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よっさん  作者: 斉彬
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春 - 差し出すということ

川沿いに着いたとき、空はまだ明るさを残していた。昼と夜の境目が曖昧な時間だった。


 よっさんは、いつもの柱のそばに腰を下ろしている。毛布の上に、古びた文庫本が開かれていた。


 「おや、アユミ嬢」


 本から目を上げ、穏やかに言う。


 「今日は少し、顔が固いな」


 私はその前に座る。


 「……夜回りで、断られました」


 言葉にすると、胸の奥がわずかにひりつく。


 よっさんは黙って待つ。


 「毛布も、食料も。いらないって。はっきり言われました」


 川を渡る風が、ふたりのあいだを通り抜ける。


 「それで?」


 「それで……何もできませんでした」


 私は膝の上で手を組む。


 「困ってるはずだと思ってました。寒い夜に、外にいるんだから。でも、相手は受け取らなかった」


 少し間を置き、続ける。


 「私、何をしてたんでしょう」


 よっさんは本を閉じ、脇に置く。


 「君は、何をしたと思うのかな」


 また問いだ、と一瞬思う。けれど今日は逃げない。


 「差し出しました。毛布を」


 「それだけかね」


 私は考える。


 「……自分の安心も」


 口にした瞬間、静かに腑に落ちる。


 よっさんは小さく頷く。


 「人は、何かを与えるとき、必ず何かを受け取ろうとする」


 「見返り、ですか」


 「必ずしも金銭や感謝ではない。自己確認かもしれぬ。善良であるという実感かもしれぬ」


 胸がざわつく。


 「じゃあ、私のやってることは、結局自分のためなんですか」


 声が少し強くなる。


 よっさんは静かに首を振る。


 「自分のためであってはならぬ、という発想がすでに極端だ」


 私は息を止める。


 「自分のためであり、同時に他者のためでもある。その混ざり具合を、君はまだ測りかねている」


 川面に光が揺れる。


 「拒まれたとき、何が一番痛んだ?」


 私は目を伏せる。


 「役に立てなかったこと、だと思ってました」


 少し間を置く。


 「でも、拒まれたことも、たぶん」


 「そのふたつは、違う」


 よっさんは言う。


 「役に立たぬことは、能力の問題だ。拒まれることは、関係の問題だ」


 関係。


 私はその言葉を反芻する。


 「君は、関係を結ぶ前に、役に立とうとしたのかもしれぬな」


 その一言が、胸に落ちる。


 夜回りのとき、私は毛布を渡すことに集中していた。女性の顔を、声の奥を、どれだけ見ていただろう。


 「では、どうすればよいと思う?」


 よっさんが問う。


 私は少し考える。


 「……次に会ったら、何も渡さないかもしれません」


 「ほう」


 「ただ、こんばんは、って言うかもしれない」


 よっさんは目を細める。


 「それは、支援かね」


 「わかりません」


 正直に答える。


 「でも、いきなり何かを差し出すより、相手の言葉を聞きたい」


 しばらく沈黙が続く。川の流れだけが一定だ。


 やがて、よっさんはゆっくりと立ち上がる。


 「アユミ嬢」


 私は顔を上げる。


 「君は、助けるとは何かを考え始めた」


 それは、褒め言葉のようでもあり、宣告のようでもある。


 「助けとは、物を渡すことか。状況を変えることか。あるいは、相手の尊厳を守ることか」


 尊厳。


 その言葉は、夜気の中で澄んで響く。


 「拒絶は、尊厳の表明である場合もある」


 私は息を呑む。


 「いらない、と言うことで、自分の立場を守る者もいる」


 あの女性の目がよみがえる。鋭さの奥にあった、揺らがないもの。


 「君が次に差し出すものは、毛布かもしれぬ。言葉かもしれぬ。あるいは、沈黙かもしれぬ」


 よっさんは微かに笑う。


 「大切なのは、君が相手を“決めつけぬ”ことだ」


 春の風が、毛布を揺らす。


 私は立ち上がる。


 「……よっさんは、拒まれたことありますか」


 問い返す。


 彼は一瞬だけ遠くを見る。


 「数えきれぬほど」


 それ以上は語らない。


 「だがな」


 背を向けかけて、言葉を続ける。


 「拒まれることは、対話の終わりではない。入口に立った証であることもある」


 私はその背中を見つめる。


 「入口……」


 「扉は、内側からしか開かぬ」


 そう言って、よっさんはゆっくり歩き出す。


 春の光は、もうほとんど消えている。


 私は川のほうを向く。


 差し出すとは何か。

 助けるとは何か。

 尊厳とは何か。


 問いは増えた。


 けれど、最初に会ったころのような戸惑いだけではない。

 問いを抱えたまま、立っていられる感覚がある。


 春は終わる。


 芽は、まだ形を定めていない。


 それでも、土の中で確かに何かが動いている。


 アユミはゆっくりと歩き出す。

 川の流れは、季節を越えて続いていく。

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