春 - 受け取られない手
その日は、夜回りだった。
炊き出しとは違い、鍋も列もない。駅周辺や高架下を歩き、寝床にしている人に声をかける活動だ。毛布や簡単な食料、相談窓口の案内を持って回る。
四月の夜は、思ったより冷える。昼間のぬるい風は消え、アスファルトがゆっくり熱を失っていく。
アユミは懐中電灯を手に、先輩の後ろを歩いていた。足音がやけに響く。
「無理に渡さなくていいからね」
先輩が小声で言う。
「断られたら、それまで。挨拶だけでも十分だから」
断られる。
その可能性を、アユミはあまり現実的に考えたことがなかった。
高架下の柱のそばに、一人の男性が座っていた。年齢は五十代くらいに見える。段ボールを敷き、ラジオを小さな音で流している。
先輩が声をかけた。
「こんばんは。体調どうですか」
男性は視線だけをこちらに向ける。頷きも、言葉もない。
「少し冷えますね。毛布、ありますけど」
先輩が差し出そうとしたとき、男性ははっきりと首を振った。
「いらない」
低い声だった。
「でも、朝方は――」
「いらないって言ってるだろ」
語気が強まる。
空気が固まる。
アユミの手の中のビニール袋が、かさりと鳴った。
先輩はそれ以上踏み込まなかった。
「わかりました。また来ますね」
穏やかな声でそう言い、軽く頭を下げる。アユミも慌てて同じように頭を下げた。
数歩離れてから、アユミは小声で聞いた。
「どうして……」
先輩は歩きながら答える。
「理由はいろいろ。もう十分持ってる人もいるし、関わられたくない人もいる」
「でも、困ってるんじゃ」
「困ってるかどうかを、こっちが決めるのは難しいよ」
その言葉は、よっさんの問いとどこかで響き合う。
さらに進んだ場所で、今度はアユミが声をかける番になった。
歩道橋の下、壁に背を預けて座る女性がいた。年齢は分からない。髪は短く、目つきが鋭い。
アユミは息を整える。
「こんばんは。寒くないですか」
女性はしばらく無視していたが、やがてゆっくり顔を上げた。
「何」
その一言に、胸が小さく震える。
「毛布や食料をお配りしていて……」
言い終わらないうちに、女性は吐き捨てるように言った。
「いらない」
アユミは、それでも続けようとした。
「でも、夜は冷えるので」
「聞こえなかった?」
視線が鋭くなる。
「いらないって言ってる」
その声には怒りだけでなく、何か別のものが混じっているように感じられた。
拒絶。
アユミは、差し出しかけた手を引っ込める。
「……すみません」
思わずそう言ってしまう。
女性は鼻で笑う。
「謝られる筋合いもない」
ラジオの音が遠くで混ざる。車の走行音が、頭上をかすめる。
アユミは、立ち尽くした。
渡せば、助けになる。
そう思っていた。
けれど、目の前の人は受け取らない。
困っているはずだ、と決めていたのは、自分のほうだったのかもしれない。
先輩がそっと肩に触れる。
「行こう」
歩き出しながら、アユミは振り返る。女性はすでにこちらを見ていない。壁に背を預け、空を見上げている。
活動が終わり、駅へ向かう途中、アユミは口を開いた。
「どうして、あんなに……」
先輩は少し考える。
「何度も裏切られた人もいる。勝手に写真を撮られたり、説教されたり。支援って言いながら、相手を下に見る人もいる」
下に見る。
胸がちくりとする。
「だから、“いらない”って言うことで、自分を守る人もいるよ」
守る。
アユミは、自分の手を見る。
差し出したつもりの手が、押しつけになっていたかもしれない。
その夜、帰り道に川沿いを歩いた。よっさんの姿は見えない。
「困ってるかどうかを、こっちが決めるのは難しい」
先輩の言葉がよみがえる。
助ける側。
助けられる側。
その線引きは、思っていたよりも脆い。
“いらない”と言われたとき、自分の中で何が揺れたのか。
役に立てなかった悔しさか。
拒まれた寂しさか。
それとも、自分の前提が崩れた不安か。
川面に街灯が揺れる。
もし、よっさんがここにいたら、何を問うだろう。
――君は、何を差し出そうとしたのかね。
そんな声が、風の中に混じる。
アユミは立ち止まり、深く息を吸う。
受け取られない手もある。
それでも、手を差し出すことの意味は、ひとつではない。
春は、やわらかいだけの季節ではなかった。




