夏 - 再会
雨は降っていなかったが、空気は雨の匂いを含んでいた。
夜の川沿いは、春のころよりも少し重たい。草が伸び、水の流れが濃く見える。遠くで虫の声が混ざり始めている。
その日、アユミは久しぶりに夜回りに参加していた。
アルバイトのシフトが偶然空いた。サークルのグループチャットに「今日行けます」と送ると、ミカからすぐ返信が来た。
――久しぶり!
それだけの言葉だったが、少しだけ胸が軽くなった。
夜回りのメンバーは四人。毛布やペットボトルを袋に入れて、駅前から歩き始める。
最初の数人には、先輩が声をかけた。
「こんばんは。調子どうですか」
何人かは軽く頷き、何人かは手を振って断る。
アユミは後ろで様子を見ながら歩く。春のころよりも、自分の動きが遅くなっているのを感じる。
渡す前に、相手を見る。
それだけのことなのに、前よりも時間がかかる。
歩道橋の下に差しかかったとき、アユミの足がわずかに止まった。
壁に背を預けて座る人影。
短い髪。細い肩。
春の夜に「いらない」と言った、あの女性だった。
胸の奥が少しだけ動く。
先輩は気づかず、少し前を歩いている。
アユミは袋を持ったまま、ゆっくり近づいた。
女性はすぐにこちらを見た。
その視線は鋭いが、驚きはない。
覚えているのだろうか。
アユミは少し離れたところで立ち止まる。
何かを差し出すことも、説明することもせず、ただ口を開く。
「こんばんは」
女性はしばらく黙っていた。
そして、短く言う。
「……あんたか」
声は春より低い。
アユミは小さく頷く。
「はい」
沈黙が落ちる。
先輩たちは少し先で別の人に声をかけている。ここだけ、時間の流れがゆっくりになったように感じる。
女性はアユミの手元を見る。
袋の中のペットボトル。毛布。
その視線に気づきながら、アユミは何も動かない。
渡さない。
それが今の自分にできる距離の取り方だった。
女性は少しだけ口の端を上げる。
「今日は押しつけてこないんだ」
からかうような声。
アユミは正直に答える。
「前、嫌がってたので」
女性は鼻で笑う。
「覚えてたのか」
「はい」
再び沈黙。
川の音が、歩道橋の柱に反射して低く響く。
女性は空を見上げる。雲は低く、街灯の光がぼんやり広がっている。
「別に、あんたが嫌いなわけじゃない」
唐突に言う。
アユミは顔を上げる。
「たださ」
女性は続ける。
「急に来て、“困ってるでしょ”みたいな顔されると、腹が立つ」
その言葉は、静かだった。
怒鳴るわけでもない。説明するような調子でもない。
ただ、事実を置くような響き。
アユミは少し考える。
「……そうですよね」
自分の声が、思ったより素直に出た。
女性はちらりとこちらを見る。
「反論しないのか」
「できないので」
「どうして」
アユミは袋を見下ろす。
「たぶん、そういう顔してたと思うから」
春の夜の自分を思い出す。
毛布を差し出すことに集中していた自分。
困っているはずだと決めていた視線。
女性はしばらくアユミを見ていた。
やがて小さく息を吐く。
「変なやつだな」
「そうかもしれません」
また沈黙が落ちる。
遠くで、先輩の声が聞こえる。夜回りの列はゆっくり進んでいる。
女性は膝を抱え、少しだけ体勢を変える。
「名前は?」
不意に聞かれる。
「アユミです」
「ふーん」
女性はそれ以上何も言わない。
代わりに、アユミの袋をもう一度見る。
「……それ」
指でペットボトルを示す。
「水?」
「はい」
「ぬるい?」
「たぶん、常温です」
女性は少し考える。
そして、視線をそらしたまま言う。
「……余ってるなら」
その言葉は、かすかだった。
アユミは袋からペットボトルを取り出す。
差し出すとき、春の夜の感覚がよみがえる。
けれど今回は、違う。
渡す前に、女性の手を見る。
女性は自分で腕を伸ばし、ボトルを受け取った。
キャップを回し、一口飲む。
「ありがとう」
その言葉は小さい。
でも、確かに聞こえた。
アユミは軽く頭を下げる。
先輩が少し離れたところから声をかける。
「アユミ、大丈夫?」
「はい、今行きます」
女性は水を飲みながら言う。
「もう行きな」
「はい」
アユミは一歩下がる。
「また来ます」
その言葉は、前より自然に出た。
女性は返事をしない。ただ空を見上げている。
夜回りの列に戻りながら、アユミは少し振り返る。
女性はペットボトルを膝の上に置き、静かに座っていた。
拒絶は、終わりではなかった。
それは、境界だったのかもしれない。
越えてはいけない線ではなく、
ゆっくり近づくための距離。
川の流れは、夜の中で低く続いている。
アユミは歩きながら思う。
助けることと、関わることは、同じではない。
そして、関わりは、必ずしも大きな行為から始まるわけではない。
水を一本渡すこと。
名前を聞くこと。
こんばんは、と言うこと。
それだけでも、何かが動くことがある。
夏の空気は重い。
それでも、どこかで風が通り始めている。




