春 - 相談
大学の中庭では、桜がほころび始めていた。満開にはまだ遠い。枝先に淡い色がにじむだけで、全体はどこか頼りない。
私はサークルの部室で、湯気の立つ紙コップを両手で包んでいた。向かいに座るのは、同じ学年の美咲だ。ボランティアサークルに入ってから、一番長く一緒に活動している。
「この前さ、炊き出しのときに話しかけられて」
私はなるべく軽い調子で切り出した。
「話しかけられるって、誰に?」
「ほら、いつも端っこに座ってるおじいさん。ちょっと上品な話し方の」
「ああ、あの人。よっさんって呼ばれてる人?」
名前が自然に出てきたことに、少しだけ驚く。
「うん。その人に、聞かれたの。なんでここにいるのか、って」
美咲は笑った。
「え、面接みたい」
「そうじゃなくて……動機を聞かれた感じ」
私は、あの日のやり取りを簡単に話した。役に立ちたいと答えたこと。助ける側に立てている理由を問われたこと。
話しながら、言葉が自分の中で改めて形を取る。
美咲は少し首をかしげた。
「でもさ、普通じゃない? 役に立ちたいって思うの」
「うん。私もそう思ってた」
「ていうか、そんなに深く考えなくてもいいんじゃない? やらないより、やったほうがいいでしょ」
その言葉は、まっすぐで、迷いがない。
やらないより、やったほうがいい。
私もこれまで、そう考えてきた。
「もちろん、そうなんだけど」
私は紙コップの縁を見つめる。
「助ける側って言われたとき、ちょっと変な感じがして。自分が上にいるみたいで」
美咲は肩をすくめる。
「でも実際、今はこっち側じゃん。大学に通えてて、家もあって。そこは事実でしょ」
事実。たしかに。
「それを自覚するのは悪いことじゃないと思うよ。むしろ、ちゃんと分かってるほうが誠実じゃない?」
誠実、という言葉が引っかかる。
「でもさ、向こうの人たちだって、ずっと“助けられる側”でいたいわけじゃないと思う」
「そりゃそうでしょ。でも今は困ってるから来てるんだし」
美咲はコーヒーを一口飲んだ。
「アユミ、ちょっと考えすぎじゃない?」
その言い方に悪意はない。むしろ心配しているようだった。
「私たちができることって限られてるよ。全部背負おうとしたら、続かないって」
続かない。
それもまた、現実的な言葉だ。
「私、正直さ、ああいう活動ってシンプルでいいと思ってるんだよね」
美咲は窓の外の桜を指さす。
「お腹が空いてる人に、ご飯を渡す。それ以上でもそれ以下でもない。そこに変に哲学とか持ち込むと、動けなくならない?」
哲学。
よっさんの顔が浮かぶ。静かな目。問いの置き方。
「動けなくなる、か……」
私は小さく繰り返す。
もし、問いを抱えすぎたら。もし、自分の立ち位置ばかりを気にしたら。手は止まってしまうのだろうか。
「アユミはさ、真面目なんだよ」
美咲は笑う。
「でもさ、真面目すぎると疲れるよ。私たち、まだ三年だよ? 全部答え出す必要ないって」
その言葉は、やさしい。
全部答えを出す必要はない。
それは、よっさんが言ったことにも少し似ている。ただし、意味の向きが違う。
「……美咲はさ、自分が“助ける側”にいるって言われても、気にならない?」
「うーん」
彼女は少し考える。
「気にならないって言ったら嘘かも。でも、だから何? って感じかな。今はこっち側にいる。それだけじゃない?」
それだけ。
私は頷きながら、どこか納得しきれない自分を感じる。
立っている場所は事実だ。けれど、その理由を問われたとき、私はまだ揺らぐ。
部室の外で笑い声が響く。新入生らしき集団が通り過ぎる。春の空気は軽い。
「よっさんって、ちょっと変わってるよね」
美咲がふと思い出したように言う。
「でもさ、あの人が何言っても、私たちのやってることは変わらないよ」
変わらない。
私はその言葉を胸の中で転がす。
本当に、変わらないだろうか。
問いを抱えたまま鍋の前に立つのと、何も考えずに立つのとでは、見える景色が違う気がする。
「ありがとう。ちょっと、話せてよかった」
私はそう言って立ち上がる。
部室を出ると、桜の枝先が風に揺れている。花はまだまばらだ。けれど確実に、咲く準備をしている。
やらないより、やったほうがいい。
全部答えを出す必要はない。
そして、なぜここにいるのか。
なぜ助ける側に立てているのか。
いくつもの言葉が、胸の中で並んでいる。
私はまだ、どれを選ぶか決めていない。
それでも、選ばないまま歩くことはできる。
春は、まだ始まったばかりなのだから。




