春 - ぶつける
三度目に川沿いへ行ったとき、風はやわらいでいた。高架の影も、どこか薄くなっている。
よっさんは、前と同じ場所にいた。毛布の色は相変わらず地面とよく似ているのに、その姿だけが静かに浮かび上がって見える。
「おや、アユミ嬢。今日も散歩かね」
「……はい。でも、今日は話したいことがあって」
私は彼の前に立つ。座るよう促され、段差に腰を下ろした。
少しだけ息を整える。
「友達に、この前の話をしました」
「ほう」
「なんでここにいるのか、とか、助ける側に立てている理由とか」
よっさんは黙って聞いている。
「そしたら、考えすぎだって言われました。やらないよりやったほうがいいって。それ以上でもそれ以下でもないって」
言葉を選びながら、私は続ける。
「私も、それは正しいと思います。お腹が空いている人にご飯を渡す。それでいいじゃないかって」
川面が光を反射する。春の匂いが少し濃くなっている。
「問いを抱えすぎると、動けなくなるって。変に哲学とか考えなくていいんじゃないかって」
私はよっさんを見る。
「……それって、間違ってますか」
よっさんはすぐには答えなかった。しばらく川の流れを眺め、指先で空気をなぞる。
「間違い、という言葉は便利だ」
静かな声。
「人は正誤を決めたがる。そうすれば、立つ場所が定まるから」
彼は私のほうを向く。
「友人の言うことは、実に健全だ。やらぬよりは、やるほうがよい。空腹は、思想よりも先に満たされるべきだ」
私は小さく頷く。
「では――」
彼は続ける。
「君は、なぜそれで満足できぬのかな」
胸の奥が揺れる。
満足できない。
その通りだった。
「……わからないんです」
私は正直に言う。
「やったほうがいいって思うし、実際そうだと思うのに、それだけで終わらせるのが、少し怖い」
「何が怖いのだろう」
問いはやわらかいが、深い。
私は考える。
「自分が安心するためだけにやってるんじゃないかって、思うときがあって」
口に出すと、胸が少し軽くなる。
よっさんは目を細める。
「安心、か」
「役に立てたって思うと、ほっとするんです。それが悪いとは思わないけど……それだけなら、相手のことをちゃんと見てない気がして」
川風が、毛布の端を揺らす。
「君は、友人の言葉を否定したいのかな」
「いえ」
私は首を振る。
「否定したいわけじゃなくて……両方、本当な気がして」
やらないよりやったほうがいい。
でも、それで終わらせたくない。
よっさんは小さく笑った。
「それは結構」
「結構、ですか」
「若い人が矛盾を抱えられるのは、健全な証だ」
彼は少し身を乗り出す。
「動くことと、考えることは、敵ではない。敵にしてしまうと、どちらかがやせ細る」
私は黙って聞く。
「問うことは、足を止めるためにあるのではない。歩き方を変えるためにある」
その言葉は、胸の奥に静かに落ちる。
「では、アユミ嬢」
彼は続ける。
「君は次に鍋の前に立つとき、何を見ようとするかな」
私はすぐには答えられない。
「目の前の空腹だけか。それとも、その人がここに来た経緯か。あるいは、来なかった人のことか」
選択肢が、静かに差し出される。
「全部は無理です」
私はまた同じ言葉を口にする。
「無理だろう」
よっさんはあっさり頷く。
「だが、ひとつでも増やすことはできる」
その言い方は、命令ではない。提案でもない。ただ可能性を示すだけだ。
私は膝の上で手を握る。
「友達は、私が疲れるんじゃないかって心配してくれました」
「それは良い友だ」
「はい」
私は少し笑う。
「だから、問いを抱えることが重荷にならないか、少し不安なんです」
よっさんは川面を見つめる。
「重荷になる問いもある。だが、芽になる問いもある」
「芽」
「春だろう」
彼は言う。
「芽は、土の中で静かに形をつくる。外からは見えぬ。だが、確実に変化は進んでいる」
私はゆっくり息を吸う。
「君が問いを抱えたまま鍋の前に立つなら、それは以前と同じ行為でありながら、同じではない」
同じでありながら、同じではない。
私はその言葉を反芻する。
やらないよりやったほうがいい。
けれど、どうやるかは変えられる。
「……次の活動のとき、少しだけ違う見方をしてみます」
そう言うと、よっさんは満足げに頷いた。
「それで十分だ」
彼は立ち上がる。
「友人の言葉を大切にしたまえ。そして、それでもなお残る違和感も」
毛布を整え、背を向ける。
「違和感は、君の中の誠実さの証かもしれぬ」
その背中がゆっくりと遠ざかる。
私はその場に座ったまま、川の流れを見つめる。
動くことと、考えること。
どちらかを選ぶのではなく、両方を抱えたまま立つこと。
春の空は淡く、境界が曖昧だ。
私もまだ、はっきりとした形を持たない。
けれど、揺れていることだけは確かだった。




