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よっさん  作者: 斉彬
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夏 - 崩れる予定

六月の空は、はっきりしない色をしていた。


 晴れているのに、どこか曇っている。光はあるのに、輪郭がぼやけている。


 大学の中庭を歩きながら、アユミはスマートフォンをもう一度見た。母からのメッセージは、短かった。


 ――ごめんね。しばらく仕送り、難しいかも。


 その一文のあとに、事情らしき説明が続いていた。父の仕事が不安定になったこと。家のローンのこと。弟の進学のこと。


 どれも、責めるべきものではない。むしろ謝る必要などない、とアユミは思った。


 それでも、画面を閉じたあと、胸の奥に重いものが残った。


 ベンチに腰を下ろし、空を見上げる。雲はゆっくり流れている。


 頭の中で、生活の予定が並び直されていく。


 家賃。

 食費。

 交通費。

 教材費。


 今のアルバイトだけでは、少し足りない。


 もう一つ増やす必要がある。


 そう考えた瞬間、別の予定が浮かぶ。


 水曜の夕方。

 土曜の夜。


 サークルの活動日。


 川沿いの炊き出し。夜回り。


 手帳の予定表を開くと、そこにはいくつもの丸印がついている。参加予定の日だ。


 アユミは、指でその丸をなぞった。


 消すわけではない。

 ただ、現実のほうが少し重くなっただけだ。


 「アユミ?」


 顔を上げると、ミカが立っていた。サークルの同級生だ。肩までの髪を結び、紙袋を抱えている。


 「こんなところで珍しいね」


 「ちょっと休憩」


 ミカは隣に腰を下ろした。


 「今日、来るよね?」


 「今日?」


 「夜回り。新しい子も来るって」


 アユミは一瞬だけ言葉を探す。


 「ごめん。今日バイト」


 「お、忙しいね」


 ミカは軽く笑う。


 「最近よく入ってるよね」


 「うん。ちょっと」


 それ以上は聞かれなかった。ミカは袋からペットボトルを取り出し、一本をアユミに渡す。


 「はい」


 「ありがとう」


 キャップをひねりながら、アユミは思う。


 相談しようと思えば、できる。

 サークルには学生支援の情報もあるし、先輩たちは大学の制度にも詳しい。


 けれど、言葉が口に上がってこない。


 自分の問題をここに持ち込むことが、少しだけ違う気がした。


 ミカはペットボトルを揺らしながら言う。


 「よっさん、昨日もいたよ」


 その名前に、アユミは少し顔を上げる。


 「元気そうだった?」


 「相変わらず。新人にいきなり哲学みたいな質問してた」


 ミカは笑う。


 「“君はなぜここにいるのかね”って」


 アユミもつられて笑う。


 あの問いを、最初に受けた日のことを思い出す。あのときは、答えがあると思っていた。


 今は、少し違う。


 「最近、行ってないでしょ」


 ミカが言う。


 「うん」


 「よっさん、ちょっと寂しそうだったよ」


 冗談の調子だったが、その言葉は小さく胸に引っかかった。


 夜の川沿い。

 柱のそば。

 毛布と文庫本。


 そこに座るよっさんの姿が浮かぶ。


 「また来るだろう、って言ってた」


 ミカは立ち上がる。


 「じゃ、私行くね。ミーティングあるから」


 手を振って去っていく背中を見送りながら、アユミはしばらくベンチに座っていた。


 助ける側でいるということ。


 春のあいだ、ずっと考えていた。


 拒絶されること。

 尊厳という言葉。


 その問いは、まだ胸の中にある。


 けれど今、別の種類の現実が静かに重なってきている。


 財布を開く。中には千円札が二枚。


 生活は、問いよりも具体的だ。


 夕方、アユミは駅前のカフェに向かった。アルバイト先だ。ドアを開けると、コーヒーの香りが広がる。


 店長がカウンターの向こうで手を振った。


 「アユミちゃん、ちょうどよかった」


 「お疲れさまです」


 「来月から、シフト増やせる?」


 言われる前に、自分から聞こうと思っていた。


 「増やしたいです」


 「助かる」


 店長はタブレットを見ながら言う。


 「週三くらい入れる?」


 アユミは一瞬だけ計算する。


 水曜の夜。

 土曜の夜。


 どちらも、サークルの活動日だ。


 「……入れます」


 口から出た言葉は、思っていたより軽かった。


 店長は満足そうに頷く。


 「じゃ、そうしよう」


 カフェの窓の外は、もう暗くなり始めている。街灯がつき、人の流れが増えていく。


 この時間、川沿いでは夜回りが始まっているはずだ。


 毛布を持ち、声をかける。


 こんばんは。

 寒くないですか。


 アユミはエプロンを結ぶ。


 「よろしくお願いします」


 その言葉は、アルバイトに向けたものだった。


 カウンターに立ち、注文を受ける。コーヒーを淹れる。皿を洗う。時間は規則正しく流れていく。


 働くことは、明確だ。

 何をすればいいか、決まっている。


 夜の終わり、店を出たとき、空気は湿っていた。夏が近づいている。


 アユミは駅とは反対方向を見た。


 川のある方角だ。


 行こうと思えば、まだ行ける。

 けれど足は動かない。


 自分の生活を守ることと、誰かの夜に関わること。


 その二つは、同じ地面の上にあると思っていた。


 けれど今、少しだけ傾いている。


 「助ける側でいるって」


 小さく呟く。


 余裕がないとできないのかもしれない。


 夜風が通り過ぎる。遠くで電車の音がする。


 アユミはゆっくり歩き出す。


 予定は崩れたわけではない。

 ただ、並び替えられただけだ。


 それでも、何かが静かに動き始めている。


 夏は、まだ始まったばかりだった。

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