表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
よっさん  作者: 斉彬
10/31

夏 - 頼れない

六月の終わり、雨は降りそうで降らなかった。


 湿った空気が大学の廊下に溜まっている。窓は開いているのに、風がほとんど入ってこない。


 講義が終わり、学生たちが教室を出ていく。ざわめきの中で、アユミはノートを閉じた。


 隣の席で、ミカが伸びをする。


 「暑いね」


 「うん」


 「もう夏だよ、これ」


 アユミは笑う。笑うこと自体は難しくない。


 ミカはスマートフォンを見ながら言う。


 「今日、夜回りだよね」


 その言葉に、胸の奥がわずかに揺れる。


 「うん。でも私、バイト」


 「あーそっか」


 ミカは気にした様子もなく頷く。


 「最近ほんと忙しいね」


 「まあ、ちょっと」


 教室を出る。廊下の窓から、曇った空が見える。


 ミカは歩きながら言う。


 「そういえばさ、昨日さ」


 話題はすぐ別のことへ移る。ゼミの課題、教授の癖、新しくできたカフェ。


 どれも普通の会話だ。


 アユミは頷きながら、頭の奥で別の計算をしている。


 来月の家賃。

 バイトのシフト。

 授業の出席。


 財布の中身。


 その計算は、会話とは別の場所で静かに続く。


 「アユミ?」


 呼ばれて顔を上げる。


 「聞いてる?」


 「聞いてる」


 「ほんと?」


 ミカが笑う。


 「今、完全にどっか行ってたよ」


 アユミも笑う。


 「ごめん」


 謝る理由は、それだけではない気がした。


 キャンパスの出口でミカと別れる。


 「じゃ、夜回り行ってくるね」


 「うん、気をつけて」


 ミカは手を振って歩いていく。


 アユミはその背中を少しだけ見送った。


 言おうと思えば、言えた。


 仕送りが止まるかもしれないこと。

 バイトを増やしたこと。

 生活が少し不安定になっていること。


 言葉にすれば、きっとミカは聞いてくれる。


 けれど、その想像の先に、もう一つの場面が浮かぶ。


 「大丈夫?」

 「相談したら?」

 「学生支援センター行ってみたら?」


 それは、これまで自分が何度も言ってきた言葉だ。


 炊き出しのとき。

 夜回りのとき。

 困っている人の話を聞いたあと。


 相談窓口を案内する。

 制度を説明する。


 それは必要なことだ。間違っていない。


 でも、その言葉を自分が受け取る側に立つと、少し違う響きになる。


 大丈夫?


 その問いは優しい。

 けれど、答えるには少し勇気がいる。


 「大丈夫じゃない」と言うための勇気だ。


 アユミは駅前のカフェに入る。エプロンを結び、カウンターに立つ。


 「いらっしゃいませ」


 注文を聞く。レジを打つ。コーヒーを淹れる。


 手は自然に動く。


 働いているとき、頭の中は静かになる。


 仕事は、明確だ。やることが決まっている。


 客が減った時間、同僚の大学生が話しかけてくる。


 「アユミさん、最近シフト増えましたね」


 「うん、ちょっと」


 「旅行とか?」


 「いや」


 少し笑う。


 「お金貯めようかなって」


 嘘ではない。

 ただ、全部ではない。


 夜、店を出ると、空気はまだ湿っている。


 駅前の明かりが強く、遠くの空は暗い。


 この時間、川沿いでは夜回りが終わるころだ。


 毛布を配り、声をかけ、少し話をする。


 その光景を、アユミは想像する。


 そして、ふと気づく。


 もし今、夜回りの列の中に自分がいたら。


 疲れた顔で立っていたら。


 誰かが声をかけるだろうか。


 「大丈夫ですか」


 「何か必要なものありますか」


 その言葉を、素直に受け取れるだろうか。


 アユミは立ち止まる。


 受け取れない気がした。


 なぜかは、はっきりしない。


 まだ大丈夫だからかもしれない。

 自分はそこまでではないと思っているからかもしれない。


 あるいは。


 助けを求めるということが、想像していたよりも重いからかもしれない。


 春の夜、拒絶した女性の顔が浮かぶ。


 「いらない」


 あの言葉。


 あれは、強さだったのだろうか。


 それとも、守るための壁だったのだろうか。


 駅の改札を通る人の流れを見ながら、アユミは思う。


 助ける側にいるとき、世界は少し整って見える。


 困っている人がいる。

 支援する方法がある。


 けれど、境界が曖昧になると、話は変わる。


 自分がどちら側なのか、はっきりしなくなる。


 その曖昧さの中では、言葉を出すのが難しい。


 頼る、という動作は単純ではない。


 それは、自分の立場を少し下げることでもある。


 弱さを見せることでもある。


 そして、相手の手を受け取ることでもある。


 その全部を引き受けるには、まだ準備ができていない気がした。


 アユミは歩き出す。


 家までの道は、昼と同じはずなのに、少し違って見える。


 揺らぎという言葉が、頭の中に浮かぶ。


 立っている場所が、ほんの少し動いただけだ。


 それでも、景色は変わる。


 助ける側でもなく、助けられる側でもない。


 その間の場所に、今の自分がいる。


 そこから誰かに手を伸ばすこともできないし、誰かの手を取ることもできない。


 ただ、立っている。


 夜は静かだ。


 遠くで電車が通り過ぎる音がする。


 アユミはポケットの中でスマートフォンを握る。


 誰かに連絡することは、できる。


 それでも、画面を開く気にはならない。


 頼るという行為は、思っていたよりも難しい。


 そして、まだその言葉を口にする準備が、自分の中で整っていない。


 夏の空気は重い。


 けれど、どこかで風が動き始めている。


 アユミは静かに歩き続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ