ちょうど納屋から薪を抱えて戻ってきたガルドが、足を止めた。
ガルドは母さんと俺の顔を見比べて、それから、短くうなずいた。
「……任せろ」
四日前には森で倒れていた中ボスが、今は村の炊き出しを任されている。
台所の水瓶の横で、プルンがぷるんと揺れた。こいつも留守番らしい。
「プルンちゃんも、ガルドさんのお手伝いしてね」
プルンは、ぷるんと揺れた。返事のつもりらしい。
*
夕食のあと、母さんは遠征の支度を始めた。
毛布。水筒を三本。薬草の束。キノコ用の摘み籠。それから、台所の板切れに、炭で何か書きつけていた。
「ガルドさんへの、お願い」
板には、大きな字で三行。
手洗い。
お祈り。
座って食べる。
ガルドは板を受け取って、しばらくじっと眺めていた。それから、俺のほうに差し出した。
「……読んでくれ」
ガルドは、字が読めなかった。
俺が一行ずつ読みあげると、ガルドは一行ずつ、低い声で繰り返した。
三行目まで繰り返してから、板を大事そうに抱えて、納屋へ持っていった。
翌朝、その板は、広場の大鍋を吊るす柱に、釘で打ちつけられていた。
*
その夜、俺は寝床の中で、頭の中の地図を広げていた。
北の洞窟の構造は、隅々まで覚えている。入り口から十歩のところに、洞窟コウモリの湧き地点。
右の横穴に、岩ネズミの巣。湿った岩場に、光るムカデの群れ。
洞窟コウモリは、天井から急降下してくる。着地の瞬間に一拍の隙があるから、そこを突けばいい。
岩ネズミは群れで来るが、一匹ずつの体力は低い。ムカデは光っているから、暗闇でも見失わない。
どれも、俺が数字を決めたものばかりだった。
だから今度こそ、計画どおりに運ぶはずだった。
母さんがついてくる、という一点を除けば。
翌朝、台所のテーブルに置かれた弁当籠は、前回よりひと回り大きくなっていた。




