夏 - よっさんの不在
七月の川は、音を低くして流れていた。
春のころは、もう少し軽かった気がする。水面は光を細かく散らし、どこか透明だった。今は違う。濃い影が広がり、流れそのものが重く見える。
夜回りが終わったあと、アユミは一人で川沿いを歩いていた。
メンバーとは駅前で別れた。ミカが「久しぶりに来てくれてよかった」と言ったが、それ以上は何も聞かなかった。
歩道橋をくぐり、少し先へ進む。
柱のそば。
そこは、いつもよっさんが座っていた場所だった。
毛布を敷き、古い文庫本を膝に置き、川の流れを見ている。アユミが近づくと、顔を上げて言う。
――おや、アユミ嬢。
その声が聞こえる気がして、アユミは足を止めた。
しかし、そこには誰もいない。
柱の影が地面に落ちているだけだった。
アユミはゆっくり近づく。
何もない。段ボールも、毛布も、読みかけの本も。
ただ、コンクリートの地面が、夜の湿気を含んでいる。
「……いない」
声に出すと、少し現実味が増す。
当然のことだ。ここにいつもいる保証など、最初からなかった。
よっさんは、この場所の住人ではない。通りすがりのように現れ、通りすがりのように去る人だった。
それなのに、アユミの中では、いつの間にか前提になっていた。
川に来れば、いる。
問いを投げれば、返ってくる。
答えではなく、別の問いが。
アユミは柱に背を預け、川を見た。
水は変わらず流れている。人がいようといまいと、関係なく。
風が少しだけ吹く。湿った空気が動く。
「君はなぜここにいるのかね」
初めて会った夜の言葉が、ふと浮かぶ。
あのとき、アユミは戸惑いながら答えた。
助けたいから。
困っている人がいるから。
あの答えは、嘘ではなかった。
でも、今同じ問いを受けたら、少し違う言葉になる気がする。
「……わからない」
小さく呟く。
川の流れは、答えない。
アユミは膝を抱える。
よっさんに話したかったことがあった。
夜回りで再会した女性のこと。
水を受け取ってくれたこと。
そして、自分の生活のこと。
仕送りの話。
バイトを増やしたこと。
サークルに来られない日が増えたこと。
それを相談するつもりだったわけではない。
ただ、話してみたかった。
よっさんはきっと、すぐには答えない。少し黙って、川を見て、それから言う。
――それで、君はどう思ったのかな。
そう聞かれるだろう。
その問いを想像するだけで、自分の考えが少し整理される。
アユミは、そこまで考えて、ふと気づく。
私は、この人に頼っていたのかもしれない。
相談ではない。
答えでもない。
ただ、問いを返してくれる存在として。
それは、思っていたよりも大きな支えだった。
川の向こう岸で、電車が通り過ぎる。光が水面に揺れる。
アユミは立ち上がる。
数歩歩いて、また振り返る。
やはり、誰もいない。
その不在は、思ったより静かだった。大きな喪失ではない。ただ、足元の地面が少し柔らかくなったような感覚。
支えは、ある日突然消えることがある。
それは特別な出来事ではない。
人は、それぞれの場所へ動く。
よっさんがどこへ行ったのか、アユミは知らない。
もしかすると、明日またここに座っているかもしれない。あるいは、もう二度と会わないかもしれない。
どちらも同じくらいあり得る。
その曖昧さの中で、アユミはゆっくり歩き出す。
夏の夜は長い。空気は重く、虫の声が混じる。
少し先の歩道橋の下に、あの女性がいるかもしれない。
水を渡した人。
名前は、まだ聞いていない。
よっさんは言った。
――関係は、急いで作るものではない。
アユミはその言葉を思い出す。
そして、もう一つ思う。
もし次によっさんに会えたら、聞いてみたい。
あなたは、どうしてここにいるのですか。
その問いは、まだ胸の中にある。
川は流れ続けている。
人がいなくなった場所も、流れの中では同じ夜の一部だ。
アユミは歩く。
揺らぎは、まだ続いている。
そして、たぶんそれは、悪いことではない。




