春 - 返す問い
その日は炊き出しの日だった。
鍋の前に立ちながら、私はいつもよりゆっくり顔を上げた。紙コップを差し出すとき、相手の目を見る。手のかたちを見る。声の調子を聞く。
以前と同じ行為のはずなのに、視界が少し広がっている。
列の端に、よっさんがいた。毛布を肩にかけ、こちらを眺めている。目が合うと、わずかに顎を引いた。
活動が終わり、人の波が引いたあと、私は彼のもとへ向かった。
「今日は、いつもより静かだ」
よっさんが言う。
「みんな、慣れてきたんでしょうか」
「慣れは悪ではない。だが、時に目を曇らせる」
私は少し笑う。
「それ、この前も似たこと言ってました」
「ほう。私は同じことを繰り返す癖があるらしい」
川面が光る。春の匂いが、少し濃くなっている。
私は膝の上で指を組む。
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
よっさんは静かに頷く。
「この前、友達の言葉を大事にしろって言いましたよね」
「言った」
「でも、問いも抱えろって」
「言った」
私は息を吸う。
「よっさんは、どうなんですか」
彼の眉が、わずかに動く。
「どう、とは」
「どうして、ここにいるんですか」
言った瞬間、自分の鼓動がはっきり聞こえた。
よっさんはしばらく黙っている。川の音が、二人のあいだを流れる。
「私はね」
彼はゆっくりと口を開いた。
「風の向くほうへ来ただけだよ」
その答えに、私は思わず眉をひそめる。
「それじゃ、答えになってないです」
自分でも驚くほど、はっきり言っていた。
よっさんの目が細くなる。怒っている様子はない。
「では、アユミ嬢。君は私に、どのような答えを期待しているのかな」
問いで返される。
私は少し考える。
「選んだ理由、とか。事情、とか。ここにいることに意味があるのかどうか、とか」
「意味」
よっさんはその言葉を転がす。
「意味は、後からついてくるものかもしれぬ」
「でも」
私は続ける。
「私には問いを投げるのに、自分のことは曖昧にするのは、ずるい気がします」
言ってから、頬が熱くなる。
よっさんは、ふっと笑った。
「なるほど。ずるい、か」
彼は川を見つめる。
「君がそう感じるなら、私は成功している」
「成功?」
「君が、問いを返すようになった」
その言葉に、私は息を止める。
問いを返す。
これまで私は、答える側だった。揺れながらも、受け取る側だった。
「私はね」
よっさんは続ける。
「ここにいる理由を、ひとつには決めておらぬ」
「決めていない?」
「決めてしまえば、そこに縛られる。事情もある。選択もある。偶然もある。どれも否定せぬ」
彼は私を見る。
「だが、君が問うてくること。それ自体が、私のここにいる理由の一部になる」
私は言葉を失う。
「君が来ぬ日もあるだろう。私がいなくなる日もあるだろう。だが、この川沿いで交わした問いは、君の中に残る」
風が吹き、毛布の端が揺れる。
「問いを投げる者も、また問われる」
彼は静かに言う。
「それが対話というものだ」
私は膝の上の手を見る。
「じゃあ、よっさんは“助けられる側”なんですか」
その問いは、自分でも意図していなかった。
よっさんは少しだけ目を細める。
「面白い」
そして、ゆっくり首を振る。
「立つ位置は、固定されたものではない。今日、君は鍋の前に立った。私は列に並んだ。だが今はどうだろう」
私は彼を見る。
今、問いを投げているのは私だ。
「どちらがどちらとも言えぬな」
彼は満足げに頷く。
「立場は、時に入れ替わる」
その言葉は、静かに胸に落ちる。
私はゆっくり息を吐く。
「……ずるいって言って、すみません」
「謝る必要はない」
よっさんは立ち上がる。
「問いは、遠慮せず投げるがよい。投げられた側が、どう受け止めるかは別の話だ」
彼は背を向ける。
「春は、対話の季節だ」
歩き出す背中を見つめながら、私は気づく。
私は初めて、彼を“問うた”。
そして彼は、完全な答えをくれなかった。
それでも、不思議と不満はない。
川の流れは絶えず動いている。立っている場所も、固定されたものではない。
助ける側、助けられる側。
その境界は、思っていたよりも曖昧だ。
私は立ち上がる。
春の光が、少しだけ強くなっていた。




