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よっさん  作者: 斉彬
12/31

夏 - よっさんの不在

 七月の川は、音を低くして流れていた。


 春のころは、もう少し軽かった気がする。水面は光を細かく散らし、どこか透明だった。今は違う。濃い影が広がり、流れそのものが重く見える。


 夜回りが終わったあと、アユミは一人で川沿いを歩いていた。


 メンバーとは駅前で別れた。ミカが「久しぶりに来てくれてよかった」と言ったが、それ以上は何も聞かなかった。


 歩道橋をくぐり、少し先へ進む。


 柱のそば。


 そこは、いつもよっさんが座っていた場所だった。


 毛布を敷き、古い文庫本を膝に置き、川の流れを見ている。アユミが近づくと、顔を上げて言う。


 ――おや、アユミ嬢。


 その声が聞こえる気がして、アユミは足を止めた。


 しかし、そこには誰もいない。


 柱の影が地面に落ちているだけだった。


 アユミはゆっくり近づく。


 何もない。段ボールも、毛布も、読みかけの本も。


 ただ、コンクリートの地面が、夜の湿気を含んでいる。


 「……いない」


 声に出すと、少し現実味が増す。


 当然のことだ。ここにいつもいる保証など、最初からなかった。


 よっさんは、この場所の住人ではない。通りすがりのように現れ、通りすがりのように去る人だった。


 それなのに、アユミの中では、いつの間にか前提になっていた。


 川に来れば、いる。


 問いを投げれば、返ってくる。


 答えではなく、別の問いが。


 アユミは柱に背を預け、川を見た。


 水は変わらず流れている。人がいようといまいと、関係なく。


 風が少しだけ吹く。湿った空気が動く。


 「君はなぜここにいるのかね」


 初めて会った夜の言葉が、ふと浮かぶ。


 あのとき、アユミは戸惑いながら答えた。


 助けたいから。

 困っている人がいるから。


 あの答えは、嘘ではなかった。


 でも、今同じ問いを受けたら、少し違う言葉になる気がする。


 「……わからない」


 小さく呟く。


 川の流れは、答えない。


 アユミは膝を抱える。


 よっさんに話したかったことがあった。


 夜回りで再会した女性のこと。

 水を受け取ってくれたこと。


 そして、自分の生活のこと。


 仕送りの話。

 バイトを増やしたこと。

 サークルに来られない日が増えたこと。


 それを相談するつもりだったわけではない。


 ただ、話してみたかった。


 よっさんはきっと、すぐには答えない。少し黙って、川を見て、それから言う。


 ――それで、君はどう思ったのかな。


 そう聞かれるだろう。


 その問いを想像するだけで、自分の考えが少し整理される。


 アユミは、そこまで考えて、ふと気づく。


 私は、この人に頼っていたのかもしれない。


 相談ではない。

 答えでもない。


 ただ、問いを返してくれる存在として。


 それは、思っていたよりも大きな支えだった。


 川の向こう岸で、電車が通り過ぎる。光が水面に揺れる。


 アユミは立ち上がる。


 数歩歩いて、また振り返る。


 やはり、誰もいない。


 その不在は、思ったより静かだった。大きな喪失ではない。ただ、足元の地面が少し柔らかくなったような感覚。


 支えは、ある日突然消えることがある。


 それは特別な出来事ではない。


 人は、それぞれの場所へ動く。


 よっさんがどこへ行ったのか、アユミは知らない。


 もしかすると、明日またここに座っているかもしれない。あるいは、もう二度と会わないかもしれない。


 どちらも同じくらいあり得る。


 その曖昧さの中で、アユミはゆっくり歩き出す。


 夏の夜は長い。空気は重く、虫の声が混じる。


 少し先の歩道橋の下に、あの女性がいるかもしれない。


 水を渡した人。


 名前は、まだ聞いていない。


 よっさんは言った。


 ――関係は、急いで作るものではない。


 アユミはその言葉を思い出す。


 そして、もう一つ思う。


 もし次によっさんに会えたら、聞いてみたい。


 あなたは、どうしてここにいるのですか。


 その問いは、まだ胸の中にある。


 川は流れ続けている。


 人がいなくなった場所も、流れの中では同じ夜の一部だ。


 アユミは歩く。


 揺らぎは、まだ続いている。


 そして、たぶんそれは、悪いことではない。

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